葬送とハゲマント   作:パラダイス大王

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6 城塞都市の喧騒と、交わるはずのない食卓

第6話:城塞都市の喧騒と、交わるはずのない食卓

空から舞い落ちる雪は、一切の感情を持たないかのように、ただ等しく大地を白く塗り潰していく。

先ほどまで四本の腕を持つ強大な魔族が立っていたはずの場所には、今や何の痕跡も残されていなかった。血の一滴、肉の一片はおろか、魔族が死滅する際に残すはずの黄金色の魔力の粒子すらも、絶対的な物理的衝撃波によって大気の彼方へと吹き飛ばされ、完全に霧散していたのである。

「……フリーレン様。これは……」

フェルンが杖の先を下ろし、震える声で沈黙を破った。彼女の視線の先には、荷馬車の前で腰を抜かし、未だにガチガチと歯の根を鳴らしている初老の行商人の姿があった。

フリーレンは油断なく周囲に魔力探知の網を広げたまま、静かに行商人へと歩み寄った。

「怪我はない?」

「ひっ……あ、ああ。エルフの魔法使い様……助かった、のか?」

「私たちが助けたわけじゃない。あなたが生きているのは、純粋な偶然だよ」

フリーレンは冷徹な事実を告げると、雪の上に残された奇妙な痕跡――巨大なクレーターのように雪が吹き飛ばされた半円形の空間――に目を落とした。「少しだけ、話を聞かせて。さっきの、黄色い服を着て頭に角が生えていた男について。彼はあなたに、あるいは死んだ魔族に向かって、最後に何と言ったの」

行商人は青ざめた顔で、信じられないものを見たというように首を横に振った。

「あ、あれも魔族だったのか? だが、あいつは俺を食おうとも、殺そうともしなかった。ただ……俺の荷馬車からこぼれた岩塩を指さして、『塩をひとつまみ分けてくれないか』と……」

「……塩を?」

フェルンが思わず聞き返した。シュタルクも信じられないという顔で耳を疑っている。

「ああ。それで、四本腕のバケモノが激怒して魔法を放ったんだが……あいつは、ただ片手をスッと出しただけで、あのバケモノを木端微塵に吹き飛ばしちまった。魔法の詠唱も、防御魔法もなかった。ただ、ハエを払うみたいに……」

行商人は恐怖と混乱で頭を抱え込んだ。「そして、こぼれた塩を自分の持っていた冷えた焼き魚に振って……『塩サンキューな、骨は捨てといてくれ』と言って、歩いていったんだ……。意味がわからねえ、俺は幻術でも見せられていたのか?」

フリーレンは、その証言を脳内で何度も反芻し、そして完璧な論理の壁が行き止まりにぶつかるのを確かに感じていた。

魔族は、人類を捕食するために言葉を操る生き物である。それがフリーレンの師、大魔法使いフランメが残した絶対の定義であり、フリーレン自身が千年以上の戦いの中で証明し続けてきた真理だった。彼らは「お母さん」と泣き叫んで人間の同情を誘い、「和睦」を提案して街の結界を解かせ、「誇り」を語って戦士を油断させる。

しかし、「塩を分けてもらったことに感謝し、魚の骨の処理を頼む」という言葉に、一体どのような欺瞞の意図が含まれているというのか。人間の感情を操作し、捕食を有利に進めるための罠としては、あまりにも無意味で、あまりにも日常的すぎる。

(……わからない。あの魔族の行動原理には、人類を滅ぼすという『目的』が根本からすっぽりと抜け落ちている)

フリーレンの額を、一筋の冷たい汗が伝った。

圧倒的な暴力。魔法の理を完全に無視した物理的絶対性。そして、魔族としての本能すらも欠落した、底知れぬ虚無。

「人類の脅威になるから殺す」と彼女は先ほど断言した。だが、そもそもあれは「脅威」という言葉の枠にすら収まらない。嵐や地震、あるいは天空から降り注ぐ隕石のような、意思を持たない純粋な「災害」そのものではないのか。

「フリーレン様、どうしますか。追跡を続けますか?」

フェルンが不安げな瞳で尋ねた。

「……追うよ。あの足跡の向かう先には、城塞都市ヴァールがある」

フリーレンは、雪原に続く一直線の足跡を見据えた。「あんな規格外の化け物が、人間の密集する都市に入り込めばどうなるか。想像もつかない。急ごう」

三人は行商人に安全な道筋を教えると、再び雪原を駆け出した。彼らの心には、かつて魔王城を目指した時とは全く異質の、理解不能な存在に対する根源的な恐怖が渦巻いていた。

     *

「……さっむ。頭、さっむ」

その頃、世界の理を崩壊させかねない「規格外の化け物」ことサイタマは、身を震わせながら雪道を歩いていた。

彼の肉体は宇宙空間の絶対零度すらも無傷で耐え凌ぐ絶対的な強度を誇っている。そのため、細胞が凍死したり機能不全に陥ったりすることは決してない。しかし、「皮膚感覚として冷たいと感じる」ことは普通にあるのだ。特に、彼の滑らかな頭頂部には冷たい北風を防ぐための毛髪が一切存在しないため、直接的な冷気が容赦なく吹き付けていた。

「風邪ひきそうだな……あ、そうだ」

サイタマは立ち止まると、背中に羽織っていた薄汚れた赤いマントの裾を引っ張り上げ、自分の頭の上からすっぽりと被った。即席の赤いフードである。これで少しは風が防げる。

彼は全く意図していなかったが、この「頭にマントを被る」という行為によって、彼がこの世界で魔族であることの絶対的な証明――頭部に生えた二本の禍々しい角――が、すっぽりと隠されてしまったのである。

しばらく歩くと、小高い丘の向こうに巨大な石造りの城壁が見えてきた。

城塞都市ヴァール。北側諸国の厳しい自然と魔物の脅威から人々を守るため、堅牢な城壁で囲まれた中世ヨーロッパ風の壮麗な都市である。城壁の随所には見張り台が設けられ、重武装の兵士たちが常に外の世界に目を光らせている。

「おっ、デカい街じゃん。ここならスーパーマーケットくらいあるだろ」

サイタマは気の抜けた顔のまま、城壁の正門へと向かって真っ直ぐに歩いていった。

正門の前では、厳しい顔つきをした衛兵たちが、出入りする商人や冒険者たちの身分証や荷物を細かく検めている。魔族の侵入を防ぐため、そして怪しい魔法道具が持ち込まれないかを監視するためだ。

「そこのお前、止まれ。見ない顔だな」

槍を持った衛兵が、黄色いスーツに赤いマントを頭から被った奇妙な姿のサイタマを呼び止めた。

「ん? 俺か?」

「そうだ。怪しい格好をして……身分を証明できるものはあるか? 冒険者ギルドの認識票は?」

「認識票? いや、俺は趣味でヒーローをやっている者だけど。スーパーを探しててさ」

衛兵たちは顔を見合わせた。「ヒーロー」も「スーパー」も、この世界では聞き慣れない単語である。衛兵の一人が怪訝な顔で、サイタマに向けて微弱な魔力探知を行った。

(……なんだこいつ。魔力が完全に空っぽだ。一般人以下の、ただの石ころみたいな波長しかねえ。冒険者や魔法使いの類じゃなさそうだな)

もしこの時、サイタマがマントのフードを被っておらず、その頭の角が見えていれば、都市ヴァールは即座に厳戒態勢に入り、大パニックに陥っていたことだろう。しかし、魔力が全く感知されないことと、角が隠れているという二つの偶然が重なり、衛兵たちは彼を「少し頭のおかしい、無害な貧乏人」として処理した。

「フン、ただの放浪者か。変な問題を起こすなよ。入れ」

「お、サンキュー」

サイタマは呆気なく正門を通り抜け、城塞都市ヴァールの内部へと足を踏み入れた。

都市の内部は、外の厳しい雪景色とは打って変わって、活気に満ち溢れていた。石畳の通りには無数の露店が並び、商人たちの威勢の良い声が響き渡っている。馬車が行き交い、剣や杖を背負った冒険者たちが酒場へと吸い込まれていく。どこからか焼きたてのパンと、香辛料の効いた肉の匂いが漂ってきた。

「おおー、なんかRPGの街みたいだな。活気があっていいじゃん」

サイタマは珍しそうに周囲を見渡しながら歩いた。

魔導具の店には、淡く光る水晶や怪しげな液体の入った小瓶が並んでいる。武具屋の店先には、魔物の鱗で打たれたであろう立派な鎧や剣が飾られている。

しかし、サイタマの心臓がそれらを見て高鳴ることはなかった。どんな伝説の魔剣であろうと、彼が指で弾けば粉々に砕け散る。どんな強力な魔法薬であろうと、彼の無敵の細胞には何の影響も及ぼさない。絶対的な力を手に入れた彼にとって、このファンタジー世界の神秘すらも、子供のおもちゃ箱を眺めるような平坦な景色に過ぎなかったのだ。

「……腹減ったな。さっきの魚、塩振って美味かったけど、量が少なすぎた」

彼の興味は、世界の神秘よりも自らの胃袋へと向かっていた。

漂ってくる肉の匂いにつられて歩いていくと、大通りから少し外れた路地裏に、木彫りの看板を掲げた古びた酒場兼食堂を見つけた。『跳ねる猪亭』という名らしい。中からは賑やかな笑い声と、ジョッキをぶつけ合う音が聞こえてくる。

サイタマは迷わずその重い木の扉を押し開けた。

カランコロン、とくぐもったベルの音が鳴る。店内は薄暗いが、中央の巨大な暖炉でパチパチと薪が燃えており、心地よい暖かさに包まれていた。冒険者や商人たちがテーブルを囲み、エールを飲みながら乱痴気騒ぎを繰り広げている。

「いらっしゃい! 空いてる席に座りな!」

恰幅の良い髭面の店主が、カウンターの中から豪快に声をかけた。

サイタマは暖炉の近くの小さな丸テーブルに腰を下ろし、頭に被っていたマントのフードをファサッと後ろに下ろした。

その瞬間、彼の滑らかな頭頂部と、そこから生える「二本の禍々しい角」が店内のランプの光に照らされた。しかし、酒場の中は紫煙と料理の湯気で霞んでおり、さらに全員が酒に酔って騒いでいたため、誰もその異変に気付く者はいなかった。

「おっちゃん、一番安いうどんか、ラーメンある? あと水」

サイタマはカウンターに向かって間の抜けた声で注文した。

「うどん? らあめん? なんだそりゃ、聞いたことねえ料理だな。異国の言葉か?」

店主は首を傾げた。「うちにある一番安い温かいもんは、余り野菜と猪のクズ肉を煮込んだ『ヴァール風の黒シチュー』だ。パンがついて銅貨三枚だぞ」

「おっ、シチューか。いいじゃん、あったまりそうだし。それ一つ頼むわ」

「あいよ!」

数分後、サイタマの目の前に、湯気を立てる黒褐色のシチューと、硬そうな黒パンが運ばれてきた。シチューからは、素朴だが深い肉の出汁の匂いが漂ってくる。サイタマは木のスプーンを手に取り、嬉しそうにシチューを一口掬って口に運んだ。

「おっ。見た目はアレだけど、結構美味いなこれ。塩味も丁度いいし」

彼はパンを千切ってシチューに浸し、モグモグと咀嚼した。異世界に来て初めての、まともな「温かい料理」である。彼の心の中に、ほんのわずかな、しかし確かな日常の幸福感が広がっていた。

しかし、シチューを半分ほど平らげたところで、サイタマの咀嚼がピタリと止まった。

彼の脳裏に、極めて重大な、そして致命的な事実が閃いたのだ。

(……待てよ。俺、元の世界に財布置いてきたから……一円も持ってなくね?)

サイタマの背中に、宇宙の覇者ボロスと対峙した時ですら流さなかった、嫌な冷や汗がツーッと流れ落ちた。

異世界転生における絶対的なピンチ。それは魔王の存在でも、神の干渉でもない。「無銭飲食」である。

彼はスプーンを置いたまま、どうやってこの場を切り抜けるべきか、超人的な頭脳(というほどでもないが)をフル回転させ始めた。皿洗いをするか。それともヒーロー協会にツケを回せるか(絶対に無理だ)。

その時だった。

カランコロン、と再び酒場の扉が開くベルの音が鳴った。

吹き込む冷たい風と共に、三人の人影が店内に入ってきた。

白いローブに身を包んだ小柄なエルフの少女。紫色の髪を束ねた人間の魔法使い。そして、巨大な斧を背負った赤毛の戦士。

フリーレン、フェルン、シュタルクの一行であった。彼らは魔族の足跡を追い、城門の検問を魔法使いの特権でパスして、ようやくこの酒場へとたどり着いたのだ。

「ふぅ……ようやく街に入れましたね。凍え死ぬかと思いました」

フェルンが手と息を擦り合わせながら言う。

「とりあえず、何か温かいものを……」

シュタルクが暖炉の方へと視線を向けた、その瞬間だった。

シュタルクの言葉が、喉の奥で完全に凍りついた。

フェルンもまた、店内の光景を見た瞬間に息を呑み、血の気を失ってその場に釘付けになった。

フリーレンは、音もなく立ち止まっていた。

彼女のエメラルドグリーンの瞳が、店内の奥、暖炉のすぐ横のテーブルで、木のスプーンを咥えたまま固まっている「黄色いスーツの男」の背中を、そしてその頭に生えた二本の角を、正確に捉えていた。

周囲では、酔っ払った冒険者たちが陽気に歌い、店主が笑い声を上げている。

誰一人として、その男が人類の絶対的な敵対者であることに気付いていない。平和な喧騒の中に、ただ一つ、圧倒的な死と虚無の特異点がポツンと座ってシチューを食べているのだ。

(……最悪の状況だ)

フリーレンの脳内で、瞬時に無数のシミュレーションが駆け巡った。

ここで魔法を放てばどうなるか。あの男は一切のダメージを受けないだろう。だが、弾き飛ばされた魔法の余波や、男が反撃として軽く腕を振っただけで生じる物理的な衝撃波によって、この酒場ごと、いや、この都市の区画ごと、何百人もの人間が巻き添えになって跡形もなく消滅する。

戦えない。魔法使いとしての圧倒的なアドバンテージを誇るフリーレンが、周囲に人間がいるという理由だけで、完全に手足を縛られた状態にあった。

(どうする。どうすれば、被害を出さずにこいつを街から引き離せる……)

フリーレンの額から、じっとりと冷や汗が浮かぶ。彼女は杖を握る手に力を込め、極限の緊張状態の中で思考を巡らせた。

その時、サイタマがゆっくりと振り返り、入り口に立つフリーレンたちと完璧に目を合わせた。

「…………」

「…………」

酒場の喧騒の中、彼らの間にだけ、真空のような無音の時間が流れた。

フリーレンの心臓が、久方ぶりに早鐘を打つ。来るか。欺瞞の言葉か、それとも理解不能な物理的破壊か。

するとサイタマは、木のスプーンを持ったまま、ひどく情けない、そして申し訳なさそうな顔をして、フリーレンに向かって小さく手を振った。

「……おっ。ちょうどよかった、さっきの塩の奴らじゃん」

サイタマは、店主に聞こえないように声を潜めながら、フリーレンたちに向かって手招きをした。

「なぁ、頼む。お前ら、お金持ってる? 俺、完全に無一文でシチュー頼んじゃってさ……。もし立て替えてくれたら、外の雪かきでもなんでも手伝うから、助けてくれないか?」

世界を揺るがす絶対的な力を抱えた男の口から出たのは、魔族の欺瞞でも殺意でもなく、あまりにも小市民的で情けない「無銭飲食のヘルプ要請」であった。

フリーレンは、杖を握りしめたまま、かつてないほどの巨大な脱力感と、そして底知れぬ不可解さに襲われていた。

「……は?」

思わず口から漏れたその間抜けな声は、酒場の喧騒に紛れて誰の耳にも届かなかった。

決して交わるはずのなかった二つの孤独な波長が、あろうことか一杯の黒シチューの代金を巡って、同じ食卓に着こうとしている。

魔法の理が崩壊する音が、フリーレンの耳の奥で微かに鳴り響いていた。

 

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