次の瞬間だった。
考えるより先に、体が動いていた。
幽鬼は走った。
廊下を蹴る。
螺旋階段へ向かう。
スマホを見る。
2:50
2:49
2:48
減っていく。
さっきまで余裕だと思っていた数字が、今はひどく恐ろしく見えた。
ない。
8-1が、ない。
少なくとも、この八階フロアには見当たらなかった。
なら。
探すしかない。
だが、階段を普通に降りていたら遅い。
幽鬼は、螺旋階段の中央を見た。
階段は外周に沿って作られている。
つまり。
中央は吹き抜けだった。
下まで、まっすぐ落ちている。
上るときには邪魔でしかなかった構造。
でも、下るなら話は別だ。
危ない。
普通に考えれば、飛び降りる場所じゃない。
だが。
幽鬼は普通に考えなかった。
飛び降りた。
「うおっ……!」
体を投げ出す。
落ちる。
一気に。
垂直に。
風圧が顔を叩いた。
胃が浮く。
一階ぶん落ちたところで、壁を蹴った。
衝撃。
骨が軋む。
激痛。
でも、止まれない。
その反動で、八階フロアへ体を投げ出した。
どさっ。
床に叩きつけられる。
痛い。
かなり痛い。
肩を強く打った。
肘も擦った。
でも、そんなことを気にしている余裕はなかった。
幽鬼は転がった。
勢いを殺しきれず、そのまま床を転がる。
それでも、視線だけは前に向ける。
八階フロア。
部屋番号を見る。
1-4
4-2
2-1
9-1
5-5
「…………は?」
思考が、一瞬止まった。
意味が分からない。
何だこれ。
ぐちゃぐちゃだった。
階数なんて、まるで関係ない。
部屋番号が、完全にめちゃくちゃになっている。
規則性があるのかすら分からない。
少なくとも。
幽鬼が思っていたような、
九階なら9-◯。
八階なら8-◯。
そんな単純なルールでは、まったくなかった。
最悪だった。
完全に読み違えた。
このゲームは、ただの移動教室じゃない。
スマホを見る。
2:30
時間だけが、容赦なく減っていく。
白士なら。
あの師匠なら、この時点でもう何か見えているのだろうか。
幽鬼には、何も分からなかった。
分かるのは、一つだけ。
立ち止まったら終わる。
考えろ。
動け。
探せ。
8-1を。
とにかく、見つけろ。
幽鬼は歯を食いしばった。
「クソが……!」
悪態をつきながら、再び走り出した。
階段を駆け下りる。
八階。
七階。
六階。
部屋番号を横目で確認しながら、ひたすら走る。
ない。
8-1が、ない。
焦りだけが募っていく。
スマホを見る。
1:30
まずい。
かなり、まずい。
そのときだった。
「おい」
声がした。
鋭い声だった。
幽鬼は反射的に振り向いた。
知らない女がいた。
短髪。
黒髪。
細身。
少年みたいな雰囲気だった。
一瞬、男かと思った。
でも違う。
胸元のふくらみで、同年代くらいの女だと分かった。
息は上がっているはずなのに、目だけは妙に冷静だった。
「9-1の部屋、見なかったか」
単刀直入だった。
説明も前置きもない。
幽鬼は即答した。
「あった。八階」
女の目がわずかに動いた。
「……助かる」
短く、それだけ言った。
そこで幽鬼は、ようやく思い出した。
クラブ。
クラブのゲームだ。
協力型。
つまり。
これ、情報共有しないと無理なのでは?
今さらだった。
遅すぎた。
だが、気づかないよりはいい。
幽鬼は聞き返した。
「8-1はどこだ」
女は一瞬だけ考えた。
「ああ……見た」
即答だった。
「一階か二階。たぶん、そのどっちか」
その言葉を聞いた瞬間。
幽鬼は走っていた。
「お、おい!」
呼び止める声は無視した。
階段へ突っ込む。
普通に下りていたら間に合わない。
飛び降りる。
一階ぶん。
着地。
衝撃。
すぐ次。
また飛ぶ。
また着地。
脚が悲鳴を上げる。
でも止まれない。
上を見る。
さっきの女が、階段の途中からこちらを見下ろしていた。
信じられないものを見るような顔だった。
そりゃそうだろう、と幽鬼は思った。
自分でも、ちょっとそう思う。
でも。
そんなことは、どうでもよかった。
スマホを見る。
1:00
まだ間に合う。
たぶん。
いや。
間に合わせるしかない。
幽鬼は、さらに下へ飛んだ。
落ちながら、周囲を見る。
そのとき。
大声が聞こえた。
「3-2どこだ!」
「5-4見たやついないか!」
「7-1は六階だ!」
叫び声。
怒鳴り声。
悲鳴ではなかった。
情報だった。
参加者たちが、大声で自分の探している部屋番号を叫んでいた。
そして、それに別の誰かが答えている。
「見た!」
「三階!」
「そっちじゃない!」
情報が飛び交う。
建物全体が、ひとつの巨大な伝言ゲームみたいになっていた。
さっきの短髪の女が言い出したのか。
それとも別の誰かか。
そんなことは分からない。
でも。
ひとつだけ分かった。
みんな、協力していた。
自分の部屋を探すために。
そして、他人を生かすために。
クラブ。
協力型。
その意味を、幽鬼はようやく理解し始めていた。
ひとりで探すより。
全員で探したほうが、圧倒的に速い。
当たり前の話だった。
なのに、幽鬼は今まで、それを考えてすらいなかった。
殴って。
蹴って。
押しのけて。
前へ進むことしか考えていなかった。
「……」
なんだか、少しだけ居心地が悪かった。
だが、反省している暇なんてない。
幽鬼は二階へ着地した。
どさっ。
衝撃を殺しきれず、膝をつく。
痛みが走る。
無視した。
顔を上げる。
部屋番号を見る。
2-3
6-4
4-1
そして。
あった。
8-1。
「……あった!」
思わず声が出た。
見つけた。
ようやく。
幽鬼は立ち上がり、その部屋へ向かって全力で走った。
飛び込むように、中へ入る。
スマホを見る。
0:20
間に合った。
幽鬼は、ようやく息をついた。
肺が焼けるように熱い。
脚も痛い。
肩も痛い。
でも、とりあえず、生き延びた。
スマホのタイマーが減っていく。
0:03
0:02
0:01
0:00
電子音が鳴った。
スマホの画面が切り替わる。
次の移動教室です。
1-3に移動してください。
3:00
休む暇すらなかった。
幽鬼は、すぐに部屋を飛び出した。
二階フロアを見る。
ない。
1-3はない。
そう判断した瞬間、階段へ向かう。
声が飛び交っていた。
「8-6どこだ!」
「5-6見たやつ!」
「1-3は七階!」
「いや違う、四階だ!」
情報が飛ぶ。
叫び声が響く。
全員が走っていた。
全員が叫んでいた。
全員が、生き残るために動いていた。
幽鬼も走った。
走って。
探して。
叫んで。
また走った。
次。
また次。
次の移動教室です。
4-2に移動してください。
次の移動教室です。
7-4に移動してください。
次の移動教室です。
3-5に移動してください。
何回やっただろう。
三回。
四回。
もう数える余裕もなかった。
息が切れる。
脚が重い。
喉が痛い。
汗が、止まらない。
でも。
少しずつ、分かってきた。
このゲームの攻略法が。
ひとりでは無理だ。
全員で情報を回す。
見つけた部屋番号を叫ぶ。
聞く。
伝える。
それを、ひたすら繰り返す。
単純だった。
でも、必勝法だった。
クラブのゲームらしい攻略法だった。
そして。
何度目かの移動を終えた、そのとき。
電子音が鳴った。
スマホの画面が変わる。
ゲームクリア
こんぐらちゅれいしょん
「……終わった?」
幽鬼は、呆然と画面を見つめた。
終わった。
本当に。
突然に。
全身から力が抜けた。
その場に座り込みそうになる。
助かった。
終わった。
幽鬼はふらつく足で部屋を出た。
もう走らなくていい。
そう思った瞬間、脚から一気に力が抜けた。
螺旋階段の手すりにもたれかかる。
荒い呼吸。
心臓が、まだうるさい。
どくどくと鳴っていた。
喉が痛い。
肺が熱い。
汗が頬を伝って落ちる。
さっきまで、あれほど騒がしかった建物が、嘘みたいに静かだった。
誰も叫んでいない。
誰も走っていない。
静寂。
そのときだった。
ひらり。
何かが、上から落ちてきた。
「……?」
幽鬼は顔を上げた。
螺旋階段の中央。
吹き抜けになっている空間を、一枚の紙がひらひらと落ちてくる。
いや。
紙じゃない。
トランプだった。
くるり。
ひらり。
回転しながら、ゆっくり落ちてくる。
白い面。
黒い模様。
そして。
一瞬だけ、絵柄が見えた。
クラブ。
数字は――二。
クラブの2。
ゲームの難易度を示すカードだった。
それが、まるでゲーム終了を告げるみたいに、静かに落ちてきていた。
幽鬼は、ぼんやりとそれを見上げた。
「……終わったんだな」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
トランプは、ひらひらと落ち続ける。
そのときだった。
「よこせ!」
怒号が響いた。
「俺のだ!」
「ふざけんな!」
「我妻、おまえ!!」
叫び声。
殴打音。
悲鳴。
幽鬼は目を丸くした。
下の階に降りてきた参加者たちが、乱闘していた。
さっきの短髪の女の子もいた。
普段から喧嘩慣れしているのか、かなり容赦なくやっていた。
殴る。
蹴る。
押し倒す。
髪を掴む。
引きずる。
さっきまで、あれほど協力していた連中だった。
情報を共有して。
助け合って。
全員でクリアした、その直後だというのに。
「……」
さっきまでの協力は、何だったんだ。
そう思った。
でも。
違うのかもしれない。
ゲームをクリアするまでは、協力したほうが得だった。
クリアした今は、奪い合ったほうが得。
それだけだ。
ただ、それだけの話だった。
別に、仲間になったわけじゃない。
ただ一時的に、利害が一致していただけ。
幽鬼は、落ちてくるトランプを見た。
あれが原因か。
あの一枚が、そんなに欲しいのか。
幽鬼自身は、そこまで欲しいとは思わなかった。
白士にも言われていた。
トランプは気にするな。
余計なトラブルを増やすだけだ、と。
だから、本来なら。
無視するのが正解だった。
「でも……まあ……」
幽鬼は、ぼそっと呟いた。
別に、欲しいわけじゃない。
どうしても必要というわけでもない。
ただ。
あれだけ派手に奪い合っているものを、目の前で他人に取られるのは、なんだか少し癪だった。
それに。
取れるなら、取っておいてもいい気がした。
深く考えていたわけではない。
気づけば、体が動いていた。
幽鬼は手すりを越えた。
飛び降りる。
「うおっ……!」
再び、螺旋階段中央の吹き抜けへ。
落下。
風が唸る。
トランプとの距離が、一気に縮まる。
あと少し。
手を伸ばす。
届く。
ぱしっ。
取った。
トランプを、キャッチした。
「……おお」
少しだけ感心した。
自分でも、よく取れたと思った。
着地。
どさっ。
衝撃が脚に突き抜ける。
痛い。
でも、折れてはいない。
たぶん大丈夫だ。
幽鬼は素早く周囲を見る。
乱闘は、まだ続いていた。
「離せ!」
「殺すぞ!」
「それ私が先――」
誰もこちらを見ていない。
全員、目の前の殴り合いに夢中だった。
好都合だった。
幽鬼はトランプをポケットに突っ込む。
そして。
何事もなかったような顔を作った。
早歩き。
いや、ちょっと早いくらいの歩き。
走ると怪しい。
自然に。
あくまで自然に。
幽鬼は出口へ向かった。
誰にも呼び止められない。
誰も気づいていない。
よし。
いける。
そのまま。
会場の外へ出た。
そして。
建物から十分離れたところで、幽鬼は全力疾走した。