紙は完全に裂けていた。
雨に濡れた和紙は力なく垂れ下がっている。
俺はしばらくそれを見つめていた。
祖父から受け継いだ紙術。
初めて使った。
そして初めて壊れた。
「大丈夫ですか?」
早苗が尋ねる。
「紙か?」
「護くんです」
思わず苦笑する。
こういうところは変わらない。
「平気だよ」
そう答えながらも頭の中では別のことを考えていた。
見られていた。
あれは間違いない。
過去の記録ではなかった。
もし本当に過去ならこちらを見るはずがない。
気付くはずもない。
だが…あの白い服の女は確かに俺達を見ていた。
「護くん」
「何だ」
「少し歩きませんか」
早苗は湖畔を見ていた。
雨は相変わらず強い。
だが先ほどよりは少しだけ落ち着いている。
「何かあるのか」
「分かりません」
早苗は正直に言った。
「でも」
少し迷うように続ける。
「何となくです」
その言葉に俺は頷いた。
今まで何度もあった。
東風谷早苗の「何となく」
そして大抵の場合、その感覚は当たる。
二人は湖畔を歩き始めた。
母には駐車場で待ってもらっている。
もちろん危険な場所へは行かない。
その約束は守ることを条件に。
雨に濡れた遊歩道。
人影はない観光客もいない。
聞こえるのは雨音と波音だけだ。
しばらく歩いた時に早苗が足を止めた。
「……あれ」
湖畔の端。
草むらの向こうに何かが見えた。
俺も近付く。
そこにあったのは小さな石碑だった。
「こんな所に…?」
苔むしているな。
かなり古いようだ。
普段なら気付かない場所だった。
雨で草が倒れたことで見えたのかもしれない。
文字もほとんど読めない。
でも一部だけは残っていた。
『迎え』
それだけだった。
「迎え?」
早苗が首を傾げる。
「墓…?じゃないな」
俺も周囲を見る。
供物の跡もない。
祠でもないようだ。
神社でもない。
中途半端な場所だった。
まるで何かの目印のような。
その時だった。
風が吹いた。
雨が横殴りになる。
そして早苗の表情が変わった。
「護くん」
声が低い。
真面目な時の声だ。
「います」
俺も気付いていた。
だから何も聞かなかった。
ただ振り返る。
誰もいないはずの遊歩道。
その先の雨の向こう側だ。
白い人影が立っていた。
一人だけ。
傘はない。
長い髪。
紙に映った女と同じ姿。
だが今度は遠くない。
二十メートルほど先だ。
はっきり見える。
「……」
女は何も言わない。
湖を見ている。
俺は息を呑む。
怖い。
けど不思議と敵意は感じない。
襲ってくる気配もないようだ。
むしろ何かを待っているように見えた。
その時、早苗が一歩前へ出た。
「あなたは誰ですか」
雨音の中。
女はゆっくり振り返る。
顔は若い。
目だけが妙に古かった。
何十年も何百年も雨を見続けてきたような目だった。
女は初めて口を開いた。
「まだ」
声は小さい。
雨に溶けそうなほど小さい。
「まだ来ていない」
俺と早苗は顔を見合わせた。
「誰がですか」
早苗が聞く。
女は答える。
「迎えの人が」
その瞬間。
護は石碑を見る。
そこに刻まれていた言葉。
『迎え』
偶然ではない。
繋がっている。
女は再び湖を見る。
まるで独り言のように呟いた。
「みんな待っている」
雨が強くなってきた。
波が揺れる。
「今年も」
その言葉と同時に湖の向こう。
無数の白い人影が浮かび上がった。
一人ではないし十人でもない。
何百人。
静かに湖を見つめていた。
そして誰もが。
同じものを待っていた。
迎えを