異世界現場監督の定時退勤プラン ~魔法が神秘? バカ言え、ただの設備不良(バグ)だ。物理法則と工学知識でファンタジーを完全論破(デバッグ)する~ 作:ゆばのくさ
翌朝。時刻は〇八時〇〇分。
女子寮の一室で、一条葵は信じられないほど静かな目覚めを迎えた。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、埃っぽくない、澄んだ空気を含んでいるように感じる。
(……痛く、ない?)
三年間、毎朝彼女を絶望させていた
血管の奥に住み着いていたノイズのような耳鳴りも、指先が勝手に痙攣する誤作動も、嘘のように消え失せている。まるで、錆びついた歯車に最高級の潤滑油が差されたかのような、滑らかな感覚。
昨日の地下十四階での出来事――佐藤航という少年による強引なバイパス手術――が、夢ではなかったことの証明だった。
葵は恐る恐る、枕元に置いてあった愛用の杖に手を伸ばした。
かつては学園から支給された最高級の
いつもなら、触れた瞬間にバチッという静電気が走り、杖が悲鳴を上げるような拒絶反応を示す。それが怖くて、毎朝杖を握るのに数分の決心が必要だった。
だが今日は、杖は静かに、まるで飼い主の手の温もりを待っていたかのように、彼女の掌に吸い付くように馴染んだ。
「……おはよう。私、まだ生きてるよ」
杖に話しかける声が震える。
生きている。魔導士として終わっていない。
その事実を噛み締めた瞬間、枕元のスマホが短く振動した。
画面には、昨夜登録させられたばかりの
『おはよう。現場監督の佐藤だ。本日は
あまりにも事務的で、色気のかけらもない業務連絡。
普通の女子生徒なら頬を膨らませて怒るところかもしれない。あるいは、「せっかくの休みなのに」と文句を言うだろう。
だが、その無機質な文字列を見た瞬間、葵の胸の奥で、カチリと何かのスイッチが入る音がした。
それは、誰かに管理され、導かれることへの強烈な安心感。
自分を不要なゴミとして放置せず、メンテナンス対象として認識してくれている、その冷たくも確かな絆。
鏡に映る自分の顔を見る。
まだ少し痩せこけていて、目の下のクマも消えていない。肌も荒れているし、髪もパサついている。かつての至宝と呼ばれた頃の、内側から発光するような輝きには程遠い。
けれど、その瞳には、昨日まで失われていた意思の光が、確かな熱量を持って灯っていた。
「……はい。了解です、
彼女は小さく呟き、クローゼットの奥から、一年生の時に着ていた、まだ汚れていない予備の制服を取り出した。
袖を通すと少し緩くなっていたが、今の彼女には、その緩さが心地よかった。
それは、自分が削ぎ落とされた証であり、同時にここから新しく埋めていくための余白のようにも思えたからだ。
◇
〇九時〇〇分ジャスト。
一条葵が旧校舎の空き教室――通称「佐藤工務店」の拠点に現れた時、そこでは既に異様な光景が繰り広げられていた。
休日の朝とは思えない熱気と、何かが削れる音が廊下まで漏れてきている。
「いいか凛、
「了解ですわ佐藤さん! ……でも、このセラミック、硬すぎませんこと……!? 私の爪の方が先に削れてしまいそうですわ!」
教室の真ん中で、北条凛がジャージ姿で汗だくになって、巨大な白い磁器の塊――以前、大魔導灯の現場から回収した廃材の碍子――をサンドペーパーで磨いている。
彼女の足元には白い粉塵が積もり、教室には独特の焦げ臭い粉の匂いが充満していた。
そしてその横では、佐藤航が黒板(という名の作戦盤)に、意味不明な波形のグラフを凄まじい速度で書き殴っていた。まるで何かの数式に取り憑かれたかのように、チョークが折れるのも構わず。
「来たか、一条。……
航がチョークを置き、振り返る。
その目は、昨日と同じ仕事をする人間の目だった。一切の甘えも、妥協も許さない、プロフェッショナルの瞳。
だが、不思議と威圧感はない。むしろ、その視線が自分に向けられていることが心地よい。
「お、おはようございます。……あの、凛さんは何を……?」
「ああ、おはようございますわ葵さん! これは特別実習ですの! この硬い碍子を鏡面仕上げにすることで、魔力制御の精密さを指先に覚え込ませる……らしいですわ!」
凛が真っ白になった顔で笑う。その笑顔には一点の曇りもない。
彼女は本当に、この異質な現場監督を信じ切っているのだ。
葵は苦笑しながら、自分の席――パイプ椅子――に座った。机の上には、分厚いファイルと、見たことのない計器が置かれている。
「さて、本題に入る。一条、昨日の成功は、俺が無理やりバイパスを繋いだ応急処置に過ぎない。お前の魔力回路は、依然としてボロボロのままだ。わかるな?」
航の言葉に、葵の体が強張る。
そうだ。自分は治ったわけではない。ただ、一時的に詰まりを通してもらっただけ。根本的な劣化や、肉体と精神の不一致が治ったわけではない。
「そこで、今日からお前の
航が黒板の図形を指す。
そこには、滑らかな波のような曲線サイン波と、角ばった階段のような四角い波形
「お前のこれまでの魔法はアナログ制御だ。精神集中によって、魔力の出力を滑らかに調整し、美しい波形を作ろうとしてきた。0から100まで、自由自在に出力を変えられるのが一流の証だと教わってきたはずだ。風の強弱、光の明暗、そのグラデーションこそが神秘だと」
「……はい。集中すればするほど、指先が震えて……出力が乱れるんです。滑らかに出そうとすればするほど、ノイズが走って……」
「当然だ。お前の肉体(ハード)はもう、そんな繊細な電圧制御には耐えられない。だから、アナログは捨てろ。今日からお前が目指すのはデジタル制御だ」
「デジタル?」
聞き慣れない単語に、葵は首を傾げる。凛も、磨く手を止めて興味津々にこちらを見ている。
「出力を〇(停止)か一〇〇(全開)の
航の言葉は、魔導士としての常識を根底から覆すものだった。
魔法とは精神の流動であり、繊細な機微こそが至高とされる。それをスイッチにするなんて、まるで子供のおもちゃだ。
「でも、佐藤くん。〇か一〇〇しか出せなかったら、細かい制御なんてできません。例えば照明魔法だって、全開で出したら電球が破裂しちゃいます……! 魔法が全部『爆発』になっちゃうわ」
「そこで使うのが
航がニヤリと笑う。
それは、悪戯を思いついた子供のような、あるいは世界を騙す詐欺師のような笑みだった。
「一秒間に一千回。超高速でオンとオフを繰り返せ。……例えば、0.005秒オンにして、0.005秒オフにすれば、平均出力は五〇になる。オンの時間を長くすれば出力は上がり、短くすれば下がる。……これなら、お前は常に全開か停止の単純作業を繰り返すだけで、結果として滑らかな出力を再現できる」
葵は絶句した。
魔法を……点滅させる? 一秒間に一千回も?
そんなこと、人間の精神構造で可能なのだろうか。
「凛、お前試しにやってみろ」
「わかりましたわ! ……えいっ! ……あ、あれ? どうしても繋がりたがりますわ……」
凛が指先から小さな光を出そうとするが、どうしても光はずっと灯ったままになる。
「そう、普通の魔導士には難しい。肉体と精神が密接にリンクしているから、意識的に切ることができないんだ。……だが、一条。お前は一度『壊れた』ことで、自分の回路を外側から俯瞰する癖がついている。痛みから逃げるために、精神を肉体から切り離す術を覚えているはずだ」
ドキリとした。
図星だった。この三年間、葵はずっとそうして痛みに耐えてきた。自分を他人事のように感じることで、崩壊する自我を保ってきたのだ。
「今の幽体離脱したような感覚のまま、自分の回路をただのスイッチだと思い込め。……感情を乗せるな。祈りを込めるな。ただ、
それは、葵にとって魔導士としての死を意味していた。
かつて至宝と呼ばれた、美しく流れるような魔法との決別。
水のように、風のように、自然の一部であろうとした自分の理想を、無機質な信号に置き換える行為。
これを受け入れれば、自分はもう、二度とあの日々には戻れない。
二度と、天才少女とは呼ばれないだろう。ただの便利な機械になるのかもしれない。
……でも。
あの朝、絶望の中で一人震えていた自分に、手を差し伸べてくれたのは、この異端の少年だけだった。彼だけが、「壊れていても使える」と言ってくれた。
(戻らなくていい。私は、佐藤くんの隣に立てるなら、なんだって捨てる!)
葵は迷いを振り切り、深く頷いた。
「……やります。私を、貴方の使いやすい機械に書き換えて」
「上等だ。
航が取り出したのは、自作のメトロノームだった。
それは一定のリズムで不快な電子音を刻むだけの装置だが、今の葵には、それが心臓の鼓動のように聞こえていた。
◇
地獄のような反復練習が始まって一時間後。
教室中が葵の放つ断続的な魔力パルスで、壊れた蛍光灯のようにチカチカと考えられない速度で点滅し始めた頃。
ガララッ、とドアが乱暴に開かれた。
現れたのは、事務局の榊恵麻だ。
完璧なメイクとスーツ姿だが、その表情は険しい。彼女の手には、昨日航が持ち帰り、解析依頼を出していた証拠品の密封バッグが握られている。
「……航くん。これ、どういうつもり?」
榊の声は低い。だが、その瞳には明確な怒りの色が宿っている。
彼女はバッグから、焦げた銀絶縁体と、黒ずんだケーブルを机の上に静かに――しかし、ひどく重々しい動作で並べた。
その所作の丁寧さが、逆に彼女の内に秘めた「冷徹な怒り」を際立たせていた。
「それは昨日の現場で回収した不適合部品と、現場写真です。榊さん、その劣化具合、解析班に見せましたか?」
「ええ。見せたわよ。『自然劣化じゃない。人為的に傷をつけられ、過負荷がかかるように細工されている』ってね。しかも、かなり巧妙に、定期点検では見つからない場所の裏側に」
その言葉に、息を切らせてスイッチング練習をしていた葵の手が止まった。
人為的な、細工。
凛も手を止め、呆然と榊を見つめる。
「ど、どういうことですか? あの不具合は、私の整備不良じゃ……私の使い方が悪かったから……」
「違うわよ、一条さん。貴女は、わざと壊されるように仕組まれていたの」
榊が吐き捨てるように言う。
その視線は、葵への憐れみよりも、犯人への嫌悪感に満ちていた。
航が、冷たい麦茶を葵に差し出しながら、淡々と解説を引き継いだ。
「公共事業の構造的な闇だ。……一条。お前のような優秀な
航はホワイトボードのアナログ波形を黒板消しで無造作に消し去った。
チョークの粉が舞う。それは、かつての美しい魔法が消え、冷徹な論理が支配する瞬間だった。
「だが、もしお前が暴走を起こして、第14プラントが
葵の顔から、血の気が引いていく。
凛が「そんな……」と絶句する。
設備の
自分が「才能が枯れた」と言われて捨てられた理由。
それは、才能の問題ですらなかった。生理的な限界でも、神の試練でもない。
単に、管理局が予算という名の果実をもぎ取るために、最も出力が高くて設備を派手に壊してくれそうな
「そんな……。そんなことのために……私の三年と、お父さんたちの期待と、私の全部をっ!?」
葵の手が震える。
今度は絶望ではなく、煮えたぎるような怒りで。
足元が崩れ落ちるような感覚。自分が誇りに思っていた学園も、尊敬していた先生も、すべては虚構だった。自分たちはただの換金アイテムに過ぎなかったのか。
涙が溢れてくる。悔しくて、情けなくて、許せなくて。
「……絶対に、許せませんわ」
凛が、ギリリと歯を食いしばり、磨き上げた碍子を握りしめている。
「泣き寝入りはするな。……これは明白な器物損壊であり、学園と生徒間の契約不履行だ」
航が、葵の肩にポンと手を置いた。その手は、技術者らしく乾燥していて、温かかった。
その体温だけが、今の葵にとって唯一の現実だった。
「榊さん。この
「……ふふ。貴方って本当に、性格が悪いわね」
榊が、悪女のような、しかしどこか清々しい笑みを浮かべた。
彼女にとっても、これはただの正義感ではない。学園の主導権を握るための絶好の
彼女は机の上の証拠品を、一切の傷もつけないように大切にバッグへしまい直し、葵に向き直る。
「一条さん。貴女の価値、私が責任を持って取り返してあげる。だから貴女は、現場監督の言う通りに、誰にも代えがたい最強の魔導インフラになりなさい。いいわね?」
「……はい! お願いします、榊さん……!」
葵は涙を拭い、深く頭を下げた。
もう、被害者として泣くのは終わりだ。
私は今日から、この不条理なシステムを内側から食い破る
◇
榊が去った後の教室には、再び電子音のようなメトロノームの音だけが響いていた。
カチ、カチ、カチ、カチ。
そのリズムに合わせて、葵は魔力のオンとオフを繰り返す。
一秒間に一〇回。二〇回。五〇回。
凛も、その真剣な空気に当てられたのか、無言で碍子磨きを再開している。彼女の手つきもまた、怒りと決意を込めて鋭くなっていた。
今はまだ、不格好な点滅でしかない。
だが、その瞳にはもう迷いはなかった。
(私は、壊れたんじゃない。壊された分だけ、新しく作り変えればいい。彼の手で)
「……出力安定。デューティ比、五〇パーセントを維持。……いいぞ、一条。その調子だ」
航がストップウォッチを見ながら、短く言った。
その言葉だけで、葵の心臓が甘く痺れる。
肯定されることの喜び。
自分を正しく使ってくれる管理者への、絶対的な信頼。
かつての「至宝」と呼ばれたプライドなどは、この充実に比べれば埃のようなものだった。
「午後からは自由行動だ。しっかり休め。明日の工程はハードだぞ」
「……はい!
一条葵という名の「旧型機」は今、最新鋭のデジタル制御を搭載した、誰にも真似できない最強のサポーターへと進化しようとしていた。
反撃の準備は整った。
定時退勤を守るための、本当の戦いが始まる。
本日も一日ご安全に!