異世界現場監督の定時退勤プラン ~魔法が神秘? バカ言え、ただの設備不良(バグ)だ。物理法則と工学知識でファンタジーを完全論破(デバッグ)する~ 作:ゆばのくさ
地下十四階、第十四地下動力プラント。
カビ臭い湿気と、劣化した那由他オイルが気化して焼ける中毒性の高い悪臭が、防塵マスクのフィルター越しでも鼻腔を刺す。
俺は愛用の魔導テスターを腰のホルスターに収め、ヘルメットの顎紐を締め直した。背後には、北条凛、リリス、そして――つい先程、絶望の淵から強引に引きずり出した新規要員の一条葵が立っている。
「
俺の声に、三人が足音を揃えて寄ってくる。
凛は慣れた様子で、リリスは無機質な瞳で、そして葵は……借りてきた作業着に身を包み、まだ自分の居場所に戸惑うように視線を泳がせながら。
「まず、今回の最重要変動要素は『3H』だ。凛、言ってみろ」
「はいっ! 『
「正解だ。今回は三つ全てが該当する。――まず、俺たち既存班にとって地下十四階への作業は『初めて』だ。そして一条葵、お前の参加による四人体制も『初めて』であり、お前が既存班に加わる『変更』要素であり、さらにお前自身が実戦から三年間離れた『久しぶり』だ。トリプルHの状態で現場に入れるほど、俺の管理基準は甘くない。だからこそ丁寧にやる」
俺はホワイトボード代わりの消去可能な魔導パネルを通路の壁に貼り付け、マーカーを走らせた。
「第一項。作業内容の確認。――一条、お前の本日の役割は
「……はい。路面の水分除去と、温度管理ですね」
「第二項。危険の洗い出し。――一条のリスクは以下の通り。一、慣れない現場での位置取りミス。凛の進行ルートに入れば衝突事故になる。二、魔力出力の暴走。お前は三年間ブランクがある上に、さっき判明したバックノイズの影響で出力の安定性が読めない。過剰出力で床を溶かせば凛とリリスが巻き込まれる。三、環境要因。地下十四階は那由他オイルの気化ガスが充満している。熱供給の温度設定を誤れば引火して爆発する。……以上、重大災害に直結する三要素だ」
葵の顔が強張った。凛も真剣な表情で頷いている。
「第三項。対策。――一、位置取りについて。一条は常に凛の後方十メートル以上を維持。前進の指示は俺からのみ受けろ。二、出力制御。初期出力は定格の六十パーセントに制限。俺がテスターでリアルタイムにお前の出力をモニタリングする。数値が安定するまで絶対に上げるな。三、温度管理。路面への熱供給は摂氏四十度を上限とする。那由他オイルの引火点は八十四度だが、安全マージンとしてその半分以下に設定する。……凛、リリス。追加のリスクは」
「リリスは
「いい指摘だ。リリスの洗浄ガンの射程と一条の熱供給エリア、最低五メートルの緩衝帯を設ける。作業エリアが重なる場合は必ず声掛け確認。……よし。以上がKYの結論だ。一条、復唱しろ」
「……位置は凛さんの後方十メートル以上を維持。出力は定格の六十パーセント以下で開始、佐藤くんのモニタリング指示に従う。温度上限は摂氏四十度。リリスさんとの作業エリアは五メートル以上の間隔を確保。作業は佐藤くんの指示以外では開始しない」
「よし、合格だ。……一条。お前にヒーローのような派手な活躍は求めない。凛が全力で踏み込める足場を作る。それがお前の仕事だ。凛が滑って転べば、それは
「……はい。佐藤くんの指示通りに、やってみます」
葵の声はまだ細いが、その瞳には役割を与えられたことへの、かすかな光が宿っていた。
「よし。ゼロ災で行こう。全員、指差し呼称!」
「「「ゼロ災でいこう、ヨシ!」」」
◇
プラントの深部は、もはや物理的な法則が歪み始めていた。
漏洩した魔力が壁面の結露と混ざり合い、蠢く粘液状の不定形生物――
「リリス。前方、高圧洗浄ガンにて
「承知いたしましたわ! ……
凛が、超硬セラミックを肉盛りした杖を構え、弾丸のように踏み出す。
本来なら、濡れた金属床での急加減速は自殺行為だ。だが。
「……路面状況、把握。
葵が細い指先を掲げる。
彼女の周囲で、制御を失って暴れていたはずの至宝の魔力が、今や一本の細いレーザーのような精度をもって床面を焼く。パチュン、と水蒸気が上がる音がして、凛のブーツの裏が完璧なグリップを掴んだ。
さらに、葵の熱処理は路面だけに留まらなかった。凛のブーツと接地面の間に微細な乾燥摩擦面を生成し続けることで、凛の足裏にかかるグリップ力が飛躍的に向上している。俺のテスターが表示する摩擦係数は通常路面の一・八倍――もはや研磨されたレール上を走るのと同じだ。
その結果、風圧・重力加速によって加速された凛の体が、通常なら慣性で吹き飛ぶような鋭角ターンを、一切の横滑りなしに刻んだ。直角機動。葵のグリップ補助がなければ壁に叩きつけられていた軌道だ。
「すごい! 全く滑りませんの! 葵さん、最高ですわ!!」
ドゴォッ! と、空気が破裂するような衝撃音。
凛の打撃が
葵は、自分の力が、仲間が全力を出すためのキャンバスを整えるために機能しているのを、肌で感じていた。
かつて自分が至宝と呼ばれた頃の魔法は、自分一人で完結する全能感の象徴だった。だが、今、佐藤に現場として定義された力は……。
隣の作業員を生かし、工程を支えるための、尊い歯車としての輝き。
(……私。誰からもいらないと言われた私のこの力が、今のあの子の速さを作ってる。あ、ああ。気持ちいい……。佐藤くんが言っていたのは、こういうことだったの?)
彼女の集中力は、もはや産廃と呼ばれていた頃のノイズに支配されてはいなかった。
◇
最奥の『第十四魔導中継ステーション』に到達した時、俺は思わず舌打ちをした。
巨大な真鍮製のハウジング。その隙間から、ドロリとした那由他オイルの変質液が膿のように漏れ出している。
「佐藤さん、これ、あまりにも酷くありませんこと? 定期点検のラベルは、先週の日付になっていますけれど……」
凛が剥げかけたラベルを指さす。
俺は無言でハウジングのボルトをレンチで抉り開け、内部をテスターでスキャンした。……結果は明白だった。
「ああ。これは事故じゃない。隠蔽された
俺の声は、オイルの沈殿した重い空気の中で冷たく響いた。
中継ステーションの内部。魔力伝導パスに使用されている銀絶縁体の表面に、意図的に傷をつけ、
「
「一条。お前がここに配属される前。いや、お前が才能が枯れたと診断されるもっと前からだ。誰かが定期メンテナンスをスキップし、かつ不具合を隠蔽するために回路をバイパスさせた。その結果、このステーションは定格以上の
俺は、回路の一部から強引に引き剥がした不正なケーブルを、一条葵の前に突きつけた。
「お前の不調の原因の一端は、これだ。お前のせいじゃない。組織ぐるみの、明らかな不正施工と隠蔽。……そして、その被害者であるお前を不良品扱いでここに捨てた。これが、この学園の保守管理局の正体だよ」
葵は、その黒ずんだ汚れたケーブルを、震える手で見つめた。
自分が自分を責め続け、泣き腫らし、絶望に身を置いていた三年間。
それは、誰かの利益や保身のために仕組まれた、不適合なシステムの犠牲になっていただけだったのだ。
「……そんな。じゃあ、私の……私の三年間は……」
「嘆くのは
「…………はい、佐藤くん。
彼女の手から、かつての至宝を凌駕する、強固な決意を孕んだ青い光が溢れ出す。
◇
十五時四十五分。
プラントのメインモニターに、三年間一度も表示されなかった「
「系統正常化を確認。だが、まだ終わりじゃない。撤収と現場の原状復帰だ」
俺の指示で、四人は手分けして後始末を開始した。リリスが汚泥の残渣を洗浄ガンで排水溝に流し込み、凛が使用した工具の員数確認と収納を行う。葵は自分が加熱処理した床面に異常がないか、手で触れて確認しながら歩いた。俺はテスターの計測ログを保存し、不正回路の証拠品を密封バッグに封入した。
十七時〇〇分。
地上への業務用エレベーターが、夕陽の差し込むエントランスホールに到着した。外の空気が、地下十四階の腐臭に慣れきった肺に沁みる。
撤収と現場の原状復帰を終え、装備品の清掃と返却を済ませた時刻が、ちょうど定時だった。
「作業完了。本日の工数、予定通り。超過勤務なし。……一条、どうだ。これが
一条葵は、自分の汚れた安全靴を見つめ。
それから、俺に向かって深々と頭を下げた。
「佐藤くん。……ありがとう。私、ようやく自分が誰なのか、思い出せました」
「礼を言われる筋合いはない。不適合を正すのは現場監督の義務だ。……それより、明日は
俺は背を向け、拠点へと歩き出す。
背後で、凛と葵が賑やかに、あるいは穏やかに言葉を交わす声が聞こえる。
組織の不適合を暴いた代償は、きっと高くつくだろう。だが。
俺の目の前には、最高の可用性を取り戻したエンジニアたちがいる。
事故も災害も、この俺の現場では許さない。
明日も、ご安全に。
本日も一日ご安全に!