「えっ……」
早苗の声が震えた。
雨に濡れた紙の上。
そこに黒い線が浮かび上がっている。
墨で描かれたような線だった。
だが俺には分かっていた。
これは文字じゃない。
絵でもない。
記録だ。
古い紙が雨を吸うたび景色が形を持ち始める。
祖父が言っていた。
『雨は消えない』
『地面も川も湖も覚えている』
『それを読むのが書本家の役目なのだ』
当時は意味が分からなかった。
今だって完全には分からない。
でも目の前の光景は確かに存在していた。
紙の上に小さな諏訪湖が映っていた。
「これは……」
早苗が身を乗り出す。
護は何も言わない。
映像が変化していく。
雨。
湖。
灰色の空。
そしてそこに立つ人影。
「同じ……」
早苗が呟く。
確かに同じだった。
さっき見た白い人影。
何十人もの人々が傘も差さず湖を見つめている。
だが今の景色ではないし映っている服装が違う。
古い。
少なくとも現代の服ではなかった。
中には着物姿もいる。
農作業着のような格好もある。
年齢も様々だった。
老人。
若者。
子供。
全員が同じ方向を見ていた。
湖へ。
何かを待っているように。
何かを見送るように。
「お祭り……でしょうか…?」
早苗が言う。
「違うと思う」
俺は答えた。
理由は簡単だった。
誰も笑っていない。
祭りならもっと明るい。
もっと賑やかのはずだ。
でも映像の中の人々は静かだ。
あまりにも静かだ。
まるで葬儀みたいに。
その瞬間だった。
紙の映像が揺れる。
湖面が荒れる。
雨がさらに強くなる。
映像の中でも現実でも同じように。
そして誰かが現れた。
湖の方から歩いてくる。
「……え?」
早苗が息を呑む。
俺も目を細める。
白い服。
長い髪。
女性だった。
年齢は分からない。
若く見える…でも人ではない。
そう思った。
歩き方がおかしい。
湖面の上を歩いている。
沈まないし波も立たない。
ただ静かに近付いてくる。
そして湖畔に並んだ人々の前で止まる。
誰も逃げない。
誰も驚かない。
まるで来ることを知っていたようだ。
映像が乱れた。
黒い雨が紙を走る。
俺は眉をひそめた。
「まずいな…」
「何がですか?」
「古いな…」
「え?」
「記録が古すぎる」
紙が震えていた。
まるで無理をしているようだった。
祖父の話を思い出す。
雨写しの紙術は万能ではない。
古い記録ほど壊れやすい。
読みにくい。
そして途中で途切れる。
「もう少し……」
早苗が言う。
「見えそうなんです」
「俺もだ」
女性が口を開く。
何かを話している。
だが聞こえない。
雨音だけが響く。
ざあざあ、と。
まるで意図的に隠されているみたいに。
その時だった。
紙の上の女性がゆっくり顔を上げた。
こちらを見た。
俺の背筋が凍る。
早苗も動きを止めた。
映像のはずだ。
過去の記録のはずだった。
なのに女性の視線だけが明らかに今ここにいる二人を捉えていた。
「護くん」
「ああ…」
見えている、向こうから。
次の瞬間に紙が真っ二つに裂けた。
ばしん、と。
音を立てて映像が消える。
雨だけが残る。
しばらく誰も喋らなかった。
風が吹き湖面が揺れる。
遠くで雷が鳴った。
やがて早苗がぽつりと呟く。
「今の……」
裂けた紙を見下ろした。
俺は答える。
「過去じゃないかもしれない」
その言葉に早苗は静かに息を呑んだ。
二人はまだ知らない。
諏訪湖に現れる白い人影は過去の亡霊ではない。
毎年大雨の日だけ…ある存在を迎えに来ているのだということを。