(19/30)
金子は、幽鬼の膝に顔をうずめたまま、震えていた。
涙が止まらない。
どうしてこんなことになったのか、わからない。
ふと――
昔のことを思い出す。
まだ、小さかったころ。
公園のベンチに座って、父と二人でアイスを食べていた。
夕方の風がやさしくて、
ブランコがきいきいと鳴っていた。
「ねえパパ」
金子――みすずは、アイスを持ったまま言った。
「大きくなったらね」
父は笑っていた。
「うん?」
「パパみたいになるの」
少しだけ、父は驚いた顔をして。
それから、くしゃっと笑った。
「そっか」
大きな手が、みすずの頭に置かれる。
「ほんとうに、みすずはやさしいね」
その手は、あたたかかった。
――どうしてだろう。
今、その手の感触を思い出すと、
胸の奥が、ぎゅっと痛くなる。
(……パパ)
金子の肩が、小さく震えた。
――やさしいね。
あの言葉が、頭の奥で何度も響いていた。
(20/30)
静まり返ったカラオケボックスの中で、
小さな音が響いていた。
金子の、すすり泣く声だ。
もし次、電車が右方向に進めば――
幽鬼ペアの負け。
だがもし、左方向へ進めば――
今度は、小さい数字を選んだ者の負けになる。
幽鬼は静かに言った。
「金子……私は、次も20を入力するよ」
金子は顔を上げなかった。
ただ、幽鬼の膝に額を押し付けたまま、
小さくうなずく。
震える肩だけが、その返事だった。
しばらくして、
スピーカーが再び鳴った。
『――全員の解答が出そろいました』
わずかな間。
呼吸の音さえ聞こえる静寂。
『今回は――』
『1』
『1』
わずかな沈黙。
そして――
『7』
一拍置いて、アナウンスが続く。
『電車が動きます』
デンモク画面の路線図の上で、
電車のアイコンが、ゆっくりと動いた。
C1→ B1 → A1
幽鬼は静かに画面を見つめた。
(……これでいい)
毛糸は驚いた。
「ええ、どうしたんでしょう? さっき20を入力すると言っていましたよね。とっさに変えたのでしょうか?」
「……気づかれたのでしょう。法則にも……盗聴器にも」
御城はがさごそと通信機を取り出した。
「言葉。気づかれたようですわ」
「そうですね。ヒントを与えすぎてしまいましたから」
御城は小さく肩をすくめた。
「まあ、仕方ありませんわ。このゲームは数字の入力に制限時間がありませんから」
毛糸がため息をつく。
「なかなか回答してくれないから、いつまで待つのかといらいらしましたよ」
「馬鹿でも、時間さえ与えれば解けてしまうものです」
御城は淡々と言った。
(21/30)
幽鬼が会場に入ったころから感じていた違和感。
それは、テーブルの上に置かれていたスマホだった。
六台。
参加人数と同じ数だ。
だが――すでに二人が先に来ていたはずだ。
普通なら、自分の分くらいは手に取って待っている。
それなのに、スマホは六台すべてテーブルの上に残っていた。
つまりあの時、御城と毛糸は――
自分たちが先に会場に来ていたことを隠し、幽鬼たちより後から来たように見せたかったのだ。
二人がカラオケルームの中にいた理由。
おそらく、盗聴器を仕掛けていたのだろう。
御城が部屋の中で派手な音を立てていたのも、今なら説明がつく。
本来なら、プレイヤーが来る前にすべての仕込みを終えるつもりだったのだ。
だが、幽鬼たちが思ったより早く店に入ってきた。
完全に準備を終える前に。
だから、慌てて部屋から出てきた。
あの不自然なタイミングで。
そして、もう一つ。
最後に現れた言葉と智恵。
二人が声を出すまで、幽鬼はその存在に気づくことができなかった。
入口は一つしかない。
誰かが入ってきたなら、気づかないはずがない。
普段の幽鬼が、背後から来ていた人に気づかないわけがない。
つまり――
あの二人は、最初から会場にいた。
御城たちと手分けして準備をしていたのだ。
毛糸がやけに騒いでいたのも、そのためだろう。
視線を散らし、注意をそらすため。
とっさの機転で、言葉たちがあとから入ってきたと思わせるため。
すべては、最初から仕組まれていた。
このゲームを有利に進めるために。
だが――
幽鬼は、あの時のことを思い出していた。
I1からC1へ電車が移動した直後。
金子が、何かを言いかけた瞬間のことだ。
「金子」
幽鬼は小さく声をかけた。
金子がはっとした顔をする。
電車の動き。
その法則に――気づいた瞬間だった。
幽鬼はすぐに、指を口に当てた。
「……しゃべらないで」
金子の目が大きくなる。
幽鬼は手帳を取り、ペンを走らせた。
『盗聴されてる』
金子の顔色が変わる。
幽鬼はさらに書き足した。
『気づいてないふりをして』
金子はゆっくりとうなずいた。
そして――。
金子は、泣き声をあげたまま、紙にペンを走らせていた。
震える手で、ゆっくりと。
『電車の動きには法則がある』
一行書いて、少し間を置く。
『提出された数字の合計』
その下に、さらに書く。
『その数で進む方向が決まる』
金子はデンモクの画面をちらりと見た。
そこには、電車の簡単なマークが表示されている。
先頭の向きがわかる、小さな電車のアイコン。
金子は紙に書いた。
『基準は電車の先頭』
そして続けて書く。
『初期配置は右向き』
金子はその横に数字を書く。
1
そしてその周囲に、順に数字を書き足した。
2 3 4
『先頭の向きを1として数える』
『そこから時計回り』
金子は矢印を書き添えた。
1 →
2 ↓
3 ←
4 ↑
『四方向に時計回りに数字が割り振られている』
さらに金子は続ける。
5 6 7 8
9 10 11 12...
『数字は同じ順番で繰り返される』
金子は、少しだけ息を整える。
そしてもう一行書いた。
『距離も決まる』
少し考え、書き直す。
『正確には』
『周回数』
紙の端に、小さくまとめる。
1〜4 1周目
5〜8 2周目
9〜12 3周目
13〜16 4周目
……
『進むマス=周回数』
金子はゆっくりと息を吐いた。
そして最後に、静かに書く。
『つまり』
『合計値だけで』
『方向と距離が決まる』
金子はペンを止めた。
そして、幽鬼を見る。
その目には、さっきまでの怯えとは違う光があった。
この電車は、合計値で動く。
方向も、距離も。
幽鬼は、ふっと息を吐いた。
……そういうことか。
もちろん、声には出さない。
紙に、ゆっくりと書いた。
『次はA1に移動する』
金子が驚いた顔をする。
だが、すぐに理由に気づいたらしい。
A1。
盤面の角。
そこに行けば、電車の進路は大きく制限される。
そして何より――
幽鬼は、もう一行書いた。
『向こうはC2に来るルートを作ってる』
金子の呼吸が止まりそうになる。
だが幽鬼は、さらに続けた。
『でも、それはもう使えない』
幽鬼はデンモクの画面を見つめた。
盤面の上で、電車がゆっくりと進んでいる。
そのルートを、頭の中でなぞる。
そして紙に書いた。
『ここからは』
『駆け引き』
金子は、顔を伏せたまま小さくうなずいた。
そして再び、泣き声をあげ始めた。
まるで、絶望しているかのように。
だがその膝の上では――
紙とペンが、すすり泣きの音に紛れて、
静かに動き続けていた。
(22/30)
「御城さん……大丈夫ですか?」
毛糸がおそるおそる声をかけた。
御城は明らかにいらいらしていた。
眉がぴくぴくと震えている。
「ええ、大丈夫ですわ。ばれたところで、私たちが圧倒的有利です」
盗聴器はもう頼りにならない。
だが、問題はない。
言葉ペアとは通信機でつながっている。
互いの数字を相談して決めることができる。
つまり――
提出される三つの数字のうち、
二つは自分たちが操作できる。
御城が最初に選んだ位置は A11。
可能性としてはかなり低いが、
次のターンで電車に轢かれる可能性がゼロではない。
だが現在の電車の位置は A1。
四方向のうち、二つは壁だ。
全員が大きい数字を選びたくなる。
だがそれは危険だ。
移動マス数が増え、
右方向に進めば――
A11に到達する可能性がある。
御城は計算する。
自分が死ぬ合計値。
38、42、46、50、54、58。
自分が 1 を出せば、
成立する可能性があるのは 38 のみ。
だが――
もし移動方向が壁なら、
電車は止まる。
その場合、自分が轢かれる。
ならば。
言葉と 1を出せばいい。
そうすれば確実に
自分の死を回避できる。
そして電車がA1から離れるのを待てばいい。
御城はかなり前に通信機で指示し、
その通りに数字を入力させていた。
だが――
(どれだけ考えているんですの?)
御城の眉がさらに歪む。
(今回のターンは、あなたたちが死ぬことは絶対にない)
(それなのに、どれだけ時間をかけているのですか)
御城が明らかに苛立っている様子を見て、
毛糸はあたふたしていた。
「御城さん……退屈でしたら、本当に私が歌いましょうか?」
「結構です」
即答だった。
「それにあなた、さっきのはあまりにもわざとらしかったですよ」
毛糸の背筋が凍る。
「急に大声で早口に話しだして。
何なら、ばれたのはあなたのせいでは?」
藪蛇だった。
御城の口調は丁寧だ。
だが、言葉は鋭い。
毛糸は必死に考える。
どうすればいいのか。
ゲームとは関係ないところで、
必死に頭を回す。
だが――
頭が、回らない。
毛糸はテーブルに頭をぶつけた。
(23/30)
「……大丈夫ですの?」
「……はい。すみません御城さん」
毛糸は息を吐く。
「今日はちょっと体調がよくなくて……
さっきから頭がぼーっとしていて……」
そういえば。
この部屋は、妙に息苦しい。
――空気が薄い。
御城はそこでようやく理解した。
このゲームが
ダイヤの9 である理由を。
ゲームの法則が難しいからではない。
参加者六人のうち
二人死ねばクリアできる。
その設定に、
違和感を持つべきだったのだ。
このゲームには――
実質的な制限時間がある。
もし誰かが酸欠で
デンモクを操作できなくなればどうなる?
ゲームは進行できない。
そうなれば――
全員死亡。
つまりこのゲームは
法則に気づいたプレイヤーが
すぐに他のプレイヤーを殺さなければならない。
そうしなければ
ゲームが終わらない。
その時。
音が聞こえた。
幽鬼が何か言っている。
「今から……20秒後に、私は20を入力するよ」
「……よく考えてね」
(24/30)
通信機から言葉の声が聞こえる。
「どういう意味でしょうか?」
「御城さん。今回はお互い 1 でいいんですよね」
「ええ……」
御城は少し考える。
「幽鬼たちは何を選ぶと思います?」
言葉はすぐ答えた。
「おそらく 20 です」
「このターンは幽鬼さんたちは絶対に轢かれません」
「それにC2から電車を遠ざけるなら、
20が最適 でしょう」
1、1、20。
この場合、電車は左へ進む。
だが壁にぶつかる。
そして 1と1は同数。
ノーカウント。
言葉は続けた。
「長期戦になるかもしれません」
「ですが私たちが負ける要素はありません」
「カラオケボックスの部屋はペアごとに違いました」
「私たちの部屋は幽鬼さんたちの部屋より
倍くらい大きい んです」
「運が良かった」
「これなら幽鬼さんたちは
急いで膠着状態を崩さないといけません」
(25/30)
こいつ、気づいていない。
こういうところが私が言葉に完全に頼りきりにしない理由だ。
頭がいいのに、変なところを見落とす。
最悪の事態を想定できていないのだ。
「......では私たちは1を選ぶのでよろしいですね。」
「はい」
幽鬼が言った時間が来る、ぎりぎりの瞬間。
御城はデンモクを操作し、
入力していた数字を――書き直した。
全員の解答が出そろいました。
今回は
1。
18。
20。
です。
電車が動く。
A1 → B1 → C1 → D1 → E1 → F1 → G1 → H1 → I1 → J1 → K1
店内のスピーカーから、機械的な声が流れた。
――「こんぐらちゅれいしょん……ゲームクリア……」
(30/30)
金子は目を覚ました。
廃墟だ。
(……ゲームは?)
私は、ゲームの最中に意識を失ったのか?
「起きたみたいだね」
声のした方を見ると、幽鬼がいた。
「ゲームは勝ったよ。しかも、あっさり」
幽鬼は肩をすくめる。
「なんだか拍子抜けしちゃったよ。ここからが勝負だったのに」
金子はまだ状況を飲み込めていない。
幽鬼が簡単に説明してくれた。
言葉のペアは、K1にいたらしい。
御城は――
全滅のリスクを考えて、
言葉たちを切り捨てた。
それでゲームは終わった。
会場を出るとき。
御城が幽鬼に声をかけた。
「幽鬼さん。あなたは私たちの位置を知っていたんですの?」
幽鬼は首を横に振った。
「いや、全然」
あっさりと答える。
「ただ、A行か1列のどちらかに、どこかのペアがいるかもしれないと思って言ってみただけ」
幽鬼は肩をすくめて笑った。
「本当にいるとは思わなかったけどね」
少しの沈黙。
幽鬼は、さっきから気になっていたことを聞いた。
「ところで、どこであんなものを手に入れたの?」
「盗聴器のことですか」
「うん。ああいう複雑な機械、この世界ではなぜか壊れてて使えないはずだったよね」
御城は少し考えるように目を細めた。
「あなた、トランプを持っていますか?」
「あるよ」
「今回の分と、あなたが持っているトランプすべて。それと引き換えなら教えてあげますわ」
幽鬼は少しも迷わなかった。
ポケットからトランプを取り出すと、そのまま御城に渡した。
御城は少しだけ驚いたように眉を上げる。
「……御城さんは信じてるんだね」
「いえ」
御城は淡々と答えた。
「私もそこまでは信じていません」
そう言いながら、トランプを懐にしまう。
「密会……ゲームのノウハウやトランプを集めている人たちがいます」
「トランプと引き換えに、ゲームのクリアに便利な道具……今回の盗聴器のようなものや、武器や情報を手に入れることができます」
そんな人たちがいるのか。
どこかで噂を聞いたことがある気もする。
だが、本当に存在していたとは。
「あなたは密会のメンバーなの?」
御城は小さく首を振った。
「いえ。私はあくまで協力関係というだけですわ」
「私が本当に信じられるのは、この世界では自分だけ。よくわからない連中と群れるつもりはありません」
そして、少しだけ微笑む。
「情報はこれで十分でしょう」
「もし密会に興味があるなら、今後はトランプを積極的に集めることですね」
そう言うと、御城は背を向けた。
「あっ、待ってください御城さん!」
店を出ていく御城を、毛糸が慌てて追いかけていく。
静かになった。
「なるほど、そんなことがあったんですね」
金子は小さくうなずいた。
密会とかいう組織。
もしかしたら、彼らは――
この世界から出る方法を知っているのかもしれない。
「幽鬼さん。密会を探す当てはあるんですか?」
「いや、全然」
幽鬼はあっさりと言った。
「というか、私はそんなの探す気はないよ」
金子は少し驚いた。
「どうしてですか?」
幽鬼は窓の外を見ながら答えた。
しばらく沈黙してから。
ぽつりと。
「青井さんが死んだ」
風が吹いた。
幽鬼の視線は、ずっと遠くを見ていた。