(21/22)
飛行機の扉が、ゆっくりと開いた。
重たい金属音が、静かな機内に響く。
外は、やっぱり暗かった。
ただ暗いだけじゃない。
光そのものが、ほとんど存在していない。
見える光といえば、機体に取り付けられた赤い衝突防止灯が、一定間隔で点滅しているくらいだった。
赤い光が、機体を照らす。
数秒ごとに、明るくなって。
また、闇に沈む。
その繰り返し。
私は搭乗口から、そっと身を乗り出した。
周囲を見回す。
けれど、搭乗したときに使ったスロープは、もうどこにもなかった。
下を見る。
思ったより、高い。
飛び降りれば怪我をしそうな高さだった。
どうやって降りればいいのか分からず、一瞬、足が止まる。
「……あれ」
藍里さんが、小さく声を漏らした。
視線を追う。
飛行機の真下。
そこに、大きなクッションが置かれていた。
黒い地面の上に、不自然なくらいぽつんと。
まるで、最初からそこに用意されていたみたいに。
いつからあったのかは、分からない。
誰も、それについて何も言わなかった。
言う余裕が、なかったのかもしれない。
あるいは――今さら、そんなことを気にする段階でもなかったのか。
「……降りよう」
幽鬼さんが、短く言った。
その声で、全員が動いた。
私たちは、順番に飛行機を降りた。
幽鬼さん。
永世さん。
藍里さん。
そして、最後に私。
搭乗口の縁に手をかける。
一瞬、足がすくんだ。
でも、飛ぶしかない。
意を決して、飛び降りる。
体が、ふわりと浮く。
ほんの一瞬だけ。
次の瞬間――
ポスッ。
鈍い衝撃が、足から全身へ伝わった。
思っていたより、ずっと硬い。
柔らかいというより、衝撃を多少吸ってくれる程度だった。
着地した瞬間、傷ついた膝裏に鋭い痛みが走る。
「っ……」
思わず、息が漏れた。
切れた場所が、また開いたのかもしれない。
熱を持つような痛みが、じわりと広がっていく。
膝裏だけじゃない。
腕も。肩も。背中も。
体のあちこちが、じんじんと痛んでいた。
今まで張り詰めていたせいで、感じていなかっただけなのかもしれない。
外の空気は、冷たかった。
肌に触れるたび、細かな傷がひりつく。
痛い。
寒い。
疲れた。
そんな当たり前の感覚が、ようやく戻ってきた。
さっきまで、あれほど張り詰めていた空間が、嘘みたいに静かだった。
誰も、すぐには動かなかった。
動けなかった、のほうが正しいかもしれない。
ただ、無言で前を見ていた。
誰も喋らない。
荒い呼吸だけが、静かな空間に残っていた。
「……終わった、のか」
幽鬼さんが、小さく呟く。
その声を聞いて、ようやく実感が湧いた。
終わった。
スペードの7――ふらいと。
私たちは、生きて地上へ戻ってきた。
真熊さんを除いて。
その事実を思った瞬間、胸の奥が重くなる。
視線が、無意識に飛行機へ向いた。
真っ暗な機体。
閉じかけた扉。
そこに、もう真熊さんはいない。
ほんの少し前まで、同じ場所で話していたのに。
同じ場所で、一緒にゲームをしていたのに。
最後には、殺し合っていた。
……まだ、実感がなかった。
クッションから降りる。
足が、地面に触れた。
硬い。
冷たい。
その感触が、ひどく現実的だった。
助かった。
生き残った。
その事実だけが、ひどく重かった。
(14/22)
後になって、ようやく分かった。
あの飛行機の中で、何が起きていたのか。
真熊さんだけ、最初から私たちとは違うルールで、このゲームに参加していた。
おそらく、クリア条件はこうだった。
一定時間、飛行機を飛ばし続けること。
その後、飛行機を墜落させるか、あるいは他の参加者を全滅させること。
そして最後に、自分だけがコックピットへ入り、生き残ること。
――そういうゲームだった。
今なら分かる。
幽鬼さんも。
永世さんも。
藍里さんも。
たぶん、ずっと前から気づいていた。
少なくとも、可能性としてはかなり強く疑っていたはずだ。
修理キット。
窓の破損。
増えていた包丁。
どれも、タイミングが出来すぎていた。
あまりにも都合がよすぎた。
事前に仕掛けられたギミックだけでは、説明がつかない。
まるで、誰かがこちらの様子を見ながら、その場その場で必要なものを用意しているみたいだった。
そんなことができる立場の人間なんて、限られている。
そして――
真熊さん自身も、おそらく気づいていた。
自分が疑われていることに。
みんなが、薄々察していることに。
それでも、誰も口にしなかった。
口にした瞬間、終わるからだ。
その瞬間、疑いは敵意に変わる。
もう、それまでみたいに協力はできない。
戦うしかなくなる。
でも、問題はいくつもあった。
本当に、真熊さんが敵なのか。
まだ断定できるのか。
もし違ったら、どうするのか。
そして――もし本当に敵だったとして。
勝てるのか。
真熊さんは、この中で誰よりも強かった。
真正面から戦って、勝てる相手じゃない。
四人で協力すれば倒せるのか。
倒せたとして、その後どうするのか。
飛行機は、誰が着陸させるのか。
何も分からなかった。
情報が、足りなかった。
だから全員、あえて触れなかった。
もっと情報が増えるまで。
もっと確信が持てるまで。
できるなら、戦わずに済む可能性を探るために。
静かに。
ぎりぎりまで、均衡を保ちながら。
様子を見ていた。
その空気を読めていなかったのは――私だけだった。
私は、みんなが黙っていたことを、そのまま口にしてしまった。
修理キットの違和感を。
タイミングの不自然さを。
何も知らないまま。
ただ、おかしいと思ったから。
ただ、それを言わなきゃいけない気がしたから。
口にしてしまった。
あの瞬間。
飛行機の中にあった、かろうじて保たれていた均衡は――壊れた。
(16/22)
真熊さんは、強かった。
間違いなく、この場で一番強かった。
力も。
速さも。
判断力も。
たぶん、全部。
正面から戦っていたら、誰も勝てなかったと思う。
少なくとも、私はそう思った。
実際、戦いが始まった瞬間に、それはすぐ分かった。
速かった。
あまりにも、速かった。
狭い機内だというのに、真熊さんの動きにはほとんど無駄がなかった。
包丁を投げた直後には、もう次の動きに入っていた。
躊躇も、迷いもない。
最初から、こうなる可能性を考えていた人の動きだった。
でも――
場所が悪かった。
飛行機の中は、狭い。
座席が並び、通路は細い。
自由に動き回れる空間じゃない。
大きく踏み込むことも、距離を取ることも難しい。
真熊さんみたいに、圧倒的な身体能力で押し切るタイプには、あまりにも窮屈すぎる場所だった。
本来なら、もっと広い場所でこそ真価を発揮する人だったと思う。
距離を支配して。
速度で圧倒して。
真正面から、全部ねじ伏せる。
そういう強さ。
でも、この場所では違った。
座席が邪魔をする。
通路が動きを制限する。
逃げ場も、攻める角度も限られる。
そして何より――人数差が、そのまま不利になった。
四対一。
しかも全員が、同じ結論に辿り着いていた。
真熊さんが、敵だと。
もう、迷いはなかった。
勝負は――意外なほど、あっさり終わった。
長くは続かなかった。
ほんの数十秒だったのかもしれない。
あるいは、もっと短かったのかもしれない。
気づいたときには、全部終わっていた。
真熊さんは、死んでいた。
大きな体が、座席の間に崩れ落ちていた。
あれほど大きかった背中が、もう動かなかった。
ほんの少し前まで、誰よりも危険だった人が。
もう、ただの動かない肉の塊になっていた。
それが、ひどく現実味のない光景に見えた。
(17/22)
真熊さんの死体を調べたのは、幽鬼さんだった。
誰も止めなかった。
止める理由もなかった。
戦いが終わった直後の機内には、奇妙な静けさがあった。
ついさっきまで殺し合いをしていたとは思えないほど、静かだった。
荒い呼吸だけが、細く残っていた。
幽鬼さんは、しゃがみ込む。
無言のまま、真熊さんの服を探った。
やがて。
「……あった」
低い声。
服の内側から取り出されたのは、小さなタブレットだった。
それを見た瞬間、全員が理解した。
これだ。
このゲームの中枢。
ずっと私たちを振り回してきたもの。
修理キットも。
包丁も。
窓が割れた後の不自然な展開も。
全部、これで説明がつく。
幽鬼さんが画面を操作する。
ロックはかかっていなかった。
あまりにも、あっさり開いた。
画面には、複数の項目が並んでいた。
飛行制御。
ギミック管理。
コックピットロック。
ほかにも細かな設定項目がいくつもあったが、見るまでもなかった。
十分だった。
真熊さんが、このゲームの管理側に近い立場だったこと。
少なくとも、私たちとは違うルールで動いていたこと。
それが、はっきりした。
誰も、何も言わなかった。
言う必要がなかった。
全部、答え合わせみたいなものだった。
(18/22)
「……一応、開けるか」
幽鬼さんが言った。
誰も反対しなかった。
タブレットを操作する。
コックピットロック。
解除。
短い電子音が鳴った。
その直後。
今まで固く閉ざされていた金属扉が、静かに開いた。
重たい音を立てながら、ゆっくりと。
全員が、無意識に身構えていた。
何かあるかもしれないと思った。
最後の罠とか。
真熊さんが用意した保険とか。
でも、何もなかった。
中にあったのは、ただの操縦席だった。
計器類。
操縦桿。
無数のスイッチ。
少なくとも、見た目は普通だった。
普通すぎるほどに。
それが逆に、不気味だった。
(19/22)
その後の着陸は、驚くほど静かだった。
大きなトラブルは、もう何ひとつ起きなかった。
幽鬼さんと永世さんが、コックピット内を一通り調べた。
藍里さんも、機内に見落としがないか確認していた。
私も、一応探した。
何かまだ残っているんじゃないかと思ったからだ。
最後の仕掛けとか。
隠されたギミックとか。
でも、何も見つからなかった。
何も起きなかった。
それが逆に、ひどく現実味がなかった。
あれだけ張り詰めていた空間が、急に空っぽになったみたいだった。
緊張が切れたのだと思う。
しばらくすると、みんな動かなくなった。
調べるのにも、疲れたのだろう。
いつの間にか、全員が座り込んでいた。
座席に。
床に。
壁にもたれて。
まるで、魂でも抜けたみたいに。
誰も喋らなかった。
喋る気力すら、残っていなかった。
飛行機だけが、静かに飛び続けていた。
やがて。
少しずつ、高度が下がり始めた。
機体が、ゆっくり傾く。
地面が近づいてくる。
振動が増える。
誰も何も言わないまま、その感覚だけを受け止めていた。
そして。
ゴトッ、と。
鈍い衝撃。
続いて、タイヤが地面を擦る音。
機体が揺れる。
長く、低い振動。
それも、やがて止まった。
飛行機は、着陸した。
あまりにも、あっさりと。
拍子抜けするほど、静かに。
それで終わりだった。
(22/22)
空港を出た頃には、空は少し白み始めていた。
長い夜が、ようやく終わろうとしていた。
けれど、私たちの空気は重いままだった。
誰も、あまり喋らない。
無事に生還したはずなのに、達成感のようなものは薄かった。
解散。
そういう空気になったときだった。
「……幽鬼さん」
永世さんが口を開いた。
「少し、二人で話せますか」
その声音は、いつもよりわずかに硬かった。
玉藻は、何も言わなかった。
ただ空気を読んで、先に帰るとその場を離れてくれた。
気遣いだった。
残されたのは、私と永世さんだけ。
少しの沈黙。
やがて、永世さんが静かに言った。
「……本当に覚えていませんか?」
一拍置いて。
「真熊さんのこと」
私は、少し考えた。
でも、答えは変わらない。
「……覚えていない」
正直に答える。
「やっぱり、どこかのゲームで会ってたんだね」
少し間を置いて、聞いた。
「永世さんも、そうなの?」
永世さんは、静かに首を横に振った。
「いえ」
短く答える。
「同じゲームに参加したのは、今回が初めてです」
そして。
「真熊さんも、私も」
知り合いだった。
……らしい。
そう理解はできる。
でも、妙だった。
自分のことのはずなのに。
まるで、他人の話を聞いているみたいだった。
遠い場所で起きた出来事を、後から聞かされているような。
現実感がない。
記憶がないだけで、こんなにも感覚は変わるのか。
永世さんが、再び口を開いた。
「……実は」
少しだけ迷うような間。
「私の師匠は、白士さんです」
その名前を聞いた瞬間。
胸の奥が、わずかにざわついた。
知らないはずなのに。
まるで、どこか深いところが反応したみたいだった。
「……じゃあ」
私は、ゆっくり言った。
「師匠つながりで話を聞いたのか」
少し考える。
「あるいは……直接会ってたのかもしれないね」
自分で言いながら、不思議だった。
自然に言葉が出た。
まるで、本当にそうだったみたいに。
「多分……私は」
そこで言葉が止まる。
やはり。
私の師匠は、白士という人らしい。
いつからだろう。
私は、この国にいたのだろうか。
いつからだろう。
ゲームに参加していたのは。
分からない。
思い出せない。
記憶は、霧の向こう側だった。
でも。
確かにそこに、何かがある。
そんな気がした。
「おかえりなさい。幽鬼さん」
幽鬼は帰ってきた。
ようやく。
本当に、ようやくだった。
今回は、あまりにも長かった。
日が落ちてから始まり。
終わった頃には、空が白み始めていた。
時計が一周以上するほどの長時間。
これまで経験したゲームの中でも、かなり長い部類だった。
肉体的な疲労は、当然ある。
全身が痛い。
切り傷も打撲も、主張するように存在感を放っていた。
膝裏はまだひりひりするし、腕も肩も重い。
徹夜明けでもある。
普通なら、もう立ったままでも眠れそうな状態のはずだった。
でも、不思議なことに眠気はなかった。
妙に頭だけが冴えていた。
疲労で感覚がおかしくなっているのかもしれない。
部屋の中には、やわらかな湯気が立っていた。
玉藻が、スープを作ってくれていた。
鍋から立ち上る湯気が、静かに揺れている。
優しい香りだった。
野菜と、コンソメだろうか。
胃に負担の少なそうな、温かい匂い。
「ちょうどできたところです」
玉藻が、小さく微笑む。
「今日は、かなり大変だったでしょうから」
「……うん」
短く答える。
椅子に座った瞬間、どっと体が重くなった。
玉藻が器を差し出してくる。
幽鬼はそれを両手で受け取った。
じんわりと熱が伝わる。
冷えた指先が、少しだけ戻ってくる気がした。
一口飲む。
温かかった。
喉を通って、熱がゆっくり落ちていく。
胃に届く。
その感覚を認識した瞬間だった。
急に。
本当に急に、眠気が襲ってきた。
さっきまで、少しも眠くなかったのに。
まるで、ずっと張り詰めていた何かが切れたみたいに。
意識が、ふっと沈む。
そのときだった。
不意に、声が聞こえた。
『死にぞこないが、お前ら一体何なんだ』
『何がしたいんだ、お前たちは』
知らない声だった。
……いや。
知らない、はずだった。
低く、鋭い声。
怒りとも、苛立ちともつかない声音。
その声を聞いた瞬間、胸の奥がざわついた。
頭の奥が、鈍く痛む。
何かを思い出しかける。
暗い場所。
冷たい空気。
誰かの背中。
血の匂い。
断片だけが、浮かぶ。
でも、それ以上は続かない。
霧がかかったみたいに、先が見えない。
誰の声だったのか。
いつの記憶なのか。
何ひとつ分からない。
ただ。
その言葉だけが、妙に鮮明だった。
「……幽鬼さん?」
玉藻の声で、意識が戻る。
顔を上げる。
玉藻が、心配そうにこちらを見ていた。
少し不安そうな顔だった。
口に合わなかったのだろうか、みたいな表情でもある。
「……いや」
幽鬼は小さく首を振った。
「なんでもないよ」
少し間を置いて、聞き返す。
「玉藻こそ、大丈夫?」
視線を落とす。
「ケガ、してたよね」
玉藻は自分の腕を見た。
包帯が巻かれている。
けれど、本人はあまり気にしていない様子だった。
「大丈夫です」
穏やかな声で言う。
「たいしたケガじゃありません」
そう言って、玉藻は少しだけ笑った。
「幽鬼さんのほうが、ずっとひどそうです」
「そうかな」
「そうです」
即答だった。
少しだけ、空気がやわらぐ。
玉藻が片付けをしている音が、遠くで聞こえる。
食器の触れ合う、小さな音。
それだけの、静かな部屋だった。
なのに、幽鬼の意識はそこになかった。
真熊。
死ぬ瞬間の顔が、脳裏に浮かぶ。
血まみれで。
倒れる直前で。
それでも、こちらを睨んでいた目。
そして。
今になって、急に。
あのとき聞き取れなかった言葉が、鮮明に蘇った。
『お前は、そんなもんか』
低い声だった。
嘲るようでいて、どこか失望しているような声音。
『白士がかわいそうでしかたがねえよ』
白士。
その名前を聞いた瞬間。
どくん、と心臓が鳴った。
視界が揺れる。
頭の奥で、何かが軋む。
思い出したくないのか。
思い出せなかっただけなのか。
分からない。
ただ——
鍵が、外れた。
気づいたとき、幽鬼ユウキは見知らぬ交差点に立っていた。
車はない。
人もいない。
音もない。
これが。
幽鬼の、今際の国滞在一日目だった。