第7話:銅貨三枚の命運と、雪空の境界線
暖炉の炎がパチパチと爆ぜる音。エールを飲み干し、卓を叩いて笑い合う冒険者たちの喧騒。北側諸国の過酷な自然から人々を守る城塞都市ヴァールの路地裏にある酒場は、外の厳しい雪景色とは無縁の、むせ返るような熱気と生命力に満ちていた。
しかし、入り口に立つフリーレンの周囲だけは、絶対零度の真空に放り込まれたかのように時が凍りついていた。
「なぁ、頼む。お前ら、お金持ってる? 俺、完全に無一文でシチュー頼んじゃってさ……。もし立て替えてくれたら、外の雪かきでもなんでも手伝うから、助けてくれないか?」
黄色いスーツを着たその男は、滑らかな頭部に禍々しい二本の角を生やしたまま、ひどく情けない顔でフリーレンたちに懇願していた。右手に握られた木のスプーンからは、黒シチューの湯気がのんびりと立ち昇っている。
フリーレンのエメラルドグリーンの瞳が、静かに、しかし極限の警戒を込めて男を観察していた。
魔族は、人類を欺くために言葉を操る生き物である。かつて彼女が対峙した魔族たちは皆、人間の感情という楽器を弾きこなすかのように、同情や哀れみ、あるいは家族愛といった概念を巧みに利用して命乞いをしてきた。
だが、この男の口から出た言葉は「無銭飲食の立て替え」である。誇り高き魔族が、たかだか銅貨数枚のために人間の前に頭を下げるなど、彼女が千年かけて蓄積してきた生態学的定義のどこを探しても存在しなかった。
(……罠? いや、違う)
フリーレンは、彼から発せられる波長を冷徹に読み取ろうとした。しかし、魔法使いが通常感知するはずの、体外に漏れ出る魔力の揺らぎが、この男には一切存在しない。全くのゼロ。そこにいるのに、世界から完全に切り離された「空間の穴」のような絶対的な虚無。
そして何より、彼には魔族特有の淀んだ悪意も、人間を捕食しようとする飢餓感もなかった。悟りを開いた修行僧のように、エゴも怒りも喪失し、ただ果てしない退屈の底に沈んでいるような空虚さだけがそこにあった。
「……フリーレン様」
背後に立つフェルンが、血の気を失った唇を微かに震わせて囁いた。彼女の優秀な魔力探知をもってしても、目の前の存在の真意は全く読み取れない。
「シュタルク、斧から手を離して。フェルンも、絶対に魔力を練らないで」
フリーレンは声のトーンを極限まで落とし、二人に命じた。
ここは人間の密集する都市の内部である。もしここで戦闘になれば、彼女の魔法を素手ではたき落としたこの異常な魔族の反撃によって、酒場はおろか、周囲の区画ごと大勢の民間人が跡形もなく消し飛ぶだろう。
魂の眠る地であるオレオールを目指す彼女たちの旅において、これほどまでに理不尽で、選択肢を完全に奪われるような事態は初めてであった。
フリーレンはゆっくりと息を吐き出すと、一切の感情を顔に出さぬまま、男の座るテーブルへと歩み寄った。
「おっ、助けてくれるのか?」
サイタマは、地獄の底から蜘蛛の糸を見つけたような明るい声を上げた。
フリーレンは無言のまま、革袋から銅貨を三枚取り出し、サイタマに手渡した。
「おお! マジで助かった! 」
店主は男の頭の角に気づく様子もなく、「毎度あり!」と景気良くサイタマから銅貨を受け取った。
「恩に着るよ。俺、サイタマ。さっきも言ったけど趣味でヒーローやってる者だ」
サイタマは立ち上がり、残りのシチューをゴクンと飲み干して満足そうに口を拭った。
「……外に出るよ」
フリーレンは、サイタマと一切視線を合わせず、氷のように冷たく言い放った。「雪かきを手伝うと言ったよね。ついてきなさい」
「おう、わかった。約束は守るぜ」
サイタマは赤いマントのフードを再び頭からすっぽりと被り、角を隠した状態で、ひどく間の抜けた足取りでフリーレンの後を追った。
フェルンとシュタルクは、背後を歩くその黄色いスーツの男にいつでも対処できるよう、極度の緊張状態を保ったまま酒場を後にした。
*
城塞都市ヴァールの外れ。
人通りのない裏路地を抜け、都市の防壁の外側へと通じる雪深い林道までやってくると、フリーレンはついに足を止めた。
空からは、感情を持たない粉雪が静かに舞い落ちている。
「ここまででいいよ」
フリーレンは振り返り、フードを被ったサイタマを真っ直ぐに見据えた。
「あなたに手伝ってもらう仕事なんてない。ただ、人間の街から出ていってほしかっただけだ」
「え? なんだよ、せっかく労働で恩を返そうと思ったのに」
サイタマはフードを後ろに払い、再びその黒い角を冷たい空気に晒した。「まあいいか。シチュー代、本当にサンキューな。おかげで皿洗いにならずに済んだわ」
「……理解できないね」
フリーレンの杖を持つ手に、静かな力がこもった。「魔力を完全に隠蔽し、同族をいとも容易く殺し、今度は人間のお金で食事をする。……そんな無害な人間を演じる『欺瞞』の先に、あなたは何を求めているの?」
フリーレンの問いは、刃のように鋭かった。魔法とは視覚化の力である。彼女は目の前の男の真意を測り、彼を倒すための決定的なイメージを探り出そうとしていた。
しかし、サイタマはポカンと口を開け、心底不思議そうに首を傾げた。
「人間を演じるって、俺は人間だけど。……それにしても、お前らさっきから魔族だの魔力だの、ずっと変なこと言ってるな。ここはなんかのテーマパークか?」
「……?」
「Z市で怪人と戦ってたはずなんだけど、気づいたらこんな雪ばっかのド田舎に飛ばされててさ。頭になんか変な接着剤で角みたいなのつけられてるし。まあ、そのうちヒーロー協会の迎えでも来るだろ。とりあえず今日はどっか寝床を見つけて、明日には歩いて帰るつもりなんだけど」
サイタマは、自分が異世界にいるなどとは微塵も思っていない様子で、適当に頭をポリポリと掻いた。彼の認識では、ここはただの「悪趣味な仮装をした連中がいる、辺鄙な田舎町」に過ぎなかったのだ。
「……Z市? ヒーロー協会?」
フリーレンは、彼の口から飛び出した未知の単語に微かに眉をひそめた。魔族が人間を欺くために使う言葉は、常に人間の感情を揺さぶるものだ[1]。だが、この男が並べ立てる言葉には、全く意味が見出せない。
フェルンが、フリーレンの横に並び立ち、鋭い声で遮った。
「欺瞞です。あなたの頭には、間違いなく魔族の角が生えています。そして先ほど、あなたは同じ魔族を躊躇いなく殺した。私たちは見ていたんです」
「あー、あの腕がいっぱいあった変な着ぐるみの奴か?」
サイタマは、道端の石を蹴飛ばしたことでも思い出すかのように、適当に頷いた。「あいつが襲ってた馬車から塩がこぼれてたから、そこのおっさんに少し分けてくれって言ったら、いきなり横から氷を飛ばしてきたんだよ。だからちょっと払っただけだ。それより、あの魚にはやっぱ塩が合ってたな」
あまりにも常軌を逸した返答に、シュタルクがたまらず声を上げた。
「し、塩のために……あんなバケモノを一撃で粉砕したって言うのかよ!? 冗談だろ!」
「冗談じゃないさ。飯の味付けってのは、毎日のモチベーションに関わる重要な問題だからな」
サイタマは極めて真面目な顔でそう言い切り、小さくため息をついた。「まあ、お前らに信じてもらえなくても別にいいよ。とりあえず今日はどっか寝床を見つけるわ」
そう言って、サイタマはくるりと背を向けた。
フリーレンは、遠ざかろうとするその背中を見つめながら、己の中に渦巻く強烈な葛藤と戦っていた。
今、背後から最大の魔法を放てば、あるいは。
いや、無駄だ。彼女の千年の経験が、生存本能が、そう冷酷に告げている。この男には、魔力という概念自体が通用しない。物理的な絶対強度が、魔法という現象そのものを上回っているのだ。圧倒的な力を持つ彼は、もはや闘争の喜びにすら意味を見出せず、ただ空虚な日常を漂っているだけ。
「……フリーレン様。このまま行かせるのですか」
フェルンが、降り積もる雪を見つめながら静かに問うた。
「……今はね。私たちの魔法では、あいつの皮膚一枚傷つけることはできない」
フリーレンは、杖を持つ手をゆっくりと下ろした。彼女の瞳には、決して諦めではない、冷たく澄み切った決意が宿っている。
「人類を滅ぼす意図がないのなら、しばらくは観察する。あんな理不尽な存在が、このまま世界に影響を与えずに消えるとは思えないからね」
白銀の森へと消えていく黄色い背中。
魔力の理を逸脱した存在と、その理を極めようとする魔法使い。決して交わるはずのなかった二つの孤独は、奇妙な銅貨三枚の貸し借りを経て、同じ雪空の下で決定的な境界線を引いたのであった。