私が白士と出会ったのは、初日の最初のゲームだった。
すぺえどのきゅう。
『かんらんしゃ』。
崩壊する観覧車から脱出するゲームだった。
私と白士は、同じゴンドラに乗っていた。
いや。
正確には、私が白士についていった。
一目でわかった。
この人は、並の人間じゃない。
他の人にはわからなかったと思う。
でも、私にはわかった。
誰が強くて、誰が弱いのか。
そういうものを見分けることには、自信があった。
だから、私は白士の乗っているゴンドラに乗った。
ゲームが始まったのは、私たちのゴンドラが観覧車の頂上に来たときだった。
数秒後。
隣のゴンドラが、真っ逆さまに落ちていった。
そこには確か、人がいた。
私と同じくらいの年齢に見える女。
その女は、五歳くらいの子供を連れていた。
二人まとめて落ちていった。
キイ。
キイ。
キイ。
錆びついた金属が軋む音が、周囲から聞こえていた。
そのときには、もうわかっていた。
ここがどういう場所なのか。
周囲にいる人間。
漂っている空気。
そして、今目の前で起きたこと。
これが、ただの夢なんかじゃない。
本当に起きていることなんだ。
そう思った。
ガシャン。
隣から音がした。
鍵のかかった扉を、誰かが壊した音だった。
白士だった。
「行くぞ」
それだけ言って、白士は観覧車の骨組みにしがみついた。
そして、慎重に下へ降りていった。
私も追った。
ゴンドラが落ちた。
ネジが落ちた。
骨組みが落ちた。
しまいには、爆発まで起きた。
それでも。
何とか下まで降りることができた。
地面に足をつけてから、私は上を見上げた。
観覧車は、もう観覧車と呼べるような姿をしていなかった。
そして。
私たち以外に、生き残った人間はいなかったようだった。
こんな人間は、生きてきて一度も見たことがなかった。
少なくとも。
それまでの私の周りには、こんな人間はいなかった。
私の家は、普通の家庭ではなかった。
父親は家にいることが少なかった。
母親も、私のことを気にかけているのかいないのか、よくわからなかった。
喧嘩の声は珍しくなかった。
物が壊れる音も、珍しくなかった。
だから、家にいて安心できるという感覚が、私にはあまりなかった。
学校も似たようなものだった。
授業中に騒ぐ人間がいる。
教師に食ってかかる人間がいる。
廊下で喧嘩をしている人間もいた。
誰かが問題を起こしても、しばらくすれば別の誰かが問題を起こす。
そんな場所だった。
同級生の中には、変なものに手を出している人間もいた。
放課後になると、どこかへ集まって。
何をしているのかは、聞かなくてもだいたいわかった。
独特な臭いがすることもあった。
でも、私は特に興味がなかった。
そんなものをやったところで、何かが変わるわけでもない。
そう思っていた。
実際、一度くらい試したこともある。
けれど。
私には、よくわからなかった。
楽しいわけでもない。
苦しいわけでもない。
ただ、周りの人間が妙に夢中になっているのだけが不思議だった。
その頃の私は、それを馬鹿なことだと思っていた。
自分は、あの人たちとは違う。
そう思っていた。
今になって考えれば。
たぶん、私は何もわかっていなかった。
「墨家」
白士に呼ばれて、私は顔を上げた。
「どうした?」
「いや」
何でもない。
そう答えようとして、やめた。
目の前にいるのは、あのときの白士と同じ人間だった。
強い。
今でも、それだけはわかる。
私が初めて会ったとき。
観覧車から平然と降りていったとき。
あの人は、周りの人間とは何かが違っていた。
それは、今でも変わっていない。
むしろ。
前よりも、はっきりわかるようになった。
白士は、この世界で生き残るために必要なものを、ほとんど全部持っている。
判断力。
身体能力。
経験。
そして、何より。
怖くなっても、進むことができる。
だから私は、白士についていった。
最初から。
ずっと。
この人についていけば、帰れると思っていた。
この世界に来たばかりの頃は、それだけでよかった。
十日。
二十日。
三十日。
ゲームを一つクリアするたびに、少しずつ先が見えてくる気がした。
でも。
白士は帰っていない。
白士は九十六日経っても。
帰っていない。
それだけだった。
私は白士よりずっと弱い。
だから、私が帰れないのは仕方がないと思えた。
私より強い人間なら帰れる。
そう思っていた。
でも。
白士でも帰れないのなら。
私は、いつまでここにいればいいんだろう。
そんなことを考えるようになったのは、いつからだっただろう。
「ここ、結構いいところだよね」
声がした。
小さな女だった。
あの時の自分にそっくりな女がいた。
彼女はベッドに寝転がっていた。
「何が?」
「ここ」
女は両手を広げた。
「だって、食べ物もあるし。寝るところもあるし。お風呂もある」
確かに。
全部ある。
食べ物はなくならない。
水もある。
服もある。
本もある。
遊ぶ場所まである。
危険な場所も、今のところ見つかっていない。
「ゲームだって、何日経っても終わらないし」
女は笑った。
「だったら、ずっとここにいればいいんじゃない?」
私は何も言わなかった。
ずっと。
その言葉だけが、頭に残った。
ずっと。
それは、嫌だった。
そう思うはずだった。
なのに。
少しだけ。
ほんの少しだけ。
それも悪くないと思ってしまった。
ベッドは柔らかい。
部屋は暖かい。
食事は薄味で、特別おいしくもない。
でも、まずくもない。
何かを頑張らなくてもいい。
何かを考えなくてもいい。
ここにいれば、少なくとも死ぬことはない。
ゲームを探さなくてもいい。
帰る方法を考えなくてもいい。
白士についていかなくてもいい。
そう考えたところで。
私は、自分で自分が嫌になった。
昔。
私は、そういう人たちを馬鹿にしていた。
学校で、何かに縋っている人たち。
これをやれば楽になる。
これをやれば楽しい。
そんなことを言っている人たち。
私は、そんなものに意味があるとは思わなかった。
楽しいわけじゃない。
問題が解決するわけでもない。
それなのに、どうしてそんなものに夢中になるのか。
ずっと、そう思っていた。
でも。
今なら。
少しだけ、わかる。
本当に幸せになれるわけじゃなくても。
ここから出られるわけじゃなくても。
何も変わらなくても。
「もしかしたら、ここにいればいいのかもしれない」
そう思えるだけで。
人間は、少しだけ楽になれる。
そして。
その「少しだけ」がなくなったら。
たぶん、人間はもっと苦しくなる。
「墨家?」
また、白士の声がした。
私は白士を見る。
「何でもない」
今度は、ちゃんと答えた。
白士は少しだけ私を見ていた。
それから、前を向いた。
私は、その背中を見る。
昔から変わらない背中だった。
ずっと、私の前にいる。
だから。
私は、その背中を追いかければよかった。
今までは。
でも。
今は違う。
私はもう。
白士についていけば帰れるとは、思えなくなっていた。
幽鬼が食堂に戻ってきた。
「一緒に探検しよう」
とのことだ。
ちょうどよかったと思った。
少し歩きたかったんだ。
腹ごなしに、ちょっと運動するのも悪くないだろう。
「いいよ」
私は立ち上がった。
幽鬼は、もう食堂を出ようとしていた。
相変わらず、せっかちな奴だ。
私と白士は、その後ろを歩く。
食堂を出る。
廊下を歩く。
と言っても、廊下と呼べるほど長いものではない。
中央の部屋を経由して、別の部屋へ行く。
それだけだ。
この施設は、変な作りをしている。
大きな部屋がいくつもあって、それぞれが中央の部屋につながっている。
まるで。
子供が遊ぶためだけに作られた場所みたいだった。
「墨家さん」
「何?」
「さっき、何か考えてました?」
「別に」
「そう」
幽鬼は、それ以上聞かなかった。
こういうところは楽だった。
余計なことを聞かない。
聞いても、必要以上に踏み込まない。
白士を見る。
白士は何も言わず、幽鬼の後ろを歩いている。
いつも通りだった。
何を考えているのか、よくわからない。
それも、いつも通りだった。
私たちは中央の部屋に戻ってきた。
相変わらず、ベッドが並んでいる。
その向こうには、巨大な遊具。
壁際には、おもちゃ。
天井からは、ゆっくりと何かが回っている。
ここにいると、時間の感覚がおかしくなる。
昼なのか。
夜なのか。
何日目なのか。
そういうことを考えなくてもいい。
時計を見る必要もない。
ゲームを探す必要もない。
ただ、ここで寝て。
起きて。
食べて。
また寝る。
それだけでもいい。
「どこから見る?」
幽鬼が聞いた。
「どこでもいいよ」
「じゃあ、あっち」
幽鬼が指を向ける。
そこには、ジャングルジムがあった。
私はそれを見た。
子供の頃。
こういう遊具で遊んだことがあった。
……たぶん。
あまり覚えていない。
私は幽鬼の後ろについて歩き出した。
白士もついてくる。
三人で、ジャングルジムへ向かう。
その途中。
一人の男と目が合った。
男は、ベッドに寝転がっていた。
こちらを見ていた。
私は視線を外す。
少し歩く。
別の女がいた。
その女も、こちらを見ていた。
私と目が合うと、すぐに本へ視線を戻した。
偶然。
そういうこともある。
この部屋には、たくさんの人が近くにいる。
その全員がこちらを見ない方がおかしい。
……でも。
何かがおかしい。
私は歩きながら、周囲を見る。
ベッド。
おもちゃ。
遊具。
人。
また人。
どこを見ても、誰かがいる。
そして。
誰かが、こちらを見ている。
ジャングルジムの前まで来た。
「登ってみようかな」
幽鬼が言った。
「子供じゃないんだから」
「探検だからいいでしょ」
「そういうもの?」
「そういうもの」
幽鬼はジャングルジムに手をかけた。
私は周囲を見た。
さっきの男。
まだこちらを見ている。
本を読んでいた女。
今度は本を読んでいない。
別の場所にいる二人組も、何か話しながらこちらを見ている。
私は、そこでようやく気づいた。
見られている。
私たちは、ずっと見られていた。
たぶん。
私だけじゃない。
幽鬼も。
白士も。
けれど。
二人は気づいていないようだった。
いや。
白士はわからない。
あの人は、何を考えているのかよくわからない。
私は、もう一度周囲を見る。
誰も近づいてこない。
誰も話しかけてこない。
邪魔もしない。
ただ見ている。
それが、かえって気味が悪かった。
普通なら。
少なくとも。
何かしらの反応があるはずだ。
でも。
誰も何もしない。
私たちが何をしているのか。
どこまで調べるのか。
どこで諦めるのか。
それを待っているように見えた。
……まるで。
私たちが諦めることを、最初から知っているみたいだった。
そう思った、そのとき。
「……あいつが、白士か」
背後から、声がした。
振り返る。
さっきまで、そこには誰もいなかったはずなのに。
男が立っていた。
いや。
一人じゃない。
その後ろに、もう二人いる。
さらに、その後ろにも。
いつの間に。
「おい」
男が白士を見る。
「お前が、白士か」
白士は振り返った。
「……そうだけど」
その返事を聞いた瞬間。
男が走り出した。
「白士!」
私は叫んだ。
男の拳が飛んでくる。
白士は、それを避けた。
そして。
男の腕を掴む。
「何のつもりだ」
「死ね!」
別の男が横から飛び込んできた。
白士はそちらを見る。
一歩下がる。
拳が空を切った。
そのまま、最初の男を投げ飛ばす。
床に身体が叩きつけられた。
「……何なんだよ」
白士が言う。
困惑している。
本当に、何もわかっていないようだった。
でも。
周りの人間は、違った。
誰も驚いていない。
逃げてもいない。
助けようともしない。
ただ。
見ている。
「こいつが白士だ」
誰かが言った。
「九十五日生きてるっていう」
「本当に?」
「そうらしい」
「だったら……」
その先は、聞き取れなかった。
でも。
十分だった。
私は理解した。
昨日。
幽鬼が話していたこと。
白士が九十五日、生きていること。
それが。
広まっている。
私は幽鬼を見る。
幽鬼は、ジャングルジムの前に立ったまま、状況を理解できていない顔をしていた。
「墨家さん」
「……何?」
「どうして、この人たち……」
「知らない」
私は答えた。
けれど。
本当は、少しだけわかっていた。
この人たちは。
私たちが諦めるのを待っていた。
ここから出ようとしないなら。
何もしない。
ここで食べて。
寝て。
遊んで。
そのうち、この場所に慣れて。
諦める。
それなら。
何も問題はない。
でも。
白士は違う。
九十五日も生きている。
それだけ長く生きている人間なら。
もしかしたら。
本当に帰れるのかもしれない。
そう思わせるには。
十分すぎる数字だった。
だから。
怖いのだ。
「お前がいると、みんなが帰れると思うだろ!」
誰かが叫んだ。
その言葉を聞いて。
私は、妙に納得した。
帰れる。
その可能性がある。
その可能性を。
この人たちは、望んでいない。
正確には。
望みたくない。
ここにいた方が楽だから。
ここなら。
何もしなくていい。
何も考えなくていい。
外のことを考えなくていい。
だから。
帰れるかもしれない人間が。
邪魔なのだ。
白士は、周囲を見た。
いつの間にか。
人が増えている。
さっきまで遠くにいた人たちまで。
こちらを囲むように集まってきていた。
「……そういうことか」
白士が呟いた。
その声は。
妙に静かだった。
「何が?」
幽鬼が聞く。
白士は答えなかった。
ただ。
拳を握った。
私は。
その横顔を見ていた。
そして。
思った。
ここから出るためには。
この人たちを。
倒さなければならないのかもしれない。
そのとき。
最初に殴りかかってきた男が。
もう一度、白士へ飛びかかった。
あのとき。
私は。
何も考えていなかった。
少し前のことだ。
私は一人で施設の中を歩いていた。
特に目的はない。
暇だったから。
それだけだった。
その途中で。
一人の参加者に話しかけられた。
「君たち、三人で行動してるの?」
「うん」
「白士っていう人と?」
「うん」
「あと、もう一人いたよね」
「墨家さん」
「そう。その人」
私は頷いた。
相手は。
いくつか質問してきた。
どこから来たのか。
いつから一緒にいるのか。
何日くらいこのゲームにいるのか。
私は。
聞かれたことに答えた。
特に変だとは思わなかった。
聞かれたから。
答えただけだ。
私は。
こういうことが苦手だった。
人と話すこと。
相手が何を知りたいのか。
何を言ってはいけないのか。
どこまで話していいのか。
そういうことを。
私は、あまり考えたことがなかった。
白士と出会うまでは。
そもそも。
人とまともに話す必要がなかった。
だから。
そのときも。
相手が質問するたびに。
私は答えた。
「白士って、強いの?」
「たぶん」
「どのくらい生きてるの?」
「九十五日」
「……九十五日?」
「うん」
「そんなに?」
「そうみたい」
私は。
そこで初めて。
相手が少し驚いたことに気づいた。
でも。
なぜ驚いたのかまでは。
わからなかった。
九十五日。
それは。
ただの数字だった。
白士が。
それだけ長く生きている。
それだけの話だと思っていた。
「へえ……」
相手は。
少し黙った。
それから。
「じゃあ、本当に帰れるかもしれないね」
そう言った。
私は。
意味がよくわからなかった。
帰る。
その言葉なら。
わかる。
でも。
どうして白士の生存日数を聞いて。
そんな話になるのか。
私は知らなかった。
そのときの私は。
ただ。
聞かれたから答えただけだった。
それが。
よくなかった。
白士は。
人と話すときは、自分のことを話した方がいいと言っていた。
自分の情報を出せば。
相手も情報を出してくれる。
そうすれば。
相手との信頼関係を作れる。
ゲームをクリアするためにも。
コミュニケーションは大切だ。
そう教えてくれた。
だから。
私は。
質問に答えた。
白士の教えを。
ちゃんと守ったつもりだった。
でも。
私は。
一つだけ知らなかった。
自分の情報を話すことと。
話していい情報を判断することは。
別のことだった。
私は。
それを知らなかった。
だから。
聞かれるままに。
話してしまった。
白士が九十五日生きていることも。
墨家さんと一緒に行動していることも。
私たちが。
ここから出ようとしていることも。
どこまで話したのか。
そのときの私は。
覚えていない。
覚えていないというより。
気にしていなかった。
言ってはいけないことがある。
そんなことすら。
考えていなかった。
そして。
その話は。
私の知らないところで。
広がっていった。