(15/20)
死体の陰に、細いワイヤーが張られていた。その先にも、同じ仕掛けがいくつも連なっている。壁の内側に血の入った袋を固定し、ワイヤーに触れれば袋が弾け、床に血が落ちる。その血に反応して、周囲の穴という穴から矢が一斉に射出される――伽羅があらかじめ組み上げていた、単純で、それでいて確実に“削る”ための罠だった。
「結局、作る意味なかったね。これ」
興味を失ったように呟きながら、伽羅は足先だけで器用にワイヤーを避けていく。視線は落とすが、そこに警戒はほとんど含まれていない。
「床、こんなに血だらけだし。反応しないしさ。それに……血の持ち主も、多分もう死んじゃってるし」
軽く肩をすくめる。その声には、ほんのわずかに“惜しむような響き”が混じっていた。彼女が使っていた血は、すべて生きている人間のものだ。どうすれば長く血を“使える状態”で保てるか、どこを切れば失血を抑えつつ動きを奪えるか――そうしたことは、もう思考ではなく経験として身体に染みついている。だからこそ効率よく血を確保し、罠として利用できていた。
それが、ここでは意味を失っている。
「もったいないなあ……」
小さく息を吐いたあと、ふと、さっきの光景が脳裏に浮かんだ。金髪の女に撃たれた瞬間のこと。確かに血は飛び散った。けれどそれは自分のものではない。あらかじめ仕込んでおいた袋を弾けさせ、死んだように見せかけるための演出だった。
(あのときさあ……)
わずかに口元が緩む。
(矢、飛ばなかったよね)
本来なら、あの量で反応しないはずがない。ほんの一瞬、“あ、まずいかも”と感じた。袋の血の持ち主が、すでに息絶えていたからだ。もしそれに気づかれていれば――少し面倒なことになっていたかもしれない。
(バレたかなって思ったのに)
肩をすくめる。結局、誰も何も言わなかった。だから問題ないと判断していた。この迷路ではもう、“血”そのものが機能していないのだと。
そう、思っていたのに。
足が止まる。
「……ん?」
視線が床に落ちる。袋の真下、赤く染まったカーペット。その色に、わずかな違和感があった。
「……乾いてるね」
しゃがみ込み、指先でそっと触れる。べたりとした湿り気ではなく、表面がわずかに固まり始めたざらつきがある。時間が経過した血の感触だ。
「おかしいな」
首を傾げる。ここは自分が仕込んだ場所だ。位置も構造も間違えるはずがない。それなのに、この乾き方は不自然だった。
「こんなに早く、乾く?」
血の状態を見誤ることはない。だからこそ、その違和感は無視できなかった。ゆっくりと視線を上げ、袋を見る。位置は同じ、形も同じ。だが、ほんのわずかに結び目の位置が違う。
(……入れ替えられてる?)
その考えが浮かんだ瞬間、背筋に熱が走る。同時に理解する。
遅い。
そう思ったときには、すでに足がワイヤーに触れていた。
ぱん、と乾いた音が響き、袋が弾ける。落ちてくる血は、先ほどまでのものとは明らかに違っていた。濃く、重く、そして――生きている。
ガシュッ、と一拍遅れて壁の穴が開き、連続する射出音とともに矢が襲いかかる。壁という壁から放たれるそれらは、空気を裂きながら一点に収束するように飛来した。
だが、伽羅は動かない。
ほんのわずかに、体を傾ける。それだけだった。
最初の一本が頬のすぐ横をかすめ、次の一本が肩へ向かう。それは避けない。鈍い衝撃とともに矢じりが肉に触れる寸前、内部に仕込まれた“何か”に阻まれ、金属を打つような硬質な音を響かせて弾かれる。続く数本も同様に、胸部や腹部へ向かう致命的な軌道のものはそのまま受け流し、関節や脇、装甲の及ばないわずかな隙間へ向かう矢だけを、紙一重の動きで外していく。
大きな動作は必要ない。最小限の角度で、当たるべきものは当たらせ、当たってはいけないものだけを排除する。その動きはあまりにも自然で、まるで矢のほうが避けているかのようにさえ見えた。
「……ああ、そっか」
矢を受けながら、伽羅は小さく笑う。
「入れ替えたんだ」
雨に打たれているかのような気軽さで言葉をこぼしながら、一歩前へ踏み出す。足元で弾かれた矢が転がるが、そのどれもが致命には至らない。
「自分の血、入れたんだね。いいね、それ。ちゃんと考えてるじゃん」
視線がゆっくりと上がる。
「でもさあ、それで終わりだと思った?もうこれ以上の罠は用意する時間はなかったよね」
(16/20)
その瞬間だった。
さっきまでそこにあったはずの壁が、音もなく引いた。ほんの一瞬、視界に空白が生まれる。それを罠だと認識するには、あまりにも短い時間だった。
伽羅の思考が、わずかに遅れる。
その空白の奥、暗闇の中から影が飛び出した。
幽鬼だった。
押し出される壁の罠をあえて一度作動させふさがれる通路、外からは完全な行き止まりにしか見えない空間へと身を潜めていた。壁が迫りきる直前のわずかな隙間に体を押し込み、呼吸すら殺し、気配を完全に消した状態で、ただ“戻る瞬間”だけを待っていたのだ。
そして――壁が引く、その一瞬。
さっきまで存在しなかった通路が視界に現れる、その刹那に。
幽鬼は、そこから飛び出した。
完全な死角。反応が一拍遅れる、そのわずかな隙を狙って。
距離はほぼゼロだった。回避の余地などない。
ナイフが一直線に走る。
狙いは首でも心臓でもない。足。膝。関節。どれほど装甲を仕込もうと、可動のために残さざるを得ない“隙間”。
刃が伽羅の膝裏に深く食い込んだ。ぐしゃりと肉を裂く感触の奥で、硬いものに当たる鈍い手応えが返る。それでも、完全には止まらない。関節という構造上、どうしても守りきれない一点に、刃は確かに届いていた。
体勢が、わずかに崩れる。
ほんのわずか。だが確実に、動きが鈍る。
幽鬼はナイフを引き抜かない。そのままさらに体を寄せ、間合いを完全に潰す。離れれば終わるのなら、離れなければいい――ただそれだけの選択だった。
「……やっと、当たった」
低く、息の混じる声で呟きながら、幽鬼は一瞬たりとも視線を逸らさない。その目は、目の前の“例外”を、確実に捉え続けていた。
(17/20)
次の瞬間、幽鬼は動いた。
刺し込んだナイフをさらに深く押し込み、関節の奥へと食い込ませるように力をかける。わずかな抵抗とともに、確かな“ズレ”が手に伝わる。それが、十分だった。
幽鬼は、そのままナイフを残して離れた。
振り返らず、逃げる。
一瞬でも視線を外せば、次に何が起こるかはわかりきっている。確認する必要も、余裕もない。ただ、この一撃で生まれた“わずかな遅れ”を、最大限に利用するしかない。
足音が、やけに大きく響く。
暗闇の中を駆けるたびに、腹部の傷が軋み、押さえつけている手の隙間から血が滲み出る。ぽたり、と床に落ちるたびに、遅れてガシュッという射出音が追いかけてくる。壁の穴が開き、矢が空気を裂く。背後をかすめ、衣装を裂き、時折皮膚のすぐ横を通り抜けていく。
だが、止まれない。
止まった瞬間に終わる。
「――っ」
呼吸が乱れる。肺が焼けるように痛い。それでも、足だけは止めない。思考を削ぎ落とし、ただ前へ進むことだけに集中する。
背後から、音はしない。
それが逆に、恐ろしい。
追ってきていないのか。
それとも――音を消して、すぐ後ろまで来ているのか。
判断する材料はない。だが、どちらであってもやることは同じだ。距離を取る。それしかない。
迷路は相変わらず同じような景色を繰り返している。赤い床、薄暗い蛍光灯、どこまでも続く通路。方向感覚は曖昧になりつつあるが、さっき視界の端に捉えた“わずかに強い光”の方向だけは、体が覚えている。
足元の感触が変わった。
ぬかるむ。
血だ。
大量の血が溜まっている場所に踏み込んだ瞬間、靴底が滑り、体勢がわずかに崩れる。それでも、転ばない。踏みしめるようにして耐え、そのまま無理やり踏み越える。
背後に、伽羅の気配はない。
あの深さで膝裏を刺した。完全に止められたとは思えないが、少なくとも即座に追いつける状態ではないはずだ。
――今だけは。
わずかな猶予。
それを逃すわけにはいかない。
そのときだった。
ガシュッ、と矢の射出音が、前方から聞こえた。
幽鬼は反射的に足を止めかけ――すぐに踏みとどまる。
人の気配。
いる。
次の瞬間、暗闇の向こうに、二つの影が浮かび上がった。
御城と、金子だった。
御城は片腕を失ったまま、それでも体勢を崩さず、矢の軌道を読みながら最小限の動きで回避を続けている。その背には金子が背負われており、ぐったりと力なく垂れ下がっていた。
遅れて、金子の口元から漏れる音が耳に届く。
かすかな泡音。
血を飲み込みきれず、喉の奥で溢れている。
重傷だ。
それでも――まだ、生きている。
御城の視線が、幽鬼を捉えた。
一瞬。
ほんの一瞬だけ、その目に驚きが浮かぶ。
だが、すぐに消える。
「……無事、ではなさそうですわね」
静かに言いながらも、その足は止まらない。矢の射出に合わせて位置をずらし、狙われにくい角度を維持している。
幽鬼もまた、止まらない。
三人の距離が、一気に縮まる。
「伽羅は――」
御城が何かを言いかけた、その瞬間だった。
幽鬼はそれを遮るように、短く言い切る。
「一時的に、止めた」
それだけで十分だった。
説明を重ねる必要はないし、している余裕もない。御城の表情がわずかに引き締まり、その一言の意味を正確に受け取ったことがわかる。
「では……今が最後のチャンスですわね」
静かに、しかし迷いのない声だった。
幽鬼は小さく頷く。
時間は残されていない。
あの“例外”が再び動き出せば、もう同じ状況は二度と作れない。さっきの一撃で生まれたわずかな遅れ――それが消えた瞬間、すべては振り出しに戻るどころか、もっと悪い状況に叩き落される。
だからこそ。
「行くよ」
短く告げて、幽鬼は前を向いた。
その先、暗闇の奥に、かすかに広がる光が見えている。確かにそこに“出口”があるとわかる程度の、頼りない光。それでも、それは間違いなくゴールへと続く道だった。
(18/20)
曲がり角を一つ抜けた先で、視界がわずかに開けた。
そこにあったのは、迷路には似つかわしくない設備――エレベーターだった。
壁に埋め込まれるように設置され、静かに佇んでいる。だが、幽鬼の目を引いたのはそれ自体ではない。
その上部に設置された画面が、異様なほどに明るく光を放っていた。
表示されているのは、花嫁。
二人の花嫁が、手を取り合っている。
その意味を理解するのに、時間はかからなかった。
「金子さん。約束は果たしましたわ」
御城が静かに言った直後、
背後でどさり、と重い音がした。
振り返る間もなく、何かが投げ出される気配。
金子だった。
地面に叩きつけられた衝撃で、口から血が溢れる。呼吸もまともにできていない。
それでも、まだ“生きている”。
御城は一切迷わなかった。
そのまま幽鬼の手を掴み、強引に引き寄せる。
「――行きますわ」
有無を言わせない力だった。
引きずるようにして、幽鬼をエレベーターへと連れていく。
扉が、閉まり始めている。
その狭まりゆく視界の中で、幽鬼は見た。
床に倒れたまま、矢に貫かれていく金子の姿。そして、そのさらに奥――暗闇の中で“何か”が動く。
伽羅だ。
「ちょっとまったー」
場違いなほど間延びした声。
結婚式に割り込む第三者のような、軽薄で、ふざけた響き。
次の瞬間、
エレベーターの扉が完全に閉じた。
視界が遮断される。
そして――
ガシュッ、という音が、止んだ。
矢の射出音が、完全に消えたことで、ゲームが終わったのだと理解する。
(19/20)
次に視界が開けたとき、幽鬼たちは教会の祭壇の上に立っていた。
どうやら、あのエレベーターはそのまま地上へとつながっていたらしい。
静まり返った空間。
先ほどまでの狂気が嘘のように、穏やかな空気が広がっている。あの地下での出来事が、すべて幻だったのではないかと錯覚するほどに、ここには何の気配も残っていなかった。
幽鬼と御城は、互いに血まみれの衣装のまま、しばらくその場に立ち尽くしていた。
着替えようとする気力はあったが、体がまるで言うことを聞かない。布が肌に張り付く不快感すら、どこか遠くの感覚のようにぼやけている。それほどまでに、消耗しきっていた。
やがて二人は、ゲーム前に着ていた服を手に取り、無言のまま歩き出す。だが、数歩進んだところで幽鬼は足を止めた。
手に持った服にも、すでに血が移っている。
これでは意味がない。
持ち帰る理由も、もうなかった。
幽鬼はそれを、その場に捨てた。御城も何も言わない。
ただ、同じように手を離した。
再び歩き出したとき、幽鬼はようやく気づく。
自分の左手に、ナイフが握られていることに。
無意識だった。
いつから持っていたのかもわからない。ただ、ずっと手放さずにいたらしい。
幽鬼はそのまま、御城の背後へと歩み寄る。
気配を消すこともせず、あえて普段通りの足取りで。
「幽鬼さん。どうされましたか?」
御城は振り返らないまま問いかけた。
それでも、距離や空気の変化だけで異変を察している。
「……なんでもない」
短く答えたあと、
幽鬼は手の力を抜いた。
ナイフが、乾いた音を立てて床に落ちる。
その音が、やけに大きく響いた。
御城を責める気は、最初からなかった。
あの場面。
あのエレベーターは、おそらく二人ずつでなければ作動しなかった。最後の関門として用意された条件だったのだろう。
だからこそ、御城は選んだ。
幽鬼と手を組み、ゴールへ進むことを。
そして――その“約束”は、おそらく金子が提案したものだ。
幽鬼を助けるために。
御城がそれを守っただけだとすれば、責める理由などどこにもない。
むしろ、感謝すべきなのかもしれない。
あの状況なら、御城は別の選択もできたはずだ。
それでも、そうしなかった。
その結果が、これだ。
「……」
幽鬼は何も言わなかった。
言葉にしてしまえば、何かが崩れてしまいそうだったからだ。感情に名前を与えた瞬間、それが現実として固定されてしまう気がした。
わずかな沈黙が流れる。
その静寂を破ったのは、御城だった。
「密会は、かなりの情報網を持っていると思われますわ」
淡々とした声。
だが、その内容は明らかに次を見据えている。
「わざわざこちらから探さずとも――そのうち、向こうから勝手にコンタクトを取りに来るでしょう」
しばらくの沈黙のあと、御城は振り返ることもなく、そのまま教会の出口へと向かい、静かに姿を消した。
残された幽鬼は、ゆっくりと歩き、教会の長椅子のひとつに体を預けるように倒れ込む。
仰向けになり、天井を見上げた。
色とりどりの光が、視界の中で揺れている。
ステンドグラスを通した光が、床にも、自分の体にも、淡く滲んでいた。
どこかで、カラスの鳴き声がする。
その音が、やけに遠く、やけに現実的に響く。
まぶたが、ゆっくりと重くなる。
抗う理由はなかった。
意識が、沈む。
(20/20)
目を開けたとき、そこはもう教会ではなかった。
見慣れない天井が、視界いっぱいに広がっている。
白でも、木でもない。どこか無機質で、温度の感じられない素材。
しばらく、自分がどこにいるのか理解できなかった。
体は動く。だが、頭が追いつかない。
ゆっくりと視線を動かす。
そこで、気づいた。
すぐ近くに、“黒い何か”がいる。
最初は影かと思った。
だが、それはわずかに動いている。
――カラスだった。
じっと、こちらを見ている。
その目が、やけに近い。
逃げるでもなく、鳴くでもなく、ただそこにいる。
まるで、最初からそこにいたかのように。
幽鬼はしばらく、その黒い瞳と視線を交わしたまま、動けずにいた。