第3話:交わることのない波長と、静寂の足跡
空を閉ざすような鉛色の雲から、粉雪が音もなく舞い落ちていた。
北側諸国の森は、ただ無慈悲に生命の熱を奪い去っていく。だが、その白銀の雪原に刻まれた一つの足跡を追うフリーレンの瞳には、かつてないほどの鋭い緊張が宿っていた。
「……おかしいね」
雪に埋もれかけた巨大な獣の痕跡を見下ろし、フリーレンは低く呟いた。
そこには、つい先ほどまでこの森を徘徊していたであろう魔物の巨大な足跡が残されていた。しかし、その足跡はある一点を境に突如として途切れ、周囲には魔物が死後に分解されたことを示す、魔力の粒子だけが微かに漂っていた。
「フリーレン様、これは……」
フェルンが杖の先で雪を払いながら、信じられないというように目を細めた。「強力な攻撃魔法の痕跡がありません。熱量も、物理的な切断の魔力も、一切残っていないんです」
「ああ。ただ『物理的に弾け飛んだ』としか思えない痕跡だ。しかも、魔力による身体強化すら伴わない、純粋な運動エネルギーだけでね」
フリーレンの言葉に、後方に立つシュタルクがゴクリと生唾を飲み込んだ。
「じょ、冗談だろ……? この辺の魔物は、戦士の斧でも全力で叩き斬らなきゃ倒せないくらい皮膚が硬いんだぞ。それを、魔力も使わずに素手で吹き飛ばしたっていうのかよ」
フリーレンは答えず、ただ静かに目を閉じて魔力探知の網を広げた。
通常、魔法使いの魔力探知とは、生物の内側から外へと自然に漏れ出る極微量の魔力の揺らぎを感知する技術である。どんなに高度な魔力隠蔽術を用いたとしても、生きている限り、鼓動と共に魔力が必ず空間に滲み出す。
しかし、彼女の広大な探知網の中に、村人たちが証言した「角の生えた男」の魔力は、やはり一滴たりとも存在しなかった。
「……虚無、だ」
フリーレンは目を開き、底知れぬ恐怖を噛み殺すように言った。「姿は見えないのに、そこにぽつんと『空間の穴』が空いているような感覚。あの七崩賢のマハトですら、これほどの不可解な存在ではなかった」
大魔法使いフランメの教えによれば、魔族とは「言葉を操る魔物」であり、人類を油断させ捕食するためだけに複雑な言語や感情を模倣する存在である。だが、村で一切の殺戮を行わず、「スーパーマーケット」などという意味不明な単語を残して去ったその個体は、フリーレンが千年かけて蓄積してきた魔族の生態学的定義から完全に逸脱していた。
「急ごう。このまま放っておけば、取り返しのつかないことになるかもしれない」
フリーレンの冷徹な決意を乗せ、三人の足取りはさらに速度を上げた。
*
一方、その「取り返しのつかない虚無の化け物」ことサイタマは、凍った湖のほとりで焚き火の煙を目に染ませながら、激しい葛藤の只中にいた。
「……塩が足りねえ」
彼の手には、見事に焼き上がった白身魚の串が握られている。身はふっくらとしており、北側の冷たい水で育った魚特有の良質な脂が乗っていた。しかし、どれだけ素材が良くても、味付けが全くなされていないただの素焼きである。醤油とは言わないまでも、せめて一つまみの塩があれば。
「力があっても、塩ひとつ生み出せないんじゃなあ……」
サイタマは魚をモグモグと咀嚼しながら、どこか遠い目をして呟いた。
彼が抱えるのは、あまりにも巨大すぎる力の代償として訪れた、絶対的な退屈である。彼はかつて激しい特訓の末に己の限界(リミッター)を完全に破壊し、いかなる強敵をも一撃で粉砕する力を手に入れた。しかしその結果、「力ってのは、つまらないもんだ」という極めて虚しい真理に到達してしまったのだ。
彼の心には、闘争における焦燥も、昂ぶりも、そして恐怖も存在しない。悟りを開いた者のような完全なる精神の平穏は、裏を返せば、命を懸けた戦いから得られる充実感を喪失した空虚な状態を意味していた。
「はぁ……帰りたい。ていうか、布団で寝たい」
サイタマは魚の骨を雪原に放り投げ、再び当てもなく歩き始めた。
この世界がどれほど神秘的な魔法に満ちていようと、あるいは人間と魔族の血みどろの生存競争が繰り広げられていようと、彼の関心を惹くことはない。彼を動かすのは、「趣味でヒーローをやっている」というささやかな矜持と、限りなく日常に近い小市民的な欲求だけである。
ざくっ、ざくっ。
自身の足音だけが響く静寂の森。
しかし、その静寂は不意に破られた。
「そこまでだ、魔族」
凛とした、しかし絶対的な殺意を孕んだ冷たい声。
サイタマが気の抜けた顔で振り返ると、そこには数メートルほどの距離を空けて、三人の人影が立っていた。
先頭に立つのは、白いローブを風に揺らす銀髪のエルフの少女。彼女の構えた杖の先端には、周囲の空間そのものが歪むほどの超高密度の魔力が、すでに臨界点に達しようとしていた。その後ろには、同じく杖を構え冷徹な視線を向ける紫髪の少女と、巨大な斧を構えながらも滝のように冷や汗を流している赤毛の少年がいる。
「ん? ああ、村の自警団の応援か?」
サイタマは、自分に向けられている致死の魔法陣をまるで意に介さない様子で、頭をポリポリと掻いた。
フリーレンは、目の前の男の姿を直接その目に捉え、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
滑らかな頭部に生えた二本の黒い角。それは紛れもなく魔族の証。だが、やはり魔力はゼロ。それどころか、魔族特有の底知れぬ悪意も、人を欺こうとする狡猾なオーラも、一切感じられないのだ。ただそこにあるのは、底なしの「退屈」と、どうしようもないほどの「無関心」。
「……何者だ、お前は」
フリーレンは、これまでいかなる大魔族を前にしても決して揺らがなかった声に、微かな緊張を滲ませて問うた。
「俺? 俺はサイタマ。趣味でヒーローをやっている者だ」
間の抜けた、しかしどこまでも自然体な自己紹介。
言葉を操る化け物である魔族が、息を吐くように放った新たな欺瞞の言葉。フリーレンの長年の経験がそう警告を鳴らしているはずだった。しかし、彼女の直感は同時に、かつてないほどの巨大な矛盾に引き裂かれそうになっていた。
この男の言葉には、嘘がない。
魔法の理を越えた、絶対的な物理法則の結晶のような男。
白銀の雪原の中央で、千年の時を生きる魔法使いの杖と、退屈を持て余した最強の男の視線が、ついに真正面から交錯した。