風の祝が奇跡を運んでくれることを   作:ミスブルー

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第三章 雨の記憶を辿る

「えっ……」

 

早苗の声が震えた。

 

雨に濡れた紙の上。

 

そこに黒い線が浮かび上がっている。

 

墨で描かれたような線だった。

 

だが俺には分かっていた。

 

これは文字じゃない。

 

絵でもない。

 

 

記録だ。

 

古い紙が雨を吸うたび景色が形を持ち始める。

 

祖父が言っていた。

 

『雨は消えない』

 

『地面も川も湖も覚えている』

 

『それを読むのが書本家の役目なのだ』

 

当時は意味が分からなかった。

 

今だって完全には分からない。

 

でも目の前の光景は確かに存在していた。

 

紙の上に小さな諏訪湖が映っていた。

 

「これは……」

 

早苗が身を乗り出す。

 

護は何も言わない。

 

映像が変化していく。

 

 

雨。

 

湖。

 

灰色の空。

 

そしてそこに立つ人影。

 

「同じ……」

 

早苗が呟く。

 

確かに同じだった。

 

さっき見た白い人影。

 

何十人もの人々が傘も差さず湖を見つめている。

 

だが今の景色ではないし映っている服装が違う。

 

古い。

 

少なくとも現代の服ではなかった。

 

中には着物姿もいる。

 

農作業着のような格好もある。

 

年齢も様々だった。

 

老人。

 

若者。

 

子供。

 

全員が同じ方向を見ていた。

 

湖へ。

 

何かを待っているように。

 

何かを見送るように。

 

「お祭り……でしょうか…?」

 

早苗が言う。

 

「違うと思う」

 

俺は答えた。

 

理由は簡単だった。

 

誰も笑っていない。

 

祭りならもっと明るい。

 

もっと賑やかのはずだ。

 

 

でも映像の中の人々は静かだ。

 

あまりにも静かだ。

 

まるで葬儀みたいに。

 

その瞬間だった。

 

紙の映像が揺れる。

 

湖面が荒れる。

 

雨がさらに強くなる。

 

映像の中でも現実でも同じように。

 

そして誰かが現れた。

 

湖の方から歩いてくる。

 

「……え?」

 

早苗が息を呑む。

 

俺も目を細める。

 

白い服。

 

長い髪。

 

女性だった。

 

年齢は分からない。

 

若く見える…でも人ではない。

 

そう思った。

 

歩き方がおかしい。

 

湖面の上を歩いている。

 

沈まないし波も立たない。

ただ静かに近付いてくる。

 

そして湖畔に並んだ人々の前で止まる。

 

誰も逃げない。

 

誰も驚かない。

 

まるで来ることを知っていたようだ。

 

映像が乱れた。

 

黒い雨が紙を走る。

 

俺は眉をひそめた。

 

「まずいな…」

 

「何がですか?」

 

「古いな…」

 

「え?」

 

「記録が古すぎる」

 

紙が震えていた。

 

まるで無理をしているようだった。

 

祖父の話を思い出す。

 

雨写しの紙術は万能ではない。

 

古い記録ほど壊れやすい。

 

読みにくい。

 

そして途中で途切れる。

 

「もう少し……」

 

早苗が言う。

 

「見えそうなんです」

 

「俺もだ」

 

 

女性が口を開く。

 

何かを話している。

 

だが聞こえない。

 

雨音だけが響く。

 

ざあざあ、と。

 

まるで意図的に隠されているみたいに。

 

その時だった。

 

紙の上の女性がゆっくり顔を上げた。

 

こちらを見た。

 

俺の背筋が凍る。

 

早苗も動きを止めた。

 

映像のはずだ。

 

過去の記録のはずだった。

 

なのに女性の視線だけが明らかに今ここにいる二人を捉えていた。

 

「護くん」

 

「ああ…」

 

見えている、向こうから。

 

 

次の瞬間に紙が真っ二つに裂けた。

 

ばしん、と。

 

音を立てて映像が消える。

 

雨だけが残る。

 

しばらく誰も喋らなかった。

 

風が吹き湖面が揺れる。

 

遠くで雷が鳴った。

 

 

やがて早苗がぽつりと呟く。

 

「今の……」

 

裂けた紙を見下ろした。

 

俺は答える。

「過去じゃないかもしれない」

 

その言葉に早苗は静かに息を呑んだ。

 

二人はまだ知らない。

 

諏訪湖に現れる白い人影は過去の亡霊ではない。

 

毎年大雨の日だけ…ある存在を迎えに来ているのだということを。

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