(0/17)
「初めまして。幽鬼さん」
声がした。
意識を向けると、ベッドのすぐ横に女が立っていた。
かなり印象の強い顔立ちだった。虫の脚のように細く跳ねた眉、やけに滑らかな曲線を描く鼻筋、そして不自然なほど血色のいい唇。どこか作り物めいていて、ドラマに出てくる“いかにも嫌な役”の俳優をそのまま現実に引きずり出したような、見るだけで警戒心を刺激してくる顔だった。
「鷹三といいます。幽鬼さんの活躍は、風の噂で聞いていますよ」
柔らかい口調だが、どこか底が見えない。
幽鬼は答える前に、自分の状態を確認した。
視線を落とす。
幽鬼が着ているのは、見慣れないゆったりとした服。病院の入院患者が着るような、簡素なものだった。
ゆっくりと裾をめくる。
腹部には包帯が巻かれている。腕にも同じように処置の跡がある。
応急処置ではない。きちんとした治療が施されていると、一目でわかった。
「かなりの重傷だったらしいですね」
鷹三が、軽い調子で続ける。
「うちには医療の知識があるメンバーが何人かいるので、うまくやってくれたみたいですよ」
そう言いながら、鷹三は懐から小さな鏡を取り出し、幽鬼の目の前に差し出した。
「義眼なんですが……幽鬼さんの元の目の色に近いものが見つからなくて。とりあえず、こんな感じにしたそうです」
幽鬼は鏡を受け取り、自分の顔を見る。
右目が、白くなっていた。
濁りのない白。
生きている目ではないことが、一目でわかる。
伽羅に斬られたあの瞬間が、頭の奥に蘇る。
「……」
「私は……どのくらい眠っていたの?」
短く問いかける。
「四日くらいですね」
あっさりと返ってきた。
「……ああ、それと」
鷹三が思い出したように付け加える。
「ビザは大丈夫ですか? 人によってはギリギリまでゲームに参加しない人もいるので、その辺が少し気になってたんですが」
「大丈夫。まだ、しばらく余裕はある」
そう答えながら、幽鬼は内心で安堵する。
教会で意識を失ったあと、ここまで運ばれて、さらに治療まで受けていたということになる。
視線を、鷹三へ戻す。
御城の知り合いか――そう一瞬考えたが、すぐに違うとわかる。
雰囲気が違う。
もっと組織的で、意図的な“何か”を感じる。
「あんたたちは……密会、なの?」
問いかける。
鷹三は、少しだけ目を細めたあと、あっさりと頷いた。
「ええ、そうですよ」
そのまま、軽く肩をすくめる。
「みんなのゲーム攻略を助ける互助組織――それが、私たち“密会”です」
御城の言葉が、頭の中で重なる。
――向こうから勝手にコンタクトを取ってくる。
まさにその通りだった。
御城が情報を流したのか、それとも別の経路でこちらを把握したのかはわからない。だが結果として、幽鬼は自分から探すことなく、この組織にたどり着いていた。
「……そう」
小さく息を吐く。
「とりあえず、ありがとう。本当に助かったよ」
言葉にしてから、少しだけ間を置く。
「治療とか、ここに運んできてくれた人って……誰? できれば、お礼を言っておきたいんだけど」
鷹三は軽く手を振った。
「お気になさらず。運んだのは私ですし、治療を担当した人は今日はここにいないんですよ」
少し笑う。
「伝えておきますよ。“ちゃんと感謝されてた”って」
「ああ、それと」
何かを思い出したように、鷹三が手を打つ。
「……幽鬼さん。うちの“大将”が、あんたと話したいそうです」
一拍置いてから、続ける。
「起きてすぐで悪いんですけど、いいですか?」
「……ええ、まあ」
完全に回復しているわけではないが、断る理由もない。
「だそうですよ、大将」
鷹三が扉のほうへ声をかける。
――次の瞬間、ドアが開いた。
どうやら、外で待機していたらしい。
「初めまして、幽鬼さん」
現れたのは、長身の人物だった。
白と黒に染め分けられた、狼のような髪。
整った顔立ちに、男装にも見える中性的な服装。どこかホストのような、洗練された雰囲気をまとっている。
「私は尸狼(しろう)といいます。一応、この密会のまとめ役をしています」
わずかに笑みを浮かべる。
「彼女に“大将”と呼ばれていますが……ただの互助組織ですので、あまり気にしないでください」
「初めまして、幽鬼です」
幽鬼は短く挨拶を返す。
その瞬間、ふと気づく。
鷹三に対して、きちんと挨拶をしていなかったことに。
一瞬だけ視線をそちらに向けるが、鷹三は特に気にした様子もなく、面白そうにこちらを見ているだけだった。
「幽鬼さんの活躍は聞いていますよ」
尸狼が静かに言う。
「あの白士ですらクリアできなかった――ハートの10の生き残り、だと」
「……ハートの10はクリアしたけど……白士って人は、誰?」
素直に問い返す。
尸狼は、わずかに目を見開いた。
「ご存じないですか?」
少しだけ意外そうに言う。
「プレイヤーの間では、ほとんど伝説のような存在ですよ。この世界に来た最古参の一人で……逆に、知らない人の方が少ないと思っていましたが」
幽鬼は少し考える。
聞いたことがあるような気もする。
だが、はっきりとは思い出せない。
人と積極的に関わってこなかったせいか、そういう“有名人”の情報には疎いのかもしれない。
「……わからない」
正直にそう答えた。
「まあ、いいです」
尸狼はあっさりと話題を切り替える。
「それよりも、本題に入らせてもらいます」
一歩、わずかに距離を詰める。
「私たちの“密会”に参加しませんか?」
勧誘だった。
「私たちは、ゲームのノウハウや銃などの道具を共有し、プレイヤー全体の生存率を上げるための活動をしています」
言葉は穏やかだが、その内容は明確だった。
組織への参加要請。
それも、かなり本格的なものだ。
「なんで、私なの?」
幽鬼は即座に問い返す。
尸狼は、わずかに口元を緩めた。
「それはもちろん、幽鬼さんが“ベテランプレイヤー”だからです」
視線が、まっすぐに向けられる。
「貴方の持っているノウハウを共有していただければ、他のプレイヤーの生存率は確実に上がるでしょう」
一拍置いてから、さらに言葉を重ねる。
「ああ、もちろん。ただでとは言いません」
声の調子が、ほんのわずかに柔らかくなる。
「私たち密会の医療サポート、銃器を含めた各種装備の提供、それから……衣食住の保証も含めて、幽鬼さんの活動は全面的に支援させていただきます」
逃げ場を塞ぐように、条件が並べられていく。
「どうです?」
最後に、軽く首を傾ける。
「幽鬼さんが損をすることは、まずないと思いますが」
――とてつもなく、良い話だった。
幽鬼でも、それは理解できる。
ここまで都合のいい条件が揃っている提案は、むしろ不自然なほどだ。まるで、すでにこちらが受け入れる前提で組み立てられているかのような、隙のない説明。
ウォーターサーバーやクレジットカードの営業を受けているときのような、
断る理由を先回りして潰されていく感覚に近い。
どこかに、違和感はある。
警戒すべき何かが、確かに引っかかっている。
それでも。
仮に何か裏があったとしても、
それを差し引いてもなお――
受けた方が得だと、そう思ってしまうほどに条件は破格だった。
それでも。
「ここまでいろいろしてもらっておいて、本当に申し訳ないとは思ってるけど……やめておくよ」
静かに、しかしはっきりと幽鬼は言った。
わずかな間。
空気が、止まる。
「……理由を、お聞きしても?」
尸狼の声は変わらず穏やかだったが、その奥にあるものが、ほんの少しだけ深くなる。
幽鬼は視線を外さない。
「自分に、あまりにも都合がよすぎるから……かな」
言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。
「本当にプレイヤーの生存率を上げるためにやってるなら、すごいと思うし、尊敬もする。でも――私は疑り深いからさ。そんな人たちが、この世界にいるって、どうしても思えない」
自嘲気味に、ほんのわずかだけ笑う。
「それが理由」
再び、沈黙。
今度は、さっきよりも長い。
空気が張り詰めるわけではない。
ただ、音が一つも存在しないような、妙に現実感の薄い静けさだった。
幽鬼は内心で、自分の言葉を反芻する。
――ひどい。
そう思う。
助けられて、治療までされて、居場所まで用意されて。
それに対して返した言葉がこれだ。
恩知らず。
それ以上に、単純に愚かだ。
この世界で、生き残るための選択としては、間違っている可能性の方が高い。
それでも。
飲み込めなかった。
条件が良すぎるという、その一点だけが、どうしても引っかかり続けていた。
黙って受け入れるには、違和感が強すぎた。
「……なるほどねえ」
不意に、軽い声が落ちる。
鷹三だった。
くすくすと、喉の奥で笑う。
「いいね。そういうの、嫌いじゃないよ」
楽しそうに、まるで面白いものでも見つけたかのように目を細める。
「普通さ、この状況で断れる人ってあんまりいないんだよね。大体は飛びつく。条件がいいから。怖くても、飲み込む」
一歩、幽鬼に近づく。
「でも幽鬼さんは、それをしなかった」
少しだけ顔を傾ける。
「“信じない”って選択を取った」
その声音には、嘲りはない。
純粋な興味だけがあった。
「いいじゃん。そういうの」
尸狼は、そんな鷹三を一瞥したあと、静かに息をついた。
「……構いません」
あっさりと、そう言った。
「無理に勧誘するつもりはありませんので」
声色は変わらない。
だが、その言葉には、どこか納得したような響きがあった。
「ただし」
わずかに間を置く。
「一つだけ、覚えておいてください」
幽鬼を見る。
まっすぐに。
「この世界では、“疑うこと”自体は間違いではありません。ただ――」
ほんのわずかに、目を細める。
「疑い続けることにも、それなりの代償が伴います」
静かな忠告だった。
脅しではない。
ただ事実を述べているだけのような、そんな口調。
「……そうだね」
幽鬼は短く答えた。
それはもう、理解している。
だからこそ、今こうして生きているのだから。
部屋の中に、再び静けさが戻る。
けれど今度は、さっきまでの重苦しいものとは少し違っていた。
決裂でもなく、成立でもない。
ただ、互いの立場だけが、はっきりとした。
そんな静けさだった。
その静寂の中で、幽鬼はふと思い出したように口を開く。
「そういえば、このトランプ……集めてるんだってね」
視線を、枕元へと落とす。
そこには、一枚のカードが置かれていた。
スペードの3。
御城は回収していかなかったらしい。おそらく、ここまで運ぶ際に鷹三が持ち帰り、そのまま幽鬼の手元に戻したのだろう。黙って持っていくこともできたはずなのに、そうはしなかった。そのあたりの律儀さが、逆に少しだけ引っかかる。
「ええ」
尸狼が、静かに頷く。
「トランプをすべて集めれば元の世界に戻れる――そういう話があります。本当かどうかは分かりませんが」
淡々とした口調のまま、続ける。
「ただ、どのゲームがクリアされていて、どれがまだ残っているのか。その管理の意味でも、集めておく価値はありますので」
理屈としては、筋が通っている。
幽鬼は小さく頷いた。信じているわけではないが、否定する理由もない。
「トランプと引き換えに、何かもらえるって聞いたんだけど」
あえて、誰から聞いたかは言わない。御城の名前を出す必要はないと判断した。あくまで、風の噂として問いかける。
「ええ、その通りです」
尸狼はあっさりと認めた。
「銃などの装備や、ゲームに関する情報と交換しています。必要であれば、今ここで応じますが」
「……いや、交換はいい」
幽鬼は短く答えたあと、トランプを手に取る。
わずかな間、それを見つめ――そのまま、尸狼へと差し出した。
「治療してもらった分ってことで」
軽く言う。
取引というよりは、礼のつもりだった。
尸狼は一瞬だけカードに視線を落とし、それから静かに受け取る。
「……ありがとうございます」
短く礼を述べたあと、わずかに視線を上げる。
「それと、治療に関しては気にせず受けてください。衣食住についても、こちらで用意させていただきますので」
押しつけがましさはない。だが、完全に引いたわけでもない。
あくまで、“いつでも戻れる場所”として提示しているような距離感だった。
そう言い残し、尸狼は静かに部屋を出ていく。
続いて、鷹三が肩をすくめるようにして笑った。
「ま、気が変わったらいつでも密会に入りなよ。歓迎するからさ」
軽い調子でそう言い残し、同じように部屋を後にする。
扉が閉まる。
音が、やけに小さく響いた。
そして、完全な静寂が戻る。
誰もいない部屋。
自分の呼吸だけがやけに鮮明に感じられる。
幽鬼は天井を見上げたまま、しばらく動かなかった。
さっきまでのやり取りを、頭の中でなぞるように反芻する。
――断った。
それでよかったのかどうかは、まだ分からない。
(1/17)
幽鬼は散歩した。
本来なら安静にしているべきだと、頭では理解している。腹の傷も、腕の傷も、まだ完全に塞がっているわけではない。無理をすれば開く可能性だってある。それでも、じっとベッドに横たわり続けることに耐えられなかった。何もしない時間が、かえって神経を削る。
それに、この場所についても知っておきたかった。
どんな連中が、どんな環境で動いているのか。
それを知らずにいるのは、あまりにも不用心だ。
幽鬼はゆっくりと立ち上がり、痛みを確かめるように一歩踏み出す。問題はない。多少の違和感はあるが、動けないほどではないと判断し、そのまま部屋を出た。
廊下に出ると、白い光が均一に広がっていた。
消毒液の匂い。
規則正しく並んだ扉。
無機質な床と壁。
見慣れているはずの、元の世界の病院とほとんど変わらない光景だった。
ここが“異常な場所”の中にある施設であることを、一瞬忘れそうになるほどに整っている。
足音を抑えながら歩き、いくつかの部屋を横目に確認する。人の気配はあるが、騒がしさはない。静かに機能している場所――そんな印象だった。
そのまま歩き続け、幽鬼は階段を見つける。
下の階も見ておくべきだと判断し、手すりに軽く触れながら、一段ずつ慎重に降りていく。
そのときだった。
背後から、何かが“横切る”気配を感じた。
反射的に視線を動かすよりも先に、体が反応する。
視界の端に、色が映る。
ピンク。
鮮やかすぎるその色が、一直線に自分の横を通り抜けていく。
――人間だ。
理解が追いつくと同時に、その人物の体勢が崩れていることに気づく。階段の縁を踏み外し、そのまま落ちかけている。勢いもついている。このままでは、ただでは済まない。
考えるより先に、幽鬼の足が動いていた。
一歩、踏み出す。
落ちてくる軌道に合わせるように、自分の足を差し出す。
ぶつかる。
衝撃が、脚を通して伝わる。
だが、その一瞬で流れは変わった。
完全に転げ落ちるはずだった体が、わずかに軌道をずらされ、手すりと段差に引っかかる形で止まる。
「――っ!」
短い息遣い。
髪の毛もピンク色だった。
髪が揺れ、その人物はかろうじて体勢を保った。
数秒遅れて、静寂が戻る。
幽鬼は、足を引きながら相手を見下ろした。
反射で動いたが――傷口に負担はかかっている。鈍い痛みが、遅れて腹の奥からじわりと広がってくる。
それでも、無視できる範囲だ。
問題は、目の前の相手だった。
「……大丈夫?」
短く、そう声をかける。
その瞬間、相手の顔がはっきりと視界に入った。
思考が、一瞬だけ止まる。
――綺麗だ。
単純で、それ以上に言いようのない感想が浮かぶ。
ぱっちりと開いた目に、無駄のない鼻筋。整いすぎているとすら思える輪郭。顔立ちだけではない。細く長い手足に、均整の取れた体つき。作り物のような完成度なのに、不思議と不自然さがない。
頭の上には、左右にまとめられた二つのお団子。少し場違いにも思えるその髪型すら、妙に似合っている。
もし時代や場所が違えば――
人の運命すら変えてしまうような存在になっていたのではないか。
そんな考えが、脈絡もなく浮かぶ。
「ありがとうございます」
柔らかい声だった。
彼女は軽く息を整えながら、幽鬼に向かって頭を下げる。
その仕草まで含めて、妙に完成されている。
幽鬼は一瞬だけ視線を逸らし、すぐに戻した。
「……ならいい」
それだけ答える。
それ以上、踏み込む理由もない。そう判断しかけたところで――
「初めて見る顔ですね」
彼女のほうから、言葉が続いた。
少しだけ首を傾げながら、興味深そうにこちらを見る。
その視線には、警戒よりも純粋な好奇心が強く出ていた。
「幽鬼」
短く名乗る。
「玉藻です」
すぐに返ってきた名前を、頭の中で反芻する。
――玉藻。
似合いすぎている、と感じた。
そのまま、自然な流れでいくつか言葉を交わす。
話してみてすぐに分かった。
この世界に来てから、まだそれほど時間は経っていない。
少なくとも、“慣れた目”はしていない。
生き残るための計算や、他人を切り捨てることへの躊躇のなさ。そういったものが、まだ表に出ていない。
「尸狼さんに助けてもらって、それでここに」
玉藻はそう説明した。
なるほど、と幽鬼は内心で納得する。
密会に正式に所属しているわけではないが、衣食住の面倒は見てもらっているらしい。
保護。
そう言い換えてもいい立場だ。
――らしい、と感じる。
「ゲームには、まだあまり出てないの?」
自然と、そう聞いていた。
「はい。何度かは参加しましたけど……まだ、あまり慣れてなくて」
少しだけ困ったように笑う。
その表情には、まだ“元の世界”の色が濃く出ている。
幽鬼は小さく息を吐いた。
尸狼がどういう意図で彼女をここに置いているのかは分からない。純粋に初心者の保護としてなのか、かわいかったからなのか――別の理由があるのか。
ただ一つ確かなのは、ここは安全ではないということだ。
どれだけ整っていても、ここはあのゲームと同じ世界の延長にある。
守られているように見えても、何か一つ崩れれば、簡単に立場は変わる。
幽鬼は、それ以上そのことを口にすることはしなかった。
代わりに、短く言う。
「……階段、気をつけたほうがいいよ」
さっきのことを思い出しながら。
玉藻は一瞬きょとんとしたあと、くすっと小さく笑った。
「はい、気をつけます」
その笑い方は、まだこの世界に染まりきっていないものだった。
幽鬼はそれを見て、何も言わずに視線を外す。
そのまま、ゆっくりと階段を降りていった。
「あのっ」
背後から、少しだけ弾んだ声が届いた。
幽鬼は足を止める。
振り返るより先に、その続きが飛んでくる。
「私を、弟子にしてください」
(2/17)
師弟。
生き残るために、経験を分け与える者と、それを求める者。
ゲームの中で協力関係を築くため。
あるいは、単純に一人でいることに耐えられないから。
理由は人それぞれだが、珍しいものではない。
幽鬼は、振り返った。
玉藻はまっすぐこちらを見ている。
さっきまでの柔らかい空気はそのままだが、目だけははっきりと意思を持っていた。
迷いがない。
「悪いけど、弟子をとるつもりはないんだ」
間を置かずに答える。
即答だった。
考えるまでもない。
誰かに教える。
面倒を見る。
生き残るための責任を一部でも背負う。
どれも、幽鬼にとっては余計なものだった。
それに――
ここがどこかを考えれば、なおさらだ。
尸狼の施設。
偶然にしては出来すぎている。
助けられ、運ばれ、治療され、そして今、こうして接触している。
すべてが繋がっている可能性を、完全には否定できない。
玉藻自身は、そういう意図を持っているようには見えない。
少なくとも、今のところは。
だが、それとこれとは別だ。
その後も、玉藻は簡単には引き下がらなかった。
「どうしても、お願いしたいんです」
「ちゃんと役に立てるように頑張りますから」
「何でもしますから――」
言葉が重なる。
必死さが、声ににじんでいる。
だが幽鬼は、それをまともに受け取らなかった。
聞こえてはいる。
意味も分かっている。
それでも、その一つ一つを、意識的に切り捨てる。
耳から入ってきた情報を、そのまま流すように。
脳の奥へ届く前に、遮断する。
そして、足を速めた。
逃げるように、ではなく。
ただ、そこに留まる理由がないというだけの動きで。
背後から何か言葉が続いていた気もするが、もう振り返らなかった。
その日の夜。
幽鬼は、施設で出された夕食を一通り口にしたあと、誰にも告げずに外へ出た。
止められることはなかった。
監視されていないのか、それとも、あえて何も言わないのか。
どちらかは分からない。
だが、どちらでもよかった。
扉を抜け、外の空気に触れた瞬間、わずかに肩の力が抜ける。
冷たい。
夜の空気は、施設の中とは違って、どこまでも現実的だった。
治療も、衣食住も、用意すると言われていた。
それは理解している。
それでも、そこに居続ける気にはなれなかった。
夜逃げ同然だ。
恩を受けておきながら、何も返さずに去る。
さらに失礼を重ねていることも、自覚している。
だが、それでも。
今は、人と同じ空間にいること自体が、少し重かった。
一人になりたかった。
ただ、それだけだった。
歩きながら、ふと“師弟関係”という言葉が頭をよぎる。
幽鬼にも、かつて師匠がいた。
――はずだ。
記憶は曖昧で、顔も、声も、はっきりとは思い出せない。
それでも確かに、いたという感覚だけが残っている。
何かを教えられた。
助けられた。
世話になった。
そういう記憶の“輪郭”だけが、ぼんやりと残っている。
だが、その中身は、どうしても掴めない。
思い出そうとすると、霧がかかったように遠ざかる。
そして同時に思う。
――同じことを、自分ができるか。
無理だ、とすぐに結論が出た。
誰かを背負う。
誰かに教える。
誰かの生死に、責任を持つ。
そんなことができる人間ではない。
少なくとも、今の自分は。
「……金子」
ぽつりと、名前が漏れる。
一緒にいた時間は、ほんのわずかだった。
出会ってから、一週間も経っていない。
それでも、妙に記憶に残っている。
幽鬼は、ゲームの中で起きたことを引きずらないようにしている。
振り返るのは、あくまで次に活かすための整理だけ。
それ以上の意味で、過去を思い返すことはほとんどない。
そう決めている。
そうしなければ、続かないからだ。
だが。
今回は、少し違った。
意識しなくても、断片的に浮かんでくる。
声。
表情。
最後の光景。
それらを、無理やり押し込める。
幽鬼は立ち止まり、空を見上げた。
夜空。
だが、星は見えない。
分厚い雲が、空一面を覆っている。
光は、どこにもなかった。
(3/17)
何日かが過ぎた。
幽鬼は、再びゲームに参加することにした。ビザの残りが少なくなってきたからだ。理由はそれだけで、迷いはなかった。
日が落ちた後、最も近いゲーム会場へ向かう。
幽鬼は、いくつもの会場を見て回って内容を吟味するようなことはしない。どうせゲームの内容など外からでは予測できないし、そのために無駄に体力や集中力を削るのも合理的ではないと考えているからだ。結局のところ、どんなゲームであっても、その場で対応するしかない。
今回の会場は、工場だった。
何かの化学製品を扱っているらしい設備が並んでいる。配管が複雑に張り巡らされ、金属の匂いと薬品のような刺激臭が混ざり合って、空気そのものがどこか重い。
フォン――と、電子音が鳴る。
入場を示す音だ。
幽鬼は足を止めず、そのまま奥へと進む。
そのとき。
視界の端に、見覚えのある色が映った。
ピンク色の髪。
反射的にそちらへ視線を向ける。
玉藻が、そこにいた。