第4話:交差する絶対矛盾と、噛み合わない対話
空を閉ざすような鉛色の雲から、粉雪が音もなく舞い落ちていた。
北側諸国の過酷な冬の森。針葉樹の枝葉が雪の重みで微かに軋む音さえも、この圧倒的な静寂の中に吸い込まれていく。
その白銀の風景の中で、二つの全く異なる世界が、静かに、しかし決定的に衝突しようとしていた。
「俺? 俺はサイタマ。趣味でヒーローをやっている者だ」
間の抜けた声が、凍てつくような空気に溶けていく。
サイタマの手には、先ほど凍った湖から釣り上げ、焚き火で雑に炙っただけの白身魚の串が握られていた。彼の滑らかな頭頂部には、この世界において人類の絶対的な敵対者であることを示す、黒曜石のように鈍く光る二本の角が生えている。
フリーレンは、杖を静かに構えたまま微動だにせず、そのエメラルドグリーンの瞳で目の前の男を観察していた。
千年以上を生きる大魔法使いである彼女の脳内では、人間の目には止まらない速度で無数の情報が処理され、目の前の存在に対する冷徹な分析が進められていた。
(……ヒーロー。「勇者」、ということ?)
フリーレンの脳裏に、かつて共に魔王を討ち果たした青年の姿がよぎる。勇者ヒンメル。その名が「空」を意味するように、彼は人々の心を晴らし、自らの命を懸けて弱きを助ける本物の英雄であった。
対して、目の前の男の頭には角がある。フリーレンの師である大魔法使いフランメが定義した通り、魔族とは「言葉を操る魔物」である。彼らは「家族」や「同情」といった概念を真には理解しておらず、生き残るため、あるいは人間を効率よく狩るための道具としてのみ言葉を用いる。
その魔族が、「趣味でヒーローをやっている」と名乗った。
これまでのフリーレンの経験則からすれば、それは人間の感情を逆撫でし、思考を誘導するための「欺瞞」であると判断するのが妥当だった。しかし、フリーレンの直感は、かつてないほどの巨大な矛盾に直面し、微かな戸惑いを覚えていた。
(この男の言葉には……魔族特有の『意図』が感じられない)
魔力探知。それは魔法使いが、生物の外に漏れ出る微小な魔力の揺らぎを感知する技術である。いかに高度な隠蔽魔法を使おうとも、生きている限り魔力は必ず空間に滲み出す。しかし、フリーレンの展開する探知網の中に、この男の魔力はただの一滴たりとも存在しなかった。完全にゼロ。そこに空間の穴が空いているかのような、絶対的な虚無である。
さらに不可解なのは、彼から魔族特有の「悪意」や「殺気」が微塵も感じられないことだった。かつて対峙した七崩賢・黄金郷のマハトでさえ、悪意を理解できないがゆえの底知れぬ異質さと、人類に対する無意識の冷酷さを纏っていた。だが、この男から発せられているのは、果てしない「退屈」と、手元にある魚への純粋な「食欲」だけなのだ。
「……フリーレン様。あの魔族、魔力が全く……」
背後に立つフェルンが、杖を握る手を白くさせながら囁いた。彼女の優秀な魔力探知をもってしても、目の前の存在はただの石ころと同等か、それ以上に空虚なものであった。
「ああ。それに、なんだよあれ……見てるだけで、変な汗が出てくる……」
戦士シュタルクは、巨大な斧を構えながらも一歩も動けずにいた。歴戦の戦士としての生存本能が、目の前の黄色いスーツの男を「絶対に触れてはならない自然災害」として無意識に認識しているのだ。
「フェルン、シュタルク。動かないで」
フリーレンは一切の感情を排した、氷のように冷たい声で告げた。「こいつは、私たちが今まで戦ってきたどの魔族とも違う」
フリーレンは、ゆっくりと一歩前に出た。対話によって相手の真意を測るつもりはない。魔族の言葉に耳を貸すことは死を意味する。彼女が求めているのは、相手の防御能力と反応速度を測るための、純粋な物理的データの収集であった。
「言葉で私たちを惑わそうとしても無駄だよ、魔族」
フリーレンの杖の先端に、一瞬にして魔力が収束する。
それは大規模な破壊魔法ではない。魔族を殺す魔法(ゾルトラーク)を極限まで圧縮し、音もなく相手の急所を撃ち抜くための、洗練された一撃。
「――っ」
無音。空気を裂く音すら置き去りにした純白の閃光が、サイタマの胸元へと殺到する。
フェルンもシュタルクも、その魔法の発生と軌跡を辛うじて目で追うのがやっとの速度だった。
しかし。
「あー、ちょっと待て。いま魚食ってんだから、ホコリ立てるなよ」
パァン! という、乾いた音が雪原に響き渡った。
フリーレンの放った致命的な一撃は、サイタマが顔の前にやってきた羽虫を払うかのように「無造作に振った左手」に直撃し――そのまま、純粋な物理的衝撃によって粉々に叩き割られて霧散したのである。
「…………」
フェルンは息を呑み、シュタルクは目を見開いたまま固まった。
フリーレンは、表情こそ崩さなかったものの、杖を握る手に僅かに力が入るのを自覚した。
(弾いた……? いや、防御魔法じゃない。物理的な『素手』で、私の魔法を直接叩き落とした。魔力による身体強化すら一切なしに?)
魔法とは、術者の可視化(イメージ)の力である。フリーレンの完璧なイメージが、ただの物理的な動作によって何の前提も成さずに無効化された。それは、この世界の魔法理論の根本を覆す現象であった。
「あーあ、せっかくの火が消えちゃったじゃんか」
サイタマは、魔法の余波で吹き飛んだ焚き火の跡を見て、露骨にがっかりした表情を浮かべた。彼は全く戦闘態勢をとっておらず、ただ手の中の冷えゆく魚を見つめている。
「……何をしたの」
フリーレンは、静かに、しかし確かな警戒を込めて尋ねた。「どうやって私の魔法を防いだの」
「防いだ? いや、なんか飛んできたから手で払っただけだけど」
サイタマは赤い手袋をパンパンと叩き、面倒くさそうに頭を掻いた。「ていうか、いきなりビーム撃つなよ。服が焦げたらどうすんだ。俺はただ、塩が欲しいだけなのに」
「……塩?」
フリーレンは眉をひそめた。
「そうだよ。この魚、焼いただけだと味気なくてさ。醤油とは言わないから、せめて塩くらい振らないと食えたもんじゃないだろ。君ら、塩持ってない?」
サイタマは、杖を構える魔法使いたちに向かって、ご近所に調味料を借りるようなテンションで尋ねた。
フリーレンは、その言葉を脳内で冷徹に分解した。
魔族は人間を欺くために言葉を使う。ならば「魚にかける塩」という要求も、人間側の思考を日常的な概念へと引きずり込み、戦闘の緊張感を強制的に緩和させるための未知の精神魔法の一種かもしれない。
しかし、フリーレンの観察眼は、同時に一つの恐るべき事実を浮き彫りにしていた。
この男の心には、エゴも、怒りも、闘争心すらも存在しないのだ。
彼はかつて自らの限界を完全に破壊し、いかなる強敵をも一撃で粉砕する絶対的な力を手に入れた結果、生きる喜びや情動を喪失した「悟り」に近い平穏——絶対的な虚無へと到達してしまっている。強すぎるがゆえに、世界中のあらゆる事象が彼にとっては「退屈」でしかない。だからこそ、大魔法使いに命を狙われようが、彼の精神は「今日の夕飯の味付け」という小市民的な悩みにしか向かわない。
だが、フリーレンにその「退屈」の正体が理解できるはずもない。彼女の目には、それが「いかなる感情も介在させない、究極の捕食者の冷酷さ」として映っていた。
「……フェルン、シュタルク。武器を下ろして」
数十秒の沈黙の後、フリーレンはゆっくりと杖を下ろした。
「フリーレン様!? しかし、相手は魔族です」
「わかっている。でも、今の私たちじゃこいつは殺せない」
フリーレンは、淡々と事実だけを告げた。「攻撃の起点が全く見えない。これ以上手を出せば、私たちが死ぬことになるよ」
シュタルクが安堵の息を漏らしてへたり込み、フェルンも納得がいかない表情ながらも杖を下ろした。
「おっ、話が通じる奴らでよかった。いきなり攻撃された時はどうなるかと思ったぜ」
サイタマはホッと息を吐き、改めてフリーレンたちに向き直った。「で、塩持ってない? あったら少し分けてくれないか。代わりに、この魚の半分やるからさ」
「……あいにく、見ず知らずの魔族に分けるような持ち合わせはないよ」
フリーレンは冷たく言い放った。
「そっか。まあ、仕方ないな。あーあ、完全に冷えちゃったよ」
サイタマは深くため息をついた。彼にとって、どれほど強力な魔法攻撃を受けようと、それは「ちょっとしつこい通り雨」程度の認識でしかない。これ以上この物騒な連中に付き合っていても、夕飯の味付けは解決しない。
サイタマは魚の串を持ったまま、フリーレンたちに背を向けて、ざくっ、ざくっと雪を踏みしめて歩き始めた。
「……追わないんですか」
フェルンが、遠ざかる黄色い背中を見つめながら尋ねた。
「今はね。だけど、いずれ必ず殺さなきゃいけない」
フリーレンは、自らの杖を強く握り直した。彼女の長い人生において、ここまで手も足も出ず、相手の生態すら理解できない存在に遭遇したのは初めてのことだった。
「あの魔族は、人類の脅威になる。どんな手段を使ってでも、私が葬る」
決して交わることのない平行線。
絶対的な退屈を抱えて塩を求める男と、絶対的な警戒心を抱えて彼を殺そうと誓う魔法使い。
二つの世界は和解することなく、ただ静かな不協和音だけを残して、白銀の森に分かたれたのであった。