暗い。蛍光灯の光はまばらで、影の方が支配している空間だった。静まり返った迷路の中で、自分の足音だけがやけに大きく響いているように感じる。
伽羅を引き寄せ、その隙を突いてゴール方向へ抜ける。それが幽鬼の作戦だった。
幽鬼は足を止め、光の届かない壁際の影にしゃがみ込んだ。
呼吸を殺し、気配を消す。正面から戦っても勝てないことはすでにわかっている。
これまで何度も攻撃の機会はあったはずなのに、そのすべてを伽羅はまるで最初から存在しなかったかのようにすり抜けてきた。避けているのではない。当たらない位置に“最初からいた”としか思えない動きだった。
逃げることも、おそらくできない。今は静かだ。音も、気配もない。だがそれでも、確信だけがあった。近くにいる。
幽鬼は意識的に呼吸を整える。音を立てないように浅く、細く吸って吐く。普段なら無意識にできているはずの動作が、今はやけに難しい。肺がうまく動かない感覚に、わずかな焦りが混じる。
そのとき、わずかな音がした。
タン、と小さく乾いた音。
ほんのわずかなものだったが、聞き逃すことはなかった。距離は近い。そこから先、音は消えたが、それでも分かる。いる。確実に、こちらを探している。
幽鬼はナイフを握り直した。先ほど伽羅が投げたものを拾っておいたのだ。冷たい金属の感触が、思考を現実に引き戻す。
ガシュッ、と矢の射出音が響いた。
この周辺には罠が密集している。ワイヤートラップが二つ、落とし穴が一つ。そしてこの通路へ入るルートには必ず一つずつ仕掛けがある。死んだとは思えないが、何かには引っかかったようだ。
幽鬼は動かない。音のした方向を確認にも行かない。ただ待つ。自分の間合いに入ってくる瞬間を。そのときに一撃だけ入れて、そのまま抜ける。
ガシュッ、ガシュッ、と続けて矢の音が鳴る。さっきよりも近い。
二発。出血が増えているのか、それとも――。
さらに音が重なる。ガシュッ、ガシュッ、ガシュッ、と断続的に続き、その間隔が徐々に短くなっていく。確実に近づいてきている。しかも迷いがない。
出血量も増えているように聞こえる。罠に引っかかったのか、それとも傷を気にせず動いているのか。
だが、その量が明らかにおかしかった。
多すぎる。
ここまで連続して矢が反応するほどの出血は、通常ではあり得ない。違和感が、はっきりとした形を持ち始める。
そのときだった。
「幽鬼!!」
背後から御城の声が響いた。
反射的に振り向いた瞬間、目の前にナイフがあった。とっさに体を起こし、転げるように回避する。刃が頬をかすめ、熱が走る。
幽鬼はすぐに走り出した。矢の音がしない方向へ。
――誘導された。
そう理解したときにはすでに遅かった。背後からナイフが飛んでくる。体をひねって避けると、パン、と破裂音が鳴った。
前方と横から同時に矢が射出される。
血だ。袋に入れられた血液が、ナイフで壁に固定されていた。衝撃で破裂し、床に広がる。先ほどの異常な矢の連続も、おそらくこれだ。血を少しずつ垂らす仕掛けをして、位置を偽装していた。
最初から、すべて仕組まれていた。
狩っているつもりで、狩られていたのは自分の方だった。
「幽鬼さん!」
前方の曲がり角に、金子がいた。
近くにいたのか、と一瞬だけ思うが、すぐにそちらへ走る。迷いはない。
背後から気配が迫る。伽羅だ。そのさらに後方で、御城が懐に手を入れているのが見えた。銃を取り出そうとしている。
その瞬間、伽羅が振り返った。ナイフを投げる。
御城はそれを避けながら、それでも取り出そうとする。
だが、手には何もなかった。
バンッ、と銃声が響く。
振り向くと、金子が銃を構えていた。小さな手がわずかに震えている。
それでも、その指は確かに引き金を引いていた。
銃声の余韻が残る中、伽羅の体は糸が切れたように崩れ落ちる。頭部から血が広がり、赤がゆっくりと床を染めていった。
その場に、静寂が戻る。
「やりましたわ」
御城の声だけが、やけに落ち着いて響いた。
(12/20)
そこには、確かに伽羅の死体があった。頭部を撃ち抜かれ、ぴくりとも動かない。
よく当てたものだ、と幽鬼は思う。銃は経験がなければ狙って当てることすら難しいはずだ。それなのに、金子は一発で急所を撃ち抜いた。
幽鬼は金子の横顔を見る。もしかしたら、この少女は――狙撃に関しても、異常なほどの才能を持っているのかもしれない。
「行きましょうか、幽鬼さん」
何事もなかったかのように、金子は言った。そのまま、ゴールのある方向へ歩き出す。声にも、足取りにも、迷いはなかった。
「金子さん。ここまでうまくいくとは、正直思っていませんでした。貴方のことを少し――いえ、かなり見直しましたわ」
御城がそう言うと、金子は振り向きもせずに答えた。
「ありがとうございます」
短い返答だった。感情の揺れはほとんど感じられない。
御城は金子から銃を受け取り、そのまま先へ進む。
――そのときだった。
どこかで、音がした。
銃声。
一瞬、何が起きたのか理解が追いつかなかった。
目の前にいたはずの金子の姿が、視界から消える。
次の瞬間、幽鬼の目前に――伽羅色の影が立っていた。
反射的に、ナイフを振るう。首を狙った一撃だった。
だが。
手応えがおかしい。
肉を断つ感触ではない。まるで、鉄でも切りつけたかのような、異様に硬い感触が刃を通して伝わってくる。
御城が即座に銃を構え、間髪入れずに二発撃ち込んだ。
弾丸は、頭部に命中したはずだった。
だが――
弾かれた。
乾いた音とともに、弾丸は跳ね、闇の中へと消えていく。
あり得ない。
そう思うよりも早く。
腹に、熱が走った。
遅れて、理解する。
斬られた。
視界の端で、影が動く。
次の瞬間。
御城の右腕が、宙を舞った。
(13/20)
次の瞬間、迷路の壁という壁から、示し合わせたかのように一斉に矢が射出された。乾いた音が連続して響き、空気が張り詰めるどころか、空間そのものが裂けていくような錯覚すら覚える。
幽鬼は反射的に体をひねったが、完全には避けきれない。腕に二本、深く突き刺さり、鈍い衝撃とともに遅れてやってくる痛みが神経を焼くように広がった。だが、その痛みに意識を割く余裕はなかった。
視線の先で、同じように無数の矢が伽羅へと殺到している。これだけの密度、この距離、この速度――普通の人間であれば、回避どころか認識すら間に合わないはずだった。
それでも。
伽羅は、動かなかった。
避けようとする素振りすら見せず、ただそこに立っている。にもかかわらず、矢は一本としてその体に突き刺さらない。金属を叩きつけたような硬質な音が連続し、すべての矢が弾かれて床や壁へと逸れていく。
その光景は、防いでいるというより、拒絶しているようだった。まるで「効かない」と決まっているかのように、攻撃という概念そのものが通用していない。
異様だった。
このゲームの前提は「血を流せば矢が飛ぶ」という単純な因果にある。だが目の前の存在は、その因果の外側にいる。罠も、ルールも、危険も――すべてが意味を持たない場所に立っている。そうとしか思えなかった。
耳に入り込んでくるのは、荒い呼吸音。いや、正確には呼吸ではない。喉の奥で血が泡立つような、濁った音だ。ぐぐ、と湿った音が混じり、空気を吸うたびに液体が絡む。生きている音でありながら、同時に壊れていく音でもある。それが、すぐ近くから聞こえていた。
矢の射出は止まらない。ガシュッ、ガシュッと断続的に続き、床に落ちた血に反応しているのか、その頻度はむしろ増しているように感じられる。血が呼び水になり、さらに血を呼ぶ。迷路そのものが獲物を削り取ろうとしているようだった。
このままでは、確実に消耗する。幽鬼も、御城も、いずれ動けなくなる。
だが――。
その中心に立つ伽羅だけは、違った。
矢の雨の中にいながら、まるで関係がないかのように、ゆっくりと首を傾ける。その仕草は無邪気で、状況の深刻さとはまるで噛み合っていない。血の匂いも、悲鳴も、痛みも、すべてがただの「遊び」の一部に過ぎないとでも言うように。
この迷路の中で、唯一ルールに縛られていない存在。
――例外。
その言葉が、これ以上なく正確に当てはまっていた。