暗く、冷たい。五感が麻痺し、ただ『破壊』という命令だけが脳を支配していた感覚。
──アリスが目を覚ました時、視界に飛び込んできたのは無機質な暗い灰色の天井だった。
「あ、アイツ……私たちを助けて……」
ユズが震える声で、奈落に消えていったミナを見つめていました。
「アリスちゃん! 良かった、元に……!」
ミドリは血の滲む手首を抑えながらアリスに駆け寄る。
アリスは──自分の両手を見つめた。先ほどまでミナを、そして仲間であるはずの二人を傷つけようとしていた、血の通わない鋼鉄の手。
「アリスは……負けてしまいました。殺戮兵器としての本能に……自分自身に……」
殺そうとしていた。
かつてケイが自分を殺そうとした時のように、自分もまた、獣のように牙を剥いた。
あんなに大口を叩いたのに。結局、アリスはケイと同じ、壊れた人形に過ぎなかった。絶望に打ちひしがれるアリスの肩を、ユズが力強く抱き寄せる。
「そんなことないよ! アリスちゃんは、私たちを守ろうと戦ってくれた……。あんなに必死に、自分を抑えようとしていたこと、私たちが一番よく分かってるよ」
「ごめん……私たちが弱いばっかりに。私たちがもっと強ければ、アリスちゃんに、あんな思いさせなくて済んだのに」
真っ暗な闇の中で、何も聞こえない、何も見えないと思っていたアリスの耳に、二人の温かな声が届いた。アリスを暗闇から救い出したのは、どこまでも不器用で──けれど真っ直ぐな、ユズとミドリの想いだった。
アリスの大きな瞳から、大粒の涙が溢れ出した。
「悔しいです……っ! みんなを守れるくらい、誰にも、自分にも負けないくらい……アリスは、もっと、もっと強くなりたいです……!!」
アリスは、子供のように泣きじゃくった。その姿を見て、ユズとミドリも泣きそうになるが、今ここで立ち止まるわけにはいかない。
ユズはアリスの体を支え、ミドリは行く手を阻む瓦礫の柵を力いっぱい蹴り壊した。
「私たちもそう! 強くなりたい! けど、今はまだ、やることがあるでしょ?」
「こんな私たちの力でも、必要としてくれる人たちがいる! 私たちにだって、守れるものがあるんだよ!」
「今までだってさ、何かを守るために、ちょっとずつだけど私たち、強くなってきたでしょ? だから、前を向こう」
「きっと私たちまた強くなれるよ」
二人の励ましにアリスは強く頷くのだった。
* * *
一方、その頃。城の最上階へと続く渡り廊下は、まさに地獄絵図と化していた。
一階に鎮座する大傘を咥えた巨大なウサギのオブジェには、上から降り注ぐ百華生徒たちの血が、雨だれのように滴り落ちている。
「シュン様の元へは……行かせるな……ッ!」
一人の生徒が、震える手で薙刀を構えますが、その視線の先にいるケイは、退屈そうに首を傾げた。
「しつこいですね」
──刹那。一瞬という言葉すら生ぬるい速度で、ケイの影が動いた。
武器すら使わず、素手で繰り出された手刀が、百華生徒たちの喉を、胸を、次々と貫いていく。
返り血を浴びながら、ケイは最後の一人として残された、震えて腰を抜かしている生徒を見下ろした。
「あんまり女の人は殺したくないんですよね。だって、いつか強い子を産むかもしれないじゃないですか。……ま、貴女たちの子供には期待できそうにありませんけど」
──ケイは無慈悲に、その生徒の首を切り裂いた。崩れ落ちる遺体。ケイはその顔に付着した血を、まるで極上の蜜でも味わうかのように舌で舐めとる。
「や、やめてください! そ、そんなに人を殺して……何が楽しいんですか! なんでそんなに、何も思わずに人を殺せるんですか!?」
柱に隠れていたココナが、絶叫に近い声を上げた。ケイは無表情のまま、血に濡れた顔をココナに向ける。
「酷いですね。ここまで連れてきてあげたのに。それに、この人たちは貴女のお姉さんをここに閉じ込めていた連中ですよ?」
「頼んだ覚えはありません……っ!」
ケイは一歩、また一歩とココナに近づきました。
「何も感じない、思わない。無表情こそが私の殺しの作法です。特に、弱者に対して向ける顔などこれで十分でしょう。──逆に言えば、私が笑顔になった時は、特別な殺意がある時だと思っていてください」
凍りつくような眼差し。ココナは「ヒッ……」と短い悲鳴を上げて腰を抜かした。すると、ケイはフッと口角を上げ、不気味な微笑みをココナへ向ける。
「冗談ですよ。意外とお茶目でしょう? 私は子供は殺さない主義です。だってこの先、貴女だって強くなるかもしれないですから」
ケイはそのまま、廊下の奥へと足を進めた。──そこには、重厚なカンヌキが差された、巨大な扉が立ちはだかっている。
「ほら、笑いなさい。お姉さんに会うのに、そんなしけた顔をしていてはいけませんよ」
ココナは震える足を叱咤し、扉の前に立った。
「ここに……シュン姉さんが……」
「五か月前。貴女を逃がそうとし、貴女の自由と引き換えに、シュンは自ら自由を捨てた。花魁なんて名ばかり。キサキは彼女を、客寄せパンダとしてここに閉じ込め、一歩も外へ出さず、一切の自由を認めなかった。ここで腐って死んでいくことを、彼女に強いたのです」
「……もっとも、シュン自身がそれを選んだ、と言ってもいいですが。それでも貴女は、ここに来た。彼女が命懸けで守ってきた覚悟を無駄にしてまで、危険を冒して会いに来た。貴女にも相応の覚悟があるのでしょう? ……ここから先は、貴女の仕事です」
ケイは壁に背を預けてココナを見守る。ココナは躊躇いながらも、細い手で冷たい閂に触れようとした──その時。
扉の奥から、低く、冷徹な声が響いてきた。
「──帰りなさい」
その声を聞いた瞬間、ココナの動きが止まった。
「ここに貴女の求めるものなんてありません。……帰りなさい」
「シュン姉さん……シュン姉さんですよね! 開けてください、私です! ココナです! 分かってるんでしょう!? 妹のココナですよ!」
ココナは必死にカンヌキを投げ捨て、扉を力いっぱい叩いた。
「私に、妹なんていませんよ」
「え……」
「貴女みたいな汚い子供、知りもしません」
「なんで……なんで、知ってるんですか? なんで汚い子供って知ってるんですか……?」
その声は、今にも泣き出しそうに震えていた。
「見てたんでしょう……? 私がいつも、下から見ていた時、姉さんも、私のことを見ていてくれたんでしょう? 何度叫んでも答えてくれなかったけど……本当は、私を巻き込むまいと、必死に声を出すのを我慢していたんでしょう……!?」
ココナは乱暴に涙を拭った。
「姉さん。私は何も知りませんでした。姉さんがこんな所で、ずっと一人で苦しんでいたなんて。なんで私ばっかりこんなに不幸なんだろうって。独りぼっちになった時も、ずっと、ずっと姉さんのせいにしてました……。私、何も分かってなかった。姉さんが、ずっと、私のことを守ってくれていたなんて」
扉の奥で、シュンは自身の唇を噛み締め、震えていた。壁に寄りかかっていたケイはココナの背中を眺めながら頬をかいている。
ココナはその小さな体を目一杯使って、扉に体当たりし始めた。骨と肉が硬い木を叩く鈍い音が廊下に響きわたる。
「今度は、私の番です! 今度は、私がここから……!」
何度も、何度も。肩を打ち付け、痣を作りながらも諦めない。
「今度は、私が、姉さんを救います! 姉さんを守ります! もう、こんな所に絶対に置いていったりなんかしない! 今度こそ、ここから一緒に出るんです! 姉妹で一緒に、太陽の下に行くんです! だから姉さん、ここを開けて! お願い、シュン姉さん、シュン姉さん!!」
「──やめなさい!!」
シュンの絶叫がココナの動きを止めさせた。
「貴女の姉さんなんて、ここにはいない。そう言っているでしょう!」
「姉さん……」
「──そんなことはあるまい。そんなに会いたければ、会わせてやろう。この夜王がの」
──背後から静かにキサキが姿を現した。
小さな体には見合わない巨大で禍々しいオーラ。ケイは心底面倒くさそうに「見つかりましたか」と小さく呟く。
「キサキ……!」
キサキは乾いた笑いを浮かべた。ココナはあまりの悔しさに、小さな拳を白くなるまで握りしめる。その時──再び扉の向こうから絞り出すようなシュンの声が聞こえました。
「……どうして、こんな所に来てしまったの? 放っておけばよかったのに……。私の分まで、上で元気に生きていてくれたら、それで良かったのに。……貴女が、命を懸けて守るほどの価値なんて、私にはないのに……」
「フッ……哀れじゃな。ココナと言ったか、今ならまだ許してやろう。このまま消えろ。妾の機嫌が変わらぬうちにな」
シュンは諦めたように、それでいてどこか救われたように、微かに笑った。
──しかし、扉を叩く音は決して止まなかった。
「姉さんが、ここにいるんです! 私の大事な姉さんが、ここにいるんだ!!」
キサキの殺気に晒されてなお、ココナは扉に向かって突進し続けていたのだ。
「常夜の闇から、私を地上へ助け出してくれた! 命を懸けて、私を守ってくれた! 何度否定されても言います! 何度拒絶されても言います! 今度は、今度は私が助ける番なんだ!!」
「……諦めの悪い童だ。仕方あるまい。──黄泉でもうしばらく、シュンと対面するのを待っているが良い」
小さな拳を鳴らした──その瞬間だった。
キサキは咄嗟に首を捻り、背後の暗闇から飛来した『何か』を躱した。
空を切って投げつけられた一本の木の棒は、キサキの頬をかすめ、ココナが叩いていた扉の中央に、深々と突き刺さる。
「っ──!?」
その衝撃で、内側から固められていた閂の仕掛けが木端微塵に粉砕される。ココナはあまりの勢いに、腰を抜かして床にへたり込んだ。
しかしココナはその突き刺さった棒──否、『木刀』に見覚えがあった。
「これ、は……!」
静かに、そしてどこか飄々とした足音が、静寂の廊下に響き渡った──。
「──ちょっとちょっと。聞いてないんだけどなー。吉原一の美人がいるって聞いて来てみたのにさ。どうやら、可愛いコブ付きだったみたいだね」
扉が、ゆっくりと内側から開かれた。
そこには、頬を濡らし、驚愕の表情でこちらを見つめるシュンが座っている。
「……その涙が、何よりの証拠だ」
「シュン姉さん……!!」
キサキへと歩いてくる影は、ニヤニヤと不敵な笑みを浮かべ、指をパチンと鳴らした。
「店長。新しい子頼むよ。三日間は徹夜でぶっ通しゲームをできるような女の子をさぁ」
キサキはその冷ややかな瞳で乱入者を射抜くように睨みつける。
「貴様……誰じゃ?」
全員の視線が、その一人の少女に注がれる。そこに居たのは変わらぬ表情、変わらぬ覚悟を瞳に宿した少女──才羽モモイだった。
「なぁに。ただの──ゲーム好きの遊び人だよ」
吉原の頂。『夜王』キサキの目の前で、モモイは不敵に言い放ったのだった。