幽鬼は腹を押さえたまま、半ば転がるように走り出した。刃が届いた瞬間、ほんのわずかに体を引いたことで、致命傷だけは避けられている。だが、それでも深い。手のひらに伝わる感触だけで、どれだけ裂けたのかがわかる。
本能的に、力を込める。
指が白くなるほどに腹部を押し込み、血を外へ出さないように封じる。強く、さらに強く。感覚が鈍くなり、痛みすら遠のいていくほどに締め上げる。
それでも、完全には止まらない。
走るたびに、わずかに圧が抜ける。
そのたびに――ぽた、ぽた、と。
血が落ちる。
そして即座に、反応する。
ガシュッ、と短い破裂音。壁のどこかから矢が射出され、幽鬼の軌道をなぞるように追ってくる。一本では終わらない。二本、三本と増え、まるで「流れた血の量」を正確に測っているかのように、攻撃の密度が上がっていく。
避けながら、抑えながら、それでも前へ進むしかない。
背後から、足音が聞こえる。
一定のリズム。
焦りも、乱れもない。
ついてきている。
振り返らなくてもわかる。あれは逃げる対象ではない。追う側の足音だ。遊びの延長で、獲物を追い詰める捕食者のそれ。
御城と金子の姿は、もう視界にない。
置き去りにした。
――いや、結果的にそうなった。
あの状況で三人が固まっていれば、まとめて潰されていた可能性が高い。そう理解しているのに、それでも頭のどこかで、あの二人の状況を考えてしまう。生きているのか。動けるのか。
だが、すぐに思考を切り捨てる。
仮に生きていたとしても、今のあれに対抗できるとは思えない。さっきのような偶然の連携を、もう一度期待するのは現実的ではなかった。
――ズルい。
思わず、心の中で吐き捨てる。
攻撃が通らない。
それだけで、戦いは成立しない。
目で追えないほどの気配遮断。無駄のない動き。反応の外から差し込んでくる攻撃。それだけでも十分に致命的だというのに、その上で「当たっても効かない」という前提が重なっている。
体内に埋め込まれた装甲。
頭部、首、胴体。急所という急所はすべて潰され、それ以外の部位にも均等に仕込まれているのが、さっきの手応えで理解できた。あれは「防具」ではない。肉と一体化した、もう一つの構造だ。
人間の形をしているだけの、別の何か。
気づけば、進んでいる方向が変わっていた。
ゴールを目指していたはずなのに、いつの間にか、その逆へと追い込まれている。逃げることに集中するあまり、位置の把握が曖昧になっていた。
まずい。
そう思った瞬間。
ぽちゃん、と。
足元で、異質な音がした。
水音。
だが、この迷路に水などない。
反射的に視線を落とす。
――赤い。
足元に広がっていたのは、水ではなかった。
血だ。
冷たい感触が靴越しに伝わる。踏み込むたびに、ぬるりとした抵抗が足を絡め取る。
視線を上げる。
そこには、倒れた花嫁たちがいた。
一人や二人ではない。
何人も、何十人も。
白かったはずの衣装は、すべて同じ色に染まり、誰が誰なのかも判別がつかない。折り重なるように倒れ、動かないそれらが、床の起伏を作っているようにすら見える。
カーペットが盛り上がっているのかと錯覚するほどに、赤が連なっている。
(14/20)
「私の腕……私の腕を……」
御城は、陸に打ち上げられた魚のように体を跳ねさせた。切断された右腕の喪失は、痛みというよりもまず「あるはずのものがない」という違和感として脳を混乱させる。だが次の瞬間には、遅れてきた激痛が神経を焼き、思考をかき乱した。
それでも、止まるわけにはいかない。
立ち止まった瞬間に、終わる。
御城は歯を食いしばり、転がるように体勢を立て直した。足元では、絶え間なく矢が床を叩き、壁から放たれるたびに空気を裂く音が鼓膜を震わせる。規則性はある。だが完全ではない。わずかなズレがあり、そのズレが死を引き寄せる。
だから、読む。
壁に空いた無数の小さな穴。角度。高さ。視界に入る情報を一瞬で組み立て、最も射線が薄くなる位置を選び続ける。
その背中で、ぬるりとした感触が揺れた。
水音。
いや、血だ。
「っ……」
金子の体を背負い直す。軽いはずなのに、今はやけに重く感じる。片腕しか使えないことでバランスが崩れ、わずかな体勢の乱れがそのまま致命的な隙になる。
だが、下ろすという選択肢はなかった。
耳元で、かすかな音がする。
ぐぐ、と。
泡立つような、濁った音。
金子の口から漏れている。
暗闇の中で細かい状態までは見えない。だが、その音だけで十分だった。内側がやられている。肺か、気道か、あるいはその両方。吐き出されるはずの血液を無理やり飲み込んでいるのだと、すぐに理解できた。
出せば、終わる。
床に落ちれば、その瞬間に矢が殺到する。
だから、飲み込んでいる。
自分の命を削りながら。
「幽鬼さん……の、もとへ……」
かすれた声が、背中越しに届く。
御城は一瞬だけ目を伏せた。
「行けるわけがないでしょう」
吐き捨てるように言いながらも、その声にはわずかな揺れが混じる。
「状況が見えていませんの? あの化け物と合流するなど、自殺と同義ですわ。諦めて――ゴールへ向かいます」
言葉は冷静だった。合理的で、間違っていない。
それでも。
背中から、微かな力が伝わってくる。
掴む力。
離さないという意思。
「御城さん……」
息が詰まるような音とともに、言葉が紡がれる。
「約束、しましたよね……」
その一言で、御城の足がわずかに鈍った。
「貴方が……ゲームをクリアするためには……」
言葉が途切れる。
喉の奥で、また泡が弾ける音がした。
「私に……絶対に従わないと……いけない、って……」
御城は、無言のまま前を見た。
矢が飛ぶ。
足元で血が跳ねる。
視界の端で、誰かの死体が崩れる。
それでも。
背中にいるこの少女だけは、まだ「死体ではない」。
泡音が、もう一度、耳元で鳴った。
誰かの言葉を幽鬼はなぜか今思い出す。
こんな状況で、他のことを思い出している余裕など、本来あるはずがない。足元は血に沈み、背後にはあの“例外”が迫っている。少しでも判断を誤れば、それで終わる。
それでも――なぜか。
頭の奥で、声が蘇る。
暖かい。
足元の冷たい血とはまるで違う、体の内側からじわりと広がるような温度。どこか遠く、しかし確かに自分の中に残っている記憶。
「殺人鬼とは戦うな」
白い髪の女が、淡々とした口調で言った。
誰だったか。
思い出そうとしても、輪郭が曖昧だ。顔も、声も、名前すらもはっきりとしない。ただ「白い髪」という印象だけが、やけに鮮明に残っている。少なくとも、この世界に来てから出会った誰かであるはずなのに、その記憶だけが妙に遠い。
「この世界の人間は基本的には、生き延びるためにゲームに参加する」
声は続く。
「元の世界に帰るために。でも――例外もいる」
その言葉に、幽鬼の中で何かが重なる。
今、目の前にいる存在。
「ゲームが好きで居心地の良さを感じている人間。帰りたくない人間。人殺しに取りつかれた人間。この世界に長く居座ったせいで壊れた人間……」
そして。
「最初から壊れている殺人鬼」
あのとき、自分はどう答えたのか。
「関係ないですよ」
軽く、笑っていた気がする。
「私だってそれなりにやれるようになってきましたし、殺人鬼相手でも十分戦えます」
根拠はなかった。
だが、否定する理由もなかった。
生き延びてきた実感があったからだ。ゲームの中で読み合い、判断し、最適解を積み重ねてきた。その延長線上に“殺人鬼”がいるのなら、同じ土俵で戦えるはずだと、そう思っていた。
だが。
「幽鬼」
白い髪の女は、静かに言った。
「奴らは、私たちと同じ土俵にいない」
その言葉の意味を、今なら理解できる。
「価値観が違う。前提が違う。思考の組み立て方そのものが違う」
「私たちが“合理”だと思っていることも、奴らには何の意味もない」
――だから。
「読み合いが成立しない」
あのときは、よくわからなかった。
「師匠は出くわしたことがあるんですか?」
軽い興味で聞いたはずだ。
「ああ」
短く、返ってきた。
それ以上は語らなかった。
ただ一言だけ。
「だから、同じゲームには参加しないようにしている」
「だから毎回、会場に入るのが遅いんですか?」
その問いに、女は答えなかった。
――沈黙。
その沈黙の意味を、考えたことはなかった。
だが、今ならわかる。
あれは“語れない”のではなく、“語る必要がない”沈黙だったのだと。
逃げるしかない相手。
それ以上でも、それ以下でもない。
――なのに。
幽鬼は、走りながら薄く笑った。
「……戦うな、か」
腹を押さえる手に、さらに力を込める。
血が、また一滴落ちる。
すぐに矢が反応する。
それでも。
足は、止まらない。
「無理だろ、それは」
もう、同じゲームに入ってしまっているのだから。
伽羅がたどり着いたとき、そこには幽鬼はいなかった。
赤い。
視界のすべてが、同じ色に塗りつぶされている。折り重なった死体。潰れた花嫁衣装。乾ききっていない血が、床と区別のつかない層を作り、足を踏み入れるたびにわずかに沈み込む。
「いないのかあ」
拍子抜けしたように、伽羅は小さく呟いた。
だが、その声に焦りはない。
隠れているだけだと、最初から決めているようだった。
「こういうとこ、好きそうだもんね」
軽く笑う。
死体の山。その陰。血の匂いと温度に紛れれば、確かに気配は薄れる。肉を壁にして、タイミングを見て飛び出す。単純だが、この状況では有効な手だ。
矢の音は、聞こえない。
あれだけ鳴り続けていた射出音が、ここでは完全に途絶えている。
伽羅はほんのわずかに首を傾けると、指先にナイフの刃を当てた。ためらいもなく、皮膚を浅く切る。赤い線が浮かび、すぐに血が滲む。
そのまま、指を軽く振る。
ぽた、と一滴。
血が床に落ちた。
――だが。
何も起こらない。
矢は射出されなかった。
「へえ」
興味深そうに、目を細める。
床はすでに血で覆われている。新しく落ちた一滴は、その中に溶けるように混ざり、境界を持たない。反応するための“基準”が失われているのだとすれば、矢が動かないのも説明がつく。
「なるほどね」
小さく納得したように呟き、伽羅は一歩、踏み出した。
ぐしゃり、と。
足元で何かが潰れる感触があったが、気にする様子もない。
むしろ、確かめるように、わざと強く踏み込む。
「じゃあ、ここは安全地帯ってことか」
その結論に至るまでに、迷いはなかった。
もっとも――。
“安全”という言葉の意味が、一般的なそれと同じかどうかは別として。
伽羅はゆっくりと歩き出した。
気をつける必要など、本来ない。
だが、それでも足取りはわずかに慎重だった。
それは警戒というよりも、遊びの延長に近い。どこに何が隠れているのかを探る、その過程自体を楽しんでいるような動き。
足元の死体を、軽く蹴る。
転がる。
裏返る。
その下に、何かが潜んでいないかを確認するために。
一つ。
また一つ。
蹴り飛ばしながら、進む。
「どこかなあ」
声は明るい。
探しているのは敵ではなく、玩具のようだった。
死体の山の奥へ、さらに踏み込んでいく。
血の海の中を、迷いなく。