風の祝が奇跡を運んでくれることを   作:ミスブルー

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第二章 雨の記憶

 

「あれ……?」

 

早苗の声に俺は視線を諏訪湖へ向ける。

 

雨は相変わらず降り続いている。

 

山々は灰色の霧に溶け湖面には無数の波紋が広がっていた。

 

その湖畔に白いものが見えた。

 

最初は雨の見間違いかと思った。

 

だが違った。

 

そこにいて確かにいる。

 

人影だった。

 

傘も差さず雨の中ただ湖を見つめている。

 

一人ではない。

 

二人でもない。

 

十人以上はいる。

 

遠すぎて顔は分からない。

 

男女も年齢も分からない。

 

ただ白いんだ。

 

全員が白っぽい服を着ているように見えた。

 

そして誰一人として動かない。

 

まるで写真の中の人間みたいだった。

 

「早苗……見えるか?」

 

「はい、見えます」

 

早苗の声は真面目だった。

 

さっきまでの休校を喜ぶ高校生の声ではない。

 

今の彼女は風祝の顔だった。

 

「観光客には見えないな…」

 

「こんな日に観光していたら別の意味で心配です…」

 

それもそうだな…。

 

雨脚はさらに強くなっている。

 

湖畔に立っているだけでも危険のはずだ。

 

なのに…あの人影達は微動だにしない。

 

風が吹いても。

 

雨が叩きつけても。

 

ただそこに立っていた。

 

「……気になるか?」

 

「なります」

 

即答だった。

 

俺は知っている。

 

東風谷早苗という人間はそういう生き物だ。

 

気になったら止まらない。

 

そして放っておくと一人で行こうとする。

 

「護くんは?」

 

「気になる」

 

「ですよね」

 

「だから嫌なんだ」

 

早苗は少し笑った。

 

そしてまた湖を見た。

 

その横顔は不思議と静かだった。

 

いつもなら今すぐ飛び出しそうなのに。

 

何か考えているようだった。

 

「どうした」

 

「……変なんです」

 

「何が」

 

「神奈子様と諏訪子様が」

 

俺は少し眉を上げた。

 

神奈子様と諏訪子様。

 

早苗にしか見えない守矢の神々だ。

俺も2人を見る。

 

「何か言ってたのか?」

 

「いえ」

 

早苗は首を横に振る。

 

「逆です」

 

「逆?」

 

「何も言わないんです」

 

風が吹いた。

 

雨が境内へ吹き込む。

 

早苗はその向こうを見る。

 

「神奈子様も諏訪子様も、あれを見ているのに」

 

「何も教えてくれないんです」

 

それは珍しい気がした。

 

少なくとも俺が知る限りあの二柱は気になることがあるとわりと喋る。

 

「知らないのか?」

 

「そんな感じじゃありません」

 

「じゃあ?」

 

「……知っているけど言わない感じです」

 

嫌な予感がした。

 

神様が黙る時は大体ろくなことにならない。

 

しばらく二人で人影を見ていた。

 

だが雨は強い。

 

距離も遠い。

 

正体は分からない。

 

「行ってみるか?」

 

俺が言うと早苗が振り返る。

 

「行くんですか?」

 

「気になるんだろ」

 

「気になります…」

 

「なら調べよう」

 

すると早苗は少しだけ嬉しそうに笑った。

 

「ありがとうございます」

 

「礼を言われることでもない」

 

「でも護くん、自分から言いましたよ」

 

「……」

 

反論できなかった。

 

午後二時過ぎ。

 

俺達は守矢神社を出た。

 

雨はさらに強くなっていた。

 

境内の石畳を叩く音が途切れない。

 

風が吹くたびに雨粒が軒下まで吹き込んでくる。

 

俺達はしばらく諏訪湖の方角を見ていたが視界はどんどん悪くなっていた。

 

さっきまで見えていた湖も今では灰色の向こう側に沈んでいる。

 

「……厳しいですね」

 

早苗が呟いた。

 

俺も同意する。

 

このまま徒歩で向かうのは危険だ。

 

怪我をしてからでは良くない。

 

まして台風が来ているんだ。

 

早苗は少し考え込みそれからこちらを向いた。

 

「護くん」

 

「ん?」

 

「今日はやめませんか?」

 

意外な言葉だった。

 

てっきり行くと言い張ると思っていた。

 

早苗は真面目な顔をしていた。

 

「さすがに危ないです…」

 

そう言った。

 

「これ以上は無理をしてほしくありません…」

 

風が吹く。

 

雨音が一段大きくなる。

 

「今日こうして来てくれただけで十分です」

 

早苗は少しだけ笑った。

 

「ありがとうございます」

 

どうやら本気で諦めるつもりらしい。

 

俺はしばらく考えた。

 

確かに危険だ。

 

だがあの白い人影は気になる。

 

そして何よりここで引き返したらきっと俺自身が気になって仕方なくなる。

 

「……いや」

 

早苗が首を傾げる。

 

「まだ方法はある」

 

「方法ですか?」

 

俺は携帯を取り出した。

 

連絡先を開く。

 

一番上にある名前を見て小さく息を吐く。

 

「母に連絡する」

 

「はい?」

 

「さすがに来てくれるかは分からないけどな」

 

早苗がぱちぱちと瞬きをした。

 

たぶん予想していなかったのだろう。

 

俺も予想していなかったよ。

 

よく考えればこれで来てくれたら東風谷早苗を家族に紹介することになる。

 

少し面倒だ。

 

かなり面倒だ。

 

そもそも守矢神社には神奈子と諏訪子がいる。

 

傍から見れば大人と子供がそこに立っているようなものだ。

 

もっとも普通の人間には見えないのだが。

 

だから説明に困ることはない。

 

困ることはないが――。

 

「……面倒だな」

 

思わず漏れた。

 

「何がですか?」

 

「いや独り言だ」

 

そう言って通話ボタンを押した。

 

数回の呼び出し音。

 

やがて電話が繋がる。

 

『もしもし?』

 

聞き慣れた母の声だった。

 

「もしもし…俺」

 

『それは分かるわよ』

 

「今、守矢神社にいるんだ」

 

『え?台風の日に?』

 

「色々あって…」

 

『色々で済ませる気ね』

 

いつもの調子だった。

 

少しだけ安心する。

 

「頼みがあるんだ」

 

『何?』

 

「諏訪湖の方まで行きたい」

 

 

数秒。

 

沈黙。

 

『ねぇ護』

 

「何」

 

『危ない場所には行かない?』

 

「行かない」

 

『本当に?』

 

「本当」

 

『東風谷さんも一緒?』

 

俺は少し黙った。

 

どうして名前を知っているのか。

 

『やっぱりそうなのね』

 

「……何で知ってる?」

 

『母だからね』

 

全く答えになっていない。

 

電話の向こうで小さく笑う気配がした。

 

『分かったわ』

 

「いいのか」

 

『迎えに行くね』

 

「助かる」

 

『ただし無茶はしないこと』

 

「分かってる、ありがとう」

 

『あと』

 

母の声が少しだけ楽しそうになる。

 

『東風谷さんに会ってみたいし』

 

「……なんて?」

 

『じゃあ後でね』

 

通話が切れた。

 

俺はしばらく携帯を見つめた。

 

「どうでした?」

 

早苗が聞いてくる。

 

「来てくれるらしい」

 

「本当ですか?」

 

「ああ」

 

俺はため息を吐いた。

 

「だから待とう」

 

早苗は少し安心したように笑った。

 

「ありがとうございます」

 

雨はまだ降り続いていた。

 

それから二十分ほどして一台の青の軽自動車が守矢神社の駐車場へ入ってきた。

 

「来た」

 

車が止まる。

 

運転席の窓が開く。

 

母だった。

 

「東風谷さん?」

 

早苗は少し姿勢を正した。

 

「はい」

 

「こんにちは」

 

「こんにちは」

 

礼儀正しく頭を下げる。

 

母も軽く会釈を返した。

 

それからなぜか俺を見る。

 

そして少し笑う。

 

「護がお世話になってます」

 

「こちらこそです」

 

「仲良しねぇ」

 

「違う」

 

「違います」

 

声が綺麗に重なった。

 

母は楽しそうに笑った。

 

そのまま車は雨の道を進みワイパーが忙しく動いていた。

 

景色は白い。

 

道路を走る車も少ない。

 

観光客など当然いない。

 

やがて湖畔の駐車場へ到着する。

 

エンジンが止まると車内に雨音だけが残った。

 

そして俺達は窓の外を見た。

 

そこには――。

 

誰もいなかった。

 

 

 

「あれ?」

 

早苗が呟く。

 

さっきまで確かにいた。

 

何十人もの人影が。

 

だが今は誰もいない。

 

湖だけがある。

 

雨だけがある。

 

「消えた……?」

 

「そんな馬鹿な」

 

ここまで来るのに三十分もかかっていない。

 

歩いて消える距離ではない。

 

ましてこの雨だ。

 

「何か残ってないか」

 

俺は車を降りた。

 

レインコートの上から雨が叩きつける。

 

冷たい。

 

足元は水浸しだ。

 

湖畔へ向かう。

 

そして俺は立ち止まった。

 

「護くん?」

 

「……これ」

 

地面を指差す。

 

そこには足跡があった。

 

たくさん。

 

何十人分も。

 

雨で消えかけているが確かに残っていた。

問題はその向きだった。

 

早苗も気付いた。

 

 

「……湖?」

 

「ああ」

 

全ての足跡が湖へ向かっている。 

 

だが戻ってきた足跡が一つもない。

 

雨音だけが聞こえた。

 

ざあ、と。

 

まるで何かを隠すような音だった。

 

その時だった。

 

不意に昔の記憶が蘇った。

 

書本家の蔵。

 

埃の匂い。

 

古い木箱。

 

祖父の声。

 

 

『雨の日の怪異を追うなら、これを使え』

 

『紙は濡れれば終わりじゃない』

 

『濡れた時にしか見えないものもある』

 

当時は意味が分からなかった。

 

 

今なら分かる気がした。

 

俺は懐から小さな和紙を取り出した。

 

折り畳まれた白い紙。

 

何の変哲もない。

 

早苗が首を傾げる。

 

「それは?」

 

「昔、爺さんから渡された」

 

「お守りですか?」

 

「わからない」

 

俺は紙を開く。

 

真っ白だった。

 

そして雨の中へ差し出した。

 

ぽつ。

ぽつ。

 

ぽつ。

 

雨粒が紙へ落ちる。

 

その瞬間だった。

 

白紙の上に墨のような文字がゆっくり浮かび上がる。

 

まるで最初からそこに書かれていたかのように。

 

早苗が目を見開く。

 

「えっ……」

 

「やっぱりか」

 

俺も少し驚いていた。

 

祖父の話は本当だったらしい。

 

文字はさらに広がる。

 

線になり絵になり景色になる。

 

紙の上に誰かの記憶が映り始めた。

 

雨が過去を語り始めていた。

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