今際の国で飯を食う。   作:有栖結華

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すぺえどのさん(5)

幽鬼は腹を押さえたまま、半ば転がるように走り出した。刃が届いた瞬間、ほんのわずかに体を引いたことで、致命傷だけは避けられている。だが、それでも深い。手のひらに伝わる感触だけで、どれだけ裂けたのかがわかる。

本能的に、力を込める。

指が白くなるほどに腹部を押し込み、血を外へ出さないように封じる。強く、さらに強く。感覚が鈍くなり、痛みすら遠のいていくほどに締め上げる。

それでも、完全には止まらない。

走るたびに、わずかに圧が抜ける。

そのたびに――ぽた、ぽた、と。

血が落ちる。

そして即座に、反応する。

ガシュッ、と短い破裂音。壁のどこかから矢が射出され、幽鬼の軌道をなぞるように追ってくる。一本では終わらない。二本、三本と増え、まるで「流れた血の量」を正確に測っているかのように、攻撃の密度が上がっていく。

避けながら、抑えながら、それでも前へ進むしかない。

背後から、足音が聞こえる。

一定のリズム。

焦りも、乱れもない。

ついてきている。

振り返らなくてもわかる。あれは逃げる対象ではない。追う側の足音だ。遊びの延長で、獲物を追い詰める捕食者のそれ。

御城と金子の姿は、もう視界にない。

置き去りにした。

――いや、結果的にそうなった。

あの状況で三人が固まっていれば、まとめて潰されていた可能性が高い。そう理解しているのに、それでも頭のどこかで、あの二人の状況を考えてしまう。生きているのか。動けるのか。

だが、すぐに思考を切り捨てる。

仮に生きていたとしても、今のあれに対抗できるとは思えない。さっきのような偶然の連携を、もう一度期待するのは現実的ではなかった。

――ズルい。

思わず、心の中で吐き捨てる。

攻撃が通らない。

それだけで、戦いは成立しない。

目で追えないほどの気配遮断。無駄のない動き。反応の外から差し込んでくる攻撃。それだけでも十分に致命的だというのに、その上で「当たっても効かない」という前提が重なっている。

体内に埋め込まれた装甲。

頭部、首、胴体。急所という急所はすべて潰され、それ以外の部位にも均等に仕込まれているのが、さっきの手応えで理解できた。あれは「防具」ではない。肉と一体化した、もう一つの構造だ。

人間の形をしているだけの、別の何か。

気づけば、進んでいる方向が変わっていた。

ゴールを目指していたはずなのに、いつの間にか、その逆へと追い込まれている。逃げることに集中するあまり、位置の把握が曖昧になっていた。

まずい。

そう思った瞬間。

ぽちゃん、と。

足元で、異質な音がした。

水音。

だが、この迷路に水などない。

反射的に視線を落とす。

――赤い。

足元に広がっていたのは、水ではなかった。

血だ。

冷たい感触が靴越しに伝わる。踏み込むたびに、ぬるりとした抵抗が足を絡め取る。

視線を上げる。

そこには、倒れた花嫁たちがいた。

一人や二人ではない。

何人も、何十人も。

白かったはずの衣装は、すべて同じ色に染まり、誰が誰なのかも判別がつかない。折り重なるように倒れ、動かないそれらが、床の起伏を作っているようにすら見える。

カーペットが盛り上がっているのかと錯覚するほどに、赤が連なっている。

 

 

 

 

(14/20)

 

「私の腕……私の腕を……」

御城は、陸に打ち上げられた魚のように体を跳ねさせた。切断された右腕の喪失は、痛みというよりもまず「あるはずのものがない」という違和感として脳を混乱させる。だが次の瞬間には、遅れてきた激痛が神経を焼き、思考をかき乱した。

それでも、止まるわけにはいかない。

立ち止まった瞬間に、終わる。

御城は歯を食いしばり、転がるように体勢を立て直した。足元では、絶え間なく矢が床を叩き、壁から放たれるたびに空気を裂く音が鼓膜を震わせる。規則性はある。だが完全ではない。わずかなズレがあり、そのズレが死を引き寄せる。

だから、読む。

壁に空いた無数の小さな穴。角度。高さ。視界に入る情報を一瞬で組み立て、最も射線が薄くなる位置を選び続ける。

その背中で、ぬるりとした感触が揺れた。

水音。

いや、血だ。

「っ……」

金子の体を背負い直す。軽いはずなのに、今はやけに重く感じる。片腕しか使えないことでバランスが崩れ、わずかな体勢の乱れがそのまま致命的な隙になる。

だが、下ろすという選択肢はなかった。

耳元で、かすかな音がする。

ぐぐ、と。

泡立つような、濁った音。

金子の口から漏れている。

暗闇の中で細かい状態までは見えない。だが、その音だけで十分だった。内側がやられている。肺か、気道か、あるいはその両方。吐き出されるはずの血液を無理やり飲み込んでいるのだと、すぐに理解できた。

出せば、終わる。

床に落ちれば、その瞬間に矢が殺到する。

だから、飲み込んでいる。

自分の命を削りながら。

「幽鬼さん……の、もとへ……」

 

かすれた声が、背中越しに届く。

御城は一瞬だけ目を伏せた。

「行けるわけがないでしょう」

 

吐き捨てるように言いながらも、その声にはわずかな揺れが混じる。

「状況が見えていませんの? あの化け物と合流するなど、自殺と同義ですわ。諦めて――ゴールへ向かいます」

言葉は冷静だった。合理的で、間違っていない。

それでも。

背中から、微かな力が伝わってくる。

掴む力。

離さないという意思。

「御城さん……」

息が詰まるような音とともに、言葉が紡がれる。

「約束、しましたよね……」

その一言で、御城の足がわずかに鈍った。

「貴方が……ゲームをクリアするためには……」

言葉が途切れる。

喉の奥で、また泡が弾ける音がした。

「私に……絶対に従わないと……いけない、って……」

御城は、無言のまま前を見た。

矢が飛ぶ。

足元で血が跳ねる。

視界の端で、誰かの死体が崩れる。

それでも。

背中にいるこの少女だけは、まだ「死体ではない」。 

泡音が、もう一度、耳元で鳴った。

 

 

 

誰かの言葉を幽鬼はなぜか今思い出す。

こんな状況で、他のことを思い出している余裕など、本来あるはずがない。足元は血に沈み、背後にはあの“例外”が迫っている。少しでも判断を誤れば、それで終わる。

それでも――なぜか。

頭の奥で、声が蘇る。

 

暖かい。

 

足元の冷たい血とはまるで違う、体の内側からじわりと広がるような温度。どこか遠く、しかし確かに自分の中に残っている記憶。

 

「殺人鬼とは戦うな」

 

白い髪の女が、淡々とした口調で言った。

 

誰だったか。

 

思い出そうとしても、輪郭が曖昧だ。顔も、声も、名前すらもはっきりとしない。ただ「白い髪」という印象だけが、やけに鮮明に残っている。少なくとも、この世界に来てから出会った誰かであるはずなのに、その記憶だけが妙に遠い。

「この世界の人間は基本的には、生き延びるためにゲームに参加する」

声は続く。

「元の世界に帰るために。でも――例外もいる」

その言葉に、幽鬼の中で何かが重なる。

今、目の前にいる存在。

「ゲームが好きで居心地の良さを感じている人間。帰りたくない人間。人殺しに取りつかれた人間。この世界に長く居座ったせいで壊れた人間……」

そして。

「最初から壊れている殺人鬼」

あのとき、自分はどう答えたのか。

「関係ないですよ」

軽く、笑っていた気がする。

「私だってそれなりにやれるようになってきましたし、殺人鬼相手でも十分戦えます」

根拠はなかった。

だが、否定する理由もなかった。

生き延びてきた実感があったからだ。ゲームの中で読み合い、判断し、最適解を積み重ねてきた。その延長線上に“殺人鬼”がいるのなら、同じ土俵で戦えるはずだと、そう思っていた。

だが。

「幽鬼」

白い髪の女は、静かに言った。

「奴らは、私たちと同じ土俵にいない」

その言葉の意味を、今なら理解できる。

「価値観が違う。前提が違う。思考の組み立て方そのものが違う」

「私たちが“合理”だと思っていることも、奴らには何の意味もない」

――だから。

「読み合いが成立しない」

あのときは、よくわからなかった。

「師匠は出くわしたことがあるんですか?」

軽い興味で聞いたはずだ。

「ああ」

短く、返ってきた。

それ以上は語らなかった。

ただ一言だけ。

「だから、同じゲームには参加しないようにしている」

「だから毎回、会場に入るのが遅いんですか?」

その問いに、女は答えなかった。

――沈黙。

その沈黙の意味を、考えたことはなかった。

だが、今ならわかる。

あれは“語れない”のではなく、“語る必要がない”沈黙だったのだと。

逃げるしかない相手。

それ以上でも、それ以下でもない。

――なのに。

幽鬼は、走りながら薄く笑った。

「……戦うな、か」

腹を押さえる手に、さらに力を込める。

血が、また一滴落ちる。

すぐに矢が反応する。

それでも。

足は、止まらない。

「無理だろ、それは」 

もう、同じゲームに入ってしまっているのだから。

 

 

 

伽羅がたどり着いたとき、そこには幽鬼はいなかった。

赤い。

視界のすべてが、同じ色に塗りつぶされている。折り重なった死体。潰れた花嫁衣装。乾ききっていない血が、床と区別のつかない層を作り、足を踏み入れるたびにわずかに沈み込む。

「いないのかあ」

拍子抜けしたように、伽羅は小さく呟いた。

だが、その声に焦りはない。

隠れているだけだと、最初から決めているようだった。

「こういうとこ、好きそうだもんね」

軽く笑う。

死体の山。その陰。血の匂いと温度に紛れれば、確かに気配は薄れる。肉を壁にして、タイミングを見て飛び出す。単純だが、この状況では有効な手だ。

 

矢の音は、聞こえない。

あれだけ鳴り続けていた射出音が、ここでは完全に途絶えている。

伽羅はほんのわずかに首を傾けると、指先にナイフの刃を当てた。ためらいもなく、皮膚を浅く切る。赤い線が浮かび、すぐに血が滲む。

そのまま、指を軽く振る。

ぽた、と一滴。

血が床に落ちた。

――だが。

何も起こらない。

矢は射出されなかった。

「へえ」

興味深そうに、目を細める。

床はすでに血で覆われている。新しく落ちた一滴は、その中に溶けるように混ざり、境界を持たない。反応するための“基準”が失われているのだとすれば、矢が動かないのも説明がつく。

「なるほどね」

小さく納得したように呟き、伽羅は一歩、踏み出した。

ぐしゃり、と。

足元で何かが潰れる感触があったが、気にする様子もない。

むしろ、確かめるように、わざと強く踏み込む。 

「じゃあ、ここは安全地帯ってことか」 

その結論に至るまでに、迷いはなかった。

もっとも――。

“安全”という言葉の意味が、一般的なそれと同じかどうかは別として。

伽羅はゆっくりと歩き出した。

気をつける必要など、本来ない。

だが、それでも足取りはわずかに慎重だった。

それは警戒というよりも、遊びの延長に近い。どこに何が隠れているのかを探る、その過程自体を楽しんでいるような動き。

 

足元の死体を、軽く蹴る。

転がる。

裏返る。

その下に、何かが潜んでいないかを確認するために。

一つ。

また一つ。

蹴り飛ばしながら、進む。

「どこかなあ」

声は明るい。

 

探しているのは敵ではなく、玩具のようだった。

死体の山の奥へ、さらに踏み込んでいく。

 

血の海の中を、迷いなく。

 

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