翌朝、村を出る頃には、空はよく晴れていた。
碧光の森を抜ける風はまだ冷たかったが、昨日までのような重苦しさは薄れている。もちろん、異変そのものが消えたわけではない。首なき守護騎士は倒れ、祠はひとまず静まった。だが、あの冷たい結びつきの正体も、祠の奥に眠るものも、何ひとつ解決してはいない。
それでも、足を前へ出す理由としては十分だった。
セレンとフィリアは、翠都へ続く街道を並んで歩いていた。
森を抜けた先には、なだらかな丘陵と草原が広がっている。遠くには川が光り、その向こうには薄く山並みが見えた。木柵に囲まれた小さな畑、街道脇の祈り石、旅人のための井戸。人の手が入った風景が少しずつ増えていく。
「……やっぱり変」
しばらく歩いたあと、フィリアがぽつりと言った。
セレンが彼女を見る。
「何がですか」
「あなた」
即答だった。
「翠の国のこと……ううん、“巳の大陸”のことも本当に何も知らないんだね」
「ええ」
セレンは素直に頷いたあと、わずかに言葉を足した。
「申し訳ありません。聞いてばかりになりますが、教えていただけると助かります」
フィリアは半眼になった。
「そこまで素直に言われると、逆に怒れないんだけど」
「それは、助かります」
「助かります、じゃないの」
呆れたように言いながらも、フィリアの声音はそこまで険しくなかった。
完全に追及する気はないらしい。セレンが“変な奴”であることは、もう半ば受け入れているのだろう。
街道の先を見ながら、フィリアが口を開いた。
「じゃあ、本当に一番最初から話す」
「お願いします」
「私たちがいるこの世界の大きな舞台が、“巳の大陸”」
フィリアは歩きながら、周囲を軽く示した。
「いくつかの国と、もっと外れの土地と、魔物の棲む領域と、そういうのをまとめてみんなそう呼んでる」
セレンはその名を心の中で繰り返した。
「巳の大陸……」
「うん。そして今いるのが、その中の翠の国の辺境」
フィリアは頷いた。
「森と川と丘が多い国。薬草、木工、狩猟が盛ん。大きな町もあるけど、辺境はこんな感じで小さな村が多い」
セレンはその言葉を頭の中で整理する。
「そして、向かっているのが翠都」
「そう。翠の国の中心」
フィリアは頷いた。
「私も今はそこを拠点にしてる。教会の支部もあるし、勇者としての報告も基本はそこで受けるから」
「勇者は、各国に一人いるわけではないんですね」
「……うん?」
フィリアは少し驚いた顔をした。
「そこからなの?」
セレンは少しだけ気まずそうに目を伏せた。
「すみません……」
フィリアは空を仰ぎ、それから諦めたように息を吐いた。
「勇者は国ごとじゃなくて、聖剣に選ばれた人」
言いながら、自分でも当たり前のことを説明している感覚があるのだろう。少しだけ言い回しが慎重になる。
「教会が管理していた聖剣に認められたら、その人が勇者になる。だから、何人もいるものじゃないし、逆に長いあいだ誰もいない時期もある」
「なるほど」
セレンは頷いた。
「では、フィリアが唯一の勇者なんですね」
「今は、そう」
フィリアはきっぱりと言った。
「少なくとも、私はそう教わってきたし、自分でもそう思ってる」
その言い方に迷いはなかった。
教会を疑っているわけではない。勇者であることも、それを教会に認められたことも、彼女の中ではまだ誇りの側にある。
街道脇の草むらに目をやると、細長い葉の間に、小さな青い実がいくつもなっているのが見えた。セレンは足を止め、しゃがみ込む。
「なにしてるの」
「食べられる可能性があります」
「可能性?」
セレンは青い実をひとつ摘み取り、指先で軽く潰した。爽やかな香りが広がる。さらに目を閉じ、わずかに呼吸を整える。
フォースに意識を沈める。
この世界の命の流れは、銀河で感じてきたものとは少し違う。だが、生きているものが持つ澄んだ脈動と、毒や腐りが帯びる鈍い濁りには、やはり差がある。
微かな反応を確かめてから、セレンは目を開けた。
「問題ありません」
「……今、何したの」
「少しだけ確かめました」
「少しだけって顔じゃなかったけど」
「安全な方がいいので」
フィリアがしゃがみ込んで覗き込む。
「そんなのまで分かるんだ」
「ある程度は」
「なんかもう、森で育った人みたい」
「旅の途中で役立ちますから」
フィリアは実をひとつ受け取りながら言う。
「あなた、やっぱり旅慣れすぎじゃない?」
少し首を傾げる。
「知らないことは本当に何も知らないのに、野宿とか食べられる草とか、そういうのはやけに迷いがないし」
セレンは少しだけ考えた。
「必要だったのでしょう」
「誰に?」
「……以前の僕に、ですかね」
フィリアはその答えに少しだけ首を傾げたが、深くは聞いてこなかった。
代わりに、摘んだ実を口に入れ、少しだけ目を見開く。
「甘い」
「ええ」
「悔しい」
「なぜですか」
「私、辺境育ちなのに知らなかったから」
フィリアは実をもう一つ摘み取る。
「ほんと、変なところで頼りになる」
その言葉に、セレンは何も返さなかった。
ただ、ほんの少しだけ目を細めた。
フィリアは摘んだ青い実をもう一つ口に入れてから、ふとセレンの腰元へ目をやった。
「……そういえば」
「はい」
「あなたのそれ、前からずっと気になってた」
セレンが視線を落とす。腰に下げた、見慣れぬ金属の柄。
「その、光る剣みたいなもの」
フィリアは少し言いにくそうに続けた。
「何なの?」
セレンは一瞬だけ考えた。
「剣、ではあります」
「いや、そういうことを聞いてるんじゃなくて」
フィリアが眉を寄せる。
「魔法剣、みたいなもの?」
「魔法……」
セレンは少しだけ首を傾げた。
「この世界には、そういうものがあるんですか?」
「あるけど」
フィリアは即座に返し、それから呆れたように息を吐く。
「今はそこじゃないでしょ。あなたのその剣の話」
セレンはわずかに目を細めた。
「そうですね。分かりやすく言うなら、高熱を纏う魔法剣のようなものだと思ってください」
フィリアは半眼になった。
「分かりやすく言ってるようで、全然分かりやすくないんだけど」
「そうでしょうか」
「そう」
フィリアは即答した。
「でも、普通の剣じゃないってことだけは分かった」
セレンは腰の柄へ、ほんの少しだけ視線を落とした。
「これは、僕にとって特別なものです」
声音が、わずかに柔らかくなる。
「幼い頃から、ずっと憧れていたので」
フィリアが瞬きをする。
「憧れ?」
「ええ」
セレンは静かに頷いた。
「師が持っていたものと同じだからです」
その言い方は、いつもの落ち着いた調子と少しだけ違っていた。
硬いだけではない、隠しきれない敬意と、どこか少年めいた熱が滲んでいる。
フィリアはその変化に、少しだけ面食らったようにセレンを見る。
「……そういう顔、するんだ」
「何か言いましたか」
「ううん、別に」
フィリアは視線を逸らし、それから小さく肩を竦めた。
「でも、そんなもの持ってる時点で、やっぱりあなた、ただの旅人じゃないわよね」
セレンは否定しなかった。
「そうかもしれません」
その返答に、フィリアは小さく鼻を鳴らす。
「そこは否定しないんだ」
昼過ぎ、二人は街道脇の大きな石の影で小休止を取った。
村でもらった干し肉と硬いパン、それに沢で汲んだ水。豪華ではないが、旅の食事としては十分だ。フィリアはパンを齧りながら、地面に小枝で簡単な図を描き始めた。
「せっかくだから、大まかな地理も説明しとく」
「助かります」
彼女が描いたのは、歪ではあるが分かりやすい地図だった。
「ここが翠の国」
小枝が南東の一角を示す。
「私たちがいたのはその辺境。そこから今、北西寄りに進んで翠都へ向かってる」
「ええ」
「南西にあるのが蒼海連邦」
彼女は別の場所を囲む。
「港と島の国。海運と漁業と交易の中心。人も物も金も集まるから、情報が欲しいならあそこが一番早い」
セレンはその名を繰り返した。
「蒼海連邦」
「うん。大市場もあるし、商人も多い。逆に、裏の流れも多いけど」
フィリアはそこで少しだけ口元を引き締めた。
「北には玄鋼王国」
フィリアの小枝が、地図の上側をなぞる。
「鉱山と鍛冶の国。鎧とか剣とか、大砲みたいなものまで作ってる。魔国に近いから、一番戦いの匂いが強い場所」
「魔国」
「うん」
フィリアは一度、手を止めた。
「教会では、魔王がいて、魔物を率いて、人を脅かしてる国だって教えられる」
言い回しはそのまま信じている者のものだった。
ただ、祠とアンデッドの件を経て、以前よりも少しだけ“教わったこと”として口にしている。まだ疑ってはいない。だが、盲目的とも少し違う。その変化は小さいが、確かにあった。
「そして、この真ん中」
彼女が最後に描いたのは、小さな円だった。
「白聖国。大陸の中心にある小さい国だけど、聖導教会の総本山がある」
セレンは地図を見つめる。
「白聖国……」
「そこに白天大聖堂がある」
フィリアは続けた。
「教会の中心。教皇がいて、その下で福神官が実務を取りまとめてる。地方の教会や騎士は、結局みんなそこに繋がってる」
教皇。福神官。
その響きに、セレンの胸の奥がわずかに冷えた。
元老院。最高議員。
銀河の秩序を語りながら、裏で戦争を操り、最後には皇帝を名乗ってジェダイを滅ぼした男。
肩書や制度そのものが悪なのではない。だが、大きすぎる権威が一つの中心へ集まる時、そこに何が隠れるのかを、セレンは知ってしまっている。
「セレン?」
フィリアが不思議そうに顔を覗き込む。
「なに考えてるの」
「……大きな組織には、大きな力が集まるのだろうと」
率直に言うと、フィリアは少しだけ首を傾げた。
「それはそうだと思うけど」
彼女はすぐに言葉を続ける。
「でも、だから悪いってわけじゃないよ。教会があるから助かる人もいるし、辺境だって本当ならもっと大変なことになってる」
その声音には、まだはっきりとした信頼が残っていた。
「祈りも、治療も、勇者も、全部そこに繋がってる」
フィリアは地図の中央を軽く叩く。
「教会があるから、みんな救われるって信じてる人は多いし、私も……そう思ってる」
セレンはその言葉を静かに受け止めた。
今はまだ、そこでぶつけるべき考えではない。
彼女が信じてきたものを、異世界から来た自分が軽々しく断じるべきではないと分かっていた。
「この世界の人たちにとって、教会は必要な力でもあるんですね」
「うん」
フィリアは短く答えた。
「だから、勇者だって意味がある」
彼女の目は真っ直ぐだった。
そこにあるのは、制度への盲信というより、自分が背負っているものへの責任感だった。
「私は、教会に選ばれたことを誇りに思ってる」
フィリアは小さく息を吐く。
「だからこそ、ちゃんと役に立ちたい」
セレンはその言葉に、ゆっくりと頷いた。
「それでいいと思います」
フィリアは少しだけ目を細めた。
「セレンは、もっと何か考えてそうなのに」
「考えてはいます」
「やっぱり」
「ですが、今は聞く側ですから」
その返答に、フィリアは小さく笑った。
「そういうところ、ちゃんと分かってるんだ」
「努力はしています」
「うん。そこは認める」
休憩を終え、再び街道を歩き始めた頃には、陽は傾き始めていた。
丘を越えた先で、遠くに白い壁のようなものが見える。まだ豆粒ほどの大きさだが、人の営みが集まる場所の輪郭だと分かる。
フィリアが立ち止まり、その方向を指さした。
「見える?」
「ええ」
「まだ遠いけど、あれが翠都」
彼女は少しだけ誇らしげに言った。
「私の今の拠点」
セレンはその白い輪郭を見つめた。
あの場所に、教会の支部がある。
勇者フィリアの日常がある。
そして、祠と異変の手掛かりもきっとある。
「……不思議」
フィリアがぽつりと呟いた。
「何がですか」
「翠都に戻るの、いつもは一人だったから」
彼女は前を向いたまま言う。
「誰かとこうして並んで戻るの、久しぶり」
セレンは少しだけ目を細めた。
「……僕には、少し懐かしく感じます」
「懐かしい?」
フィリアが振り向く。
「以前は、師と旅をしていました」
セレンは静かに答える。
「こうして誰かと並んで歩くことも、その頃は当たり前だったので」
フィリアはその横顔を少しだけ見つめ、それから前を向いた。
「そっか」
街道の先、翠都は夕日に淡く照らされていた。
まだ距離はある。だが、もう見失うことはない。
勇者の仕組み。教会の在り方。大陸の形。
この世界の輪郭を少しずつ知りながら、セレンはその道を歩いていく。
見知らぬ世界で、それでも進む理由は、もう十分にあった。