気づいたら、人だかりになっていた。
最初は、数人だった。
ジャングルジムの向こう側にいた人が、こちらを見た。
何をしているのだろう、とでも思ったのかもしれない。
その人が動きを止める。
すると、その隣にいた人も止まった。
一人が見ている。
それを見て、もう一人が見る。
別に珍しいことではない。人間は、他人が見ているものを見たがるらしい。誰かが見ていれば、何があるのか気になってしまう。だから、最初はそれだけだった。
だから、最初はそれだけだった。
一人。
二人。
十人。
いつの間にか、何十人になっていた。
さっきまでジャングルジムで遊んでいた人もいる。
ベッドに寝転がっていた人もいる。
何かを食べていた人もいる。
それぞれが、それぞれの時間を過ごしていたはずなのに。
今は、みんな同じ方向を見ている。
師匠を。
そこで幽鬼は、ようやく気づいた。
さっきまで、そんなことは気にしていなかった。
大人たちがスモックを着ていることも。
その大人たちが、子供みたいにジャングルジムで遊んでいることも。
もちろん、変だとは思っていた。
二十代や三十代くらいの大人が、幼稚園児のような服を着て、ジャングルジムの上を這い回っている。普通に考えれば、おかしい。けれど、ここに来てからずっとそうだった。ベッドがあって、おもちゃがあって、子供向けの食事があって、スモックを着た大人たちがいる。毎日見ているうちに、それがこの場所の普通になっていた。
変なものでも、ずっと見ていれば背景になる。
幽鬼は、そんなものなのだと思っていた。
けれど。
今は違った。
同じ部屋なのに。
同じ人たちなのに。
急に、現実感があった。
ジャングルジムで遊んでいた大人たちがいる。
スモックを着ている。
さっきまで子供のように遊んでいたはずの何十人もの大人たちが、今は誰一人として遊んでいない。
みんな、師匠を見ている。
誰かが何かを言うわけでもない。
驚いた顔をするわけでもない。
逃げるわけでもない。
ただ、見ている。
口を半開きにしたまま、ぼんやりと見ている人もいる。
ジャングルジムの柱に寄りかかっている人もいる。
さっきまで遊んでいた姿勢のまま、首だけをこちらに向けている人もいた。
大人なのに、大人らしい反応がなかった。
普通なら、喧嘩が始まれば止めるか、逃げる。人が蹴飛ばされれば驚く。少なくとも、何が起きているのかくらいは確認するものだと思う。けれど、この人たちは違った。師匠が人を蹴飛ばして、その人間が床に転がっても、誰も助けようとしない。悲鳴も、怒鳴り声も、逃げる足音もない。ただ、見ている。まるで、目の前で起きていることが、自分とは関係のない出来事であるかのように。
サーカス。
ふと、そんな言葉が浮かんだ。
観客がいて。
舞台があって。
その上で、何かが起きている。
観客は、それを見ている。
危険な技が成功すれば喜ぶし、失敗すれば驚く。
少なくとも、普通のサーカスなら。
ここには、それすらなかった。
ただ、人が動いているから見ている。
人が飛べば見る。
人が倒れれば見る。
また別の人が飛べば、それを見る。
そこに自分が関わる必要はない。
そんな目だった。
幽鬼は、自分の肺から変な呼吸音が出ていることに気づいた。
ひゅう、ひゅう、と。
自分の焦りを鎮めようとしているのに、呼吸はどんどん早くなっていく。
けれど。
焦っている理由は、人だかりだけではなかった。
自分のせいだ。
少し前、師匠がどれくらい生き残っているのかと聞かれて、私は答えた。九十五日生き残っていることを、それがどれだけ重要な情報なのかも考えずに。聞かれたから、答えただけだった。
師匠は、人と話すことが大事だと言っていた。自分のことを話せば、相手も自分のことを話してくれる。そうすれば信頼関係を作れるし、ゲームを効率よくクリアするための情報も引き出せる。私はそれを覚えていた。だから、ちゃんと話そうと思った。でも私は、何を話していいのかと、何を話してはいけないのかを区別できなかった。
師匠が私に教えてくれたことを、私は他人に渡してしまった。悪意はなかった。裏切ろうとも思っていなかった。だからこそ、言い訳ができなかった。私は、何も考えずに聞かれたことへ答えた。その程度のことも判断できなかった。そして、そのせいで師匠を危険に晒した。
師匠は強い。今も、何十人に囲まれているのに余裕がある。ジャングルジムの中を軽々と動き、近づいてくる人間を蹴飛ばしている。見ている限りでは、問題なさそうだった。だから、師匠なら大丈夫だと思ってしまう。
そう考えれば、少しだけ楽になれる。
でも、それはあまりにも都合がよかった。私が失敗して、師匠がその失敗を自分の強さで埋め合わせている。私は何もしないまま、師匠なら大丈夫だと安心している。それでは、何のために一緒にいるのかわからない。
師匠は、私を連れてきてくれた。
私よりずっと長く、この場所で生き残っている。
私よりずっと多くのことを知っている。
それでも、私にちゃんと話しかけてくれた。
私には足りないものが多いから。
だから、教えてくれた。
なのに私は。
その教えを、一番まずい形で使った。
それが、たまらなく嫌だった。
師匠はまだ戦っている。
私が話してしまったことも知らずに。
私が広げてしまった情報を持った人たちに囲まれて。
それでも、私の前に立っている。
私は、何をしているのだろう。
助けたい。
そう思った。
でも、どうすればいいのかわからない。
前に出れば邪魔になる。
逃げれば師匠を置いていくことになる。
何か言おうとしても、何を言えばいいのかわからない。
結局。
何もできない。
見ていることしかできない。
それなら。
せめて、こんなことになる前に気づけばよかった。
「これは言ってはいけないことかもしれない」と。
一度でも考えていれば。
少しでも考えていれば。
わかったはずなのに。
私は、それすらできなかった。
人と話すことも。
人を信用することも。
情報を扱うことも。
何一つ、まともにできない。
師匠は強い。
だから、今はまだ大丈夫なのかもしれない。
でも。
このあと何が起きるのかは、わからない。
今は野次馬でも。
何十人が、何百人になったら。
この人たちが突然、敵になったら。
師匠が怪我をしたら。
もし。
もし、師匠が死んだら。
その考えが浮かんだ瞬間、幽鬼は息を止めた。
考えたくなかった。
でも、考えなければいけなかった。
もし師匠が死んだら。
私は、自分が何をしたのかを一生覚えているだろう。
私が話した。
私が、言わなくてもいいことを言った。
私が、考えなかった。
そのせいで。
そう考えただけで、胸の奥が重くなった。
今なら、まだ間に合うのかもしれない。
師匠は生きている。
戦えている。
だから、まだ何も起きていない。
そう思いたかった。
でも。
「まだ何も起きていない」と思えるのは、ただ師匠が強いからだ。
私が何もできていないことに、変わりはない。
師匠が私の失敗を、師匠自身の強さで埋め合わせているだけだ。
そのことが。
一番、苦しかった。
師匠が、また一人を蹴飛ばした。
人間が宙を舞う。
それを見ても、誰も驚かない。
一人が近づく。
それにつられるように、もう一人。
さらに、もう一人。
人だかりは、まだ増えていた。
ただ、ぼんやりと、生気のない目で。
師匠と。
師匠と何十人かの人たちを。
まるで、サーカスの出し物を見ているかのように。
そこに、新しいピエロが現れた。
師匠に勝るとも劣らない速度で、エキストラたちをなぎ倒しながら。
墨家さんだった。
いつの間にか、私のそばからいなくなっていたらしい。
いや、いなくなっていたことにすら気づかなかった。
それくらい、目の前の光景に意識を持っていかれていた。
墨家さんは、一人を蹴飛ばした。
二人目を殴った。
三人目は、たぶん殴る必要すらなかった。近づいただけで逃げようとしたので、その背中を軽く押すだけで転んだ。
そして、そのまま師匠のところまで行った。
ピエロが二人になった。
観客は、それを見ていた。
逃げるでもなく、助けるでもなく。
ただ見ている。
本当にサーカスみたいだった。
違うところがあるとすれば、普通のサーカスでは、ピエロが観客を殴ったりはしないということくらいだろう。
私は走り出した。
速く。
速く。
走らなければならない。
途中にいる人間を殴り飛ばした。
一人。
二人。
三人。
邪魔だったから。
それ以上の理由はない。
人を殴ることについて考えている暇はなかった。
このままでは駄目だ。
このゲームには、三百人ほどの参加者がいる。
全員が私たちを敵視しているわけではないだろう。けれど、一人でも二人でも敵が増えれば面倒になる。
ここは六つある部屋の一つで、他の部屋にも人がいる。まだ騒ぎが伝わっていないだけかもしれない。どちらにせよ、人が集まる前にクリアしなければならない。
とにかく。
人が集まる前に、ゲームをクリアしなければならない。
このままでは、じり貧だ。
敵が増える。
逃げる場所がなくなる。
そうなれば、いくら師匠でもどうなるかわからない。
だから。
速く。
速くしなければ。
私は走った。
必死に走った。
師匠たちのところへ行かなければ。
加勢しなければ。
そして。
クリア方法を見つけなければならない。
ゴールを。
ゴールの鍵を。
見つけなければ。
横から、どさっ、と音がした。
誰かが倒れたらしい。
師匠が蹴飛ばしたのか。
それとも、墨家さんが蹴飛ばしたのか。
私はそちらを見なかった。
見ている暇がなかった。
あと少し。
あと少しで、二人のところへ。
そう思っていた。
なのに。
白士がいなくなっていた。
「……え?」
足が止まった。
ほんの一瞬だった。
さっきまで、そこにいた。
ジャングルジムの中にいた。
人を蹴飛ばしていた。
墨家さんも、その隣にいた。
なのに。
いない。
どこ。
師匠。
どこに。
視線を動かした。
そのとき。
足元に、妙な感触があった。
生暖かい。
何かを踏んだわけではない。
床に、何かが広がっている。
赤い。
血だった。
そして、その中心に。
師匠がいた。
スモックの腹部を、真っ赤に染めた状態で。
一瞬、意味がわからなかった。
血が出ている。
それはわかった。
でも。
どうして。
師匠が。
私はスモックを見た。
白っぽい服だった。
子供向けの服は、汚れや異常がわかりやすいように明るい色を使うことがある。
たぶん、子供自身が説明できないことを、大人が見つけるためなのだろう。
よくできた服だと思う。
――でも、今はその白さが嫌だった。赤いものが、あまりにもよく見える。どこから出たのか、どれくらい出たのか。見ればわかってしまう。師匠の服を見れば、健康な状態ではないことくらい、私にもわかった。
「師匠……?」
返事がない。
私は、その場に立ち尽くした。
さっきまで。
普通に動いていたのに。
墨家の手には、刃物が握られていた。
どこかに置いてあったものだ。
確か、あの部屋に。
勇者か何かが持っていそうな、おもちゃみたいな剣だった。
でも。
おもちゃではなかったらしい。
師匠の腹から流れ出た血が、それを教えてくれていた。
私は墨家さんを見た。
墨家さんも、私を見ていた。
「墨家さん……どうしてですか?」
不思議なことに、私は落ち着いていた。怖くないわけではない。
師匠が死んだかもしれないし、私も殺されるかもしれない。それでも、さっきまでの焦りは消えていた。
たぶん、怖がっていたものが、もう目の前にあるからだ。起きるかもしれないことを考えている間は、どうなるかわからない。けれど、起きてしまえば、少なくとも考え続ける必要はない。
――それに、私が何をしても師匠を助けられないのなら。そう思った瞬間、少しだけ肩の荷が下りたような気がした。ひどい話だった。
「なあ、私、もう今日で三十日目なんだよ」
墨家さんが言った。
いつものひょうひょうとした感じとは、少し違っていた。
表情も変だった。
怒っているようにも見える。
泣きそうにも見える。
普段は使わない表情筋を使っているから、変な顔になっているのかもしれない。
「一か月だぞ。もう……」
墨家さんは、そこで言葉を切った。
「白士は九十五日……」
また、師匠の名前が出た。
「私の三倍は、この国にいるんだよ」
正確には、三倍より少し多い。
でも、そんなことを言う意味はなかった。
「なのに帰れてないんだよ」
墨家さんは言った。
「帰れてないんだよ」
同じことを二度言った。
「私はこの一か月、何度ゲームに参加して、何度死にかけたと思ってるんだよ。最初のゲームのときだってそうだった。おかしいんだよ。どいつもこいつも」
早口だった。
ところどころ、よく聞き取れない。
「なあ、私さ」
墨家さんは私を見る。
「そんなに元の世界がいいところだって思えないんだよ」
元の世界。
私は少し考えた。
私にとっては、元の世界も今和の国も、どちらも死ぬ可能性がある場所だった。
だから、どちらがいいのかと聞かれても、よくわからない。
「どいつもこいつもさ。ずっとそうだ」
墨家さんは続けた。
「みんな楽しくもないってわかってるのに。楽しいかもしれないって思いながら、明らかに楽しくなるとは思えないようなことをするだろ」
私は黙って聞いていた。
「私だってそうさ」
そこで、墨家さんは少し笑った。
でも。
いつもの笑い方ではなかった。
「でも、私もおんなじなんだ」
何がおんなじなのか、私にはよくわからなかった。墨家さんの話は、最初からずっと飛び飛びだった。九十五日、三十日、元の世界、ゲーム、楽しいこと。それぞれがどう繋がっているのか、まだわからない。
「心の底から、何かを本当に楽しいとも、幸せだとも思ったことがない」
墨家さんは言った。
「好きな曲やバイクも、別に本当に好きじゃない」
少し間があった。
「好きだってことに決めて、好きだったんだ」
私は墨家さんを見た。
その言葉には、妙な覚えがあった。
昔。
学校にいた人たちも、似たようなことをしていた。
何をしていたのかは、よく覚えていない。
覚えている必要もないと思っていた。
ただ。
放課後になると、いつも同じような連中が集まっていた。
家に帰っても、別に何もなかった。
学校にいても、似たようなものだった。
誰かが怒鳴っていたり。
物が壊れたり。
そういうことが、珍しくなかった。
その中にいた何人かは。
明らかに、普通ではないものに手を出していた。
ある日。
私も一度だけ、その中に混ざった。
何をどうしたのかは、今ではあまり覚えていない。
覚えているのは。
鼻につくような、妙な臭い。
それと。
周りが、何か特別なことをしているみたいな顔をしていたこと。
私は、同じようにしてみた。
けれど。
何も起こらなかった。
期待していたようなものも。
楽しくなるような感じも。
何も。
「……なんだこれ」
そう思ったのだけは覚えている。
そのあと、私は二度とやらなかった。
別に怖かったからではない。
単純に。
つまらなかったからだ。
それでも、そいつらは続けていた。
私には、それがよくわからなかった。
楽しくないなら、やめればいい。
そう思っていた。
でも。
たぶん、そういう簡単な話ではなかった。
そのとき。
一人の奴が、空っぽの冷蔵庫を何度も開け閉めしていたことを思い出した。
「……冷蔵庫みたいなんだよ」
墨家さんが言った。
「空っぽなのにさ」
私は墨家さんを見る。
「開けるだろ。閉めるだろ。また開ける」
まるで。
何度か開けていれば。
今度こそ、おいしいものが突然入っているとでも思っているみたいに。
「入ってるわけないのにな」
墨家さんは笑った。
「何回開けても、空っぽなら空っぽなんだよ」
それでも。
また開ける。
「でも、もしかしたら次は入ってるかもしれない」
墨家さんは何もないところを見ていた。
「おいしいものが。急に」
少し間があった。
「……私も、そうだったんだろうな」
その声だけは、さっきまでより小さかった。
「楽しくないってわかってるのに」
それでも。
「楽しいかもしれないって思ってた」
墨家さんは刃物を握り直した。
「だから、何回も開けるんだよ」
冷蔵庫を。
何もないとわかっているのに。
「私だって、同じだったんだ」
墨家さんは言った。
「好きな曲も、バイクも」
少し笑う。
「好きだから好きだったんじゃない」
「好きってことにしてたんだよ」
それから。
「そうしないと、何にもないから」
墨家さんは、そこで黙った。
しばらくして。
急に。
「幽鬼」
声が変わった。
さっきまでの早口とは違う。
妙に静かだった。
「ここで生きよう」
刃物を持った手が、少しだけ上がる。
「でなけりゃ」
墨家さんが私を見る。
その目は。
私が今まで向けられたことのない目だった。
「ここで殺す」
芯まで凍るような声だった。
普段の、気のいい姉御みたいな雰囲気はどこにもなかった。
私は墨家さんを見た。
刃物を見る。
そして。
倒れている師匠を見る。
その順番で、何度か視線を動かした。
不思議だった。
さっきまでなら。
ここで怖くなっていたはずなのに。
今は。
むしろ。
頭の中が、妙に静かだった。
幽鬼は口を動かした。
何を言ったのかは、自分でもわからなかった。
ただ、三文字だったことだけは覚えている。
無意識だった。
けれど、その三文字が何を意味していたのかはわかる。
拒否。
それだけは、はっきりしていた。
墨家が近づいてくる。
低い姿勢だった。
そして、速い。
最初から速いというよりは、近づいてくるにつれて速度が増しているように見えた。普通ならそんなことはない。人間が走るときには、どこかで最高速度に達する。そこからさらに速くなることはない。
けれど、墨家はそう見えた。
野球のボールでも、投げた直後よりも手元に近づいてきたときのほうが速く見えることがある。もちろん実際に加速しているわけではなく、目の前に来るほど速度を認識しやすくなるだけなのだろう。
墨家も、たぶん同じだ。
近づいている。
近づいている。
そう思っているうちに。
もう目の前だった。
幽鬼は構えた。
足の裏に力を入れる。
指先にも。
膝を少し曲げて、身体の重心を下げる。
地面に身体を置くような感覚。
こうしておけば、少なくとも簡単には吹き飛ばされない。
たぶん。
来る。
あと数歩。
いや。
数歩もない。
墨家の右肩が動いた。
次に肘。
腰。
身体の回転。
右腕を振り抜くための動作が、順番に見えた。
まっすぐ来る。
顔面。
幽鬼にはわかっていた。
だから、身体をひねった。
拳の軌道から顔を外す。
これなら避けられる。
そう思った。
そして。
カウンターを入れるために、右腕を引いた。
その瞬間だった。
衝撃があった。
視界がちかちかした。
何が起きたのか、一瞬だけわからなくなる。
殴られた。
顔だった。
墨家の拳は、幽鬼が予想していた通りの軌道を通って、幽鬼の顔面に当たっていた。
別にフェイントではない。
別の場所を狙われたわけでもない。
拳の軌道を見失ったわけでもない。
来ることはわかっていた。
拳を振り始めるところも見えていた。
それでも。
避けられなかった。
幽鬼は、自分が避けようとしていたことを覚えていた。
身体をひねったことも覚えている。
なのに、結果だけを見ると、避けていない。
頭では避けている。
身体は避けていない。
そんなことがあるらしい。
人間の身体というのは、思っていたより不便なのかもしれない。
足が地面から離れた。
今度は何をされたのか考えるより先に、身体が浮いていた。
足払い。
たぶん。
背中から倒れる。
その一瞬だけ、天井が見えた。
白っぽい天井だった。
さっきまで見ていた、子供部屋のような天井。
こんな場所で。
こんなふうに。
自分が天井を見上げることになるとは思わなかった。
次の瞬間。
横腹に衝撃が入った。
地面ではない。
肋骨のあたりだった。
めきめき、と音がした。
骨が鳴ったのかもしれない。
服が擦れただけかもしれない。
自分の身体から出た音なのかすら、よくわからなかった。
ただ、痛い。
それだけはわかった。
そして。
また身体が飛んだ。
今度はどこへ飛んでいるのかもわからない。
床。
壁。
人。
何かにぶつかるかもしれない。
けれど、それを確認することもできない。
身体が宙にある。
その事実だけが、妙にはっきりしていた。
幽鬼は思った。
私は今。
飛んでいる。
それは、空を飛んでいるという意味ではない。
もちろん、そんなことができるわけではない。
人間は飛べない。
少なくとも、翼がない人間は。
だからこれは、飛ばされているだけだ。
それでも。
今だけは。
自分で飛んでいるような気がした。
なにを私はしてるんだろう。
気づいたら、誰かに肩を担がれていた。
一人ではないらしい。
二人……いや。
よくわからない。
身体の左右から何かに支えられている。歩いているらしく、身体が一定の間隔で揺れていた。自分で歩いている感覚はない。ということは、誰かに運ばれているのだろう。
肩を担がれながら歩く。
なんだか、お酒に酔った人みたいだ。
私はお酒を飲んだことがないので、実際に酔った人がこういうふうになるのかは知らないけれど、たぶん似たようなものなのだろう。
……いや。
未成年だし、そんなわけないか。
そもそも。
私は何を考えているんだろう。
こんな状況でお酒のことを考える必要はない。
でも、よくわからないことが起きていると、人間はどうでもいいことを考えるらしい。
少なくとも私はそうだった。
床が、暖かい。
床ではないかもしれない。
水?
お湯?
どちらかだ。
身体の下に、何か液体がある。
暖かい。
そのことだけはわかった。
そして。
苦しい。
幽鬼は身体を動かした。
手を。
足を。
身体を。
そのたびに、ばしゃばしゃと音がした。
水がある。
やはり、水なのだろうか。
頬のあたりを気泡が通っていく。手足を動かすと、水がまとわりつくような感覚がある。服も濡れているらしい。
気持ち悪い。
それより。
息ができない。
立ち上がらないと。
幽鬼は身体を起こそうとした。
けれど、動かなかった。
何かに押さえられている。
最初は、一人なのかと思った。
しかし。
違った。
両足。
肩。
腕。
そして、頭。
いくつもの手が身体を押さえている。
特に頭を押さえている力が強い。
幽鬼は暴れた。
手を振る。
足を動かす。
身体をひねる。
立ち上がろうとする。
こういうとき、どうすればいいのかはわからない。
ただ、立ち上がらなければならないということだけはわかる。
だから暴れた。
必死に。
それでも。
抜けられない。
お湯が熱い。
濡れた服が身体にまとわりつく。
身体が重い。
普段なら、服が濡れたくらいでここまで動きにくくなるとは思わない。
でも今は。
自分の身体が、自分のものではないみたいだった。
息ができない。
苦しい。
目を開ける。
水の向こう側に、ぼんやりと人影が見えた。
誰だろう。
よく見えない。
けれど。
見覚えがある。
毛糸みたいな女。
さっき見た。
あの女だった。
口が動く。
「幽鬼さん。暴れないでください」
やけに冷静な声だった。
私がこれだけ暴れているのに。
どうしてそんなに落ち着いているんだろう。
低い声で、耳元に向かってぼそぼそと話しかけてくる。
その声を聞いていると、まるで私のほうが何か間違ったことをしているような気分になる。
もちろん。
間違っているのは、たぶん私ではない。
息ができないのだから。
立ち上がろうとしているだけなのだから。
そう思った。
けれど。
そんなことを考えている間にも、細い腕が伸びてきた。
毛糸のように細い腕だった。
人間の腕というのは、もう少し太いものだと思っていたけれど。
細い。
なのに。
力が強い。
頭を押さえつけられる。
幽鬼は頭を上げようとした。
上がらない。
もう一度。
それでも上がらない。
水面が近い。
というより。
水面しか見えない。
そして。
頭を挙げることができなくなった。
「念入りにやっとけよ」
墨家が言った。
浴室には、十人ほどの人間がいた。最初からではない。幽鬼が思った以上に暴れたため、一人、また一人と増えていったのだ。両腕、両足、肩。そして頭。特に頭だけは、念入りに押さえつけられていた。そこが水面から出なければ、呼吸はできない。単純な話だった。
幽鬼の身体が動く。
ばしゃばしゃと音がする。
お湯が跳ねる。
スモックを着た大人たちが、子供用のような浴室で、一人の人間を浴槽に押し込んでいる。少し前までなら、かなり変な光景だと思っただろう。けれど、この場所では、ジャングルジムで大人が遊び、ベッドで大人が寝て、子供向けの食事を大人が食べている。その延長線上にあるだけだった。もちろん、普通ではない。ここでは、普通ではないことが多すぎた。
しばらくすると。
ばしゃばしゃという音が小さくなった。
幽鬼の手足が、水面から出なくなったからだ。
それでも墨家は、手を離させなかった。
まだ生きているかもしれない。
人間は、意外としぶとい。
一分。
二分。
それくらい経ったころだろうか。
幽鬼が暴れる様子はなくなった。
けれど。
それだけでは足りない。
死んだふりをしている可能性もある。
だから。
もう少し。
あと三分。
いや。
五分くらいは、そのまま押さえつけていただろうか。
それからようやく、墨家は浴槽から離れた。
幽鬼は動かなかった。
墨家はスモックを着替えた。
濡れた服は動きにくい。
それに、白っぽいスモックは水に濡れると妙に目立つ。
この場所では、服装まで子供向けに作られている。
だから着替えた。
それだけだった。
そして墨家は。
何事もなかったかのように、浴室を後にした。