雨はやまない。
灰色の空は湖と繋がっているように見えた。
湖畔に立つ早苗と俺。
その先には無数の白い人影だ。
誰も騒がない。
誰も歩かない。
ただ待っている。
「……」
俺は言葉を失っていた。
これまで怪異は見てきた。
祓い屋の家に生まれた以上、避けられない。
だがこんな怪異は知らない。
敵意がなければ害意もない。
でも異様だった。
「迎えの人」
早苗が呟く。
白い女は頷いた。
「来るはずだった」
その声は雨音に紛れそうなほど小さい。
「みんな待っている」
女は再び湖を見た。
その横顔はどこか寂しそうだった。
「ずっと」
俺の背筋を冷たいものが走る。
ずっと…。
その言葉が妙に重かった。
「いつからだ」
思わず聞いていた。
女は少し考えるように目を伏せる。
「忘れた」
答えはそれだけだった。
「百年かもしれない」
雨が降る。
「もっと前かもしれない…」
そう言った時だった。
早苗がふと空を見上げた。
「??神奈子様?」
俺には見えていない。
きっと神社にいて早苗に呼びかけたのだろう。
早苗は少し黙った。
何かを聞いている。
そして驚いたように目を見開いた。
「……え?」
今度は別の方向を見る。
「諏訪子様まで?」
さらに沈黙。
俺は待った。
急かさない。
こういう時の早苗は本当に神様と話している。
それくらいは分かる。
やがて早苗が振り返った。
「護くん」
表情が少し固い。
「神奈子様達、知っていました」
俺は頷く。
予想通りだった。
「最初から?」
「はい」
そして少し困ったような顔になる。
「でも詳しくは覚えていないそうです」
「覚えてない?」
今度は俺が驚く番だった。
神様だ。
人間とは違う。
何百年も生きている存在だ。
「そんなことあるのか」
早苗は静かに頷いた。
「神様は全てを覚えているわけじゃないんです」
雨が降り湖が揺れる。
「人間が忘れたものは、神様も少しずつ忘れていきます」
俺は言葉を失った。
「信仰と似ています」
早苗は湖を見た。
「誰も語らなくなった昔話は消えます」
白い人影達を見る。
「誰も覚えていない約束も消えます」
雨音だけが聞こえる。
「だから神奈子様達も覚えていないんです」
そこまで言って早苗は少しだけ悲しそうに笑った。
「ただ…」
「ただ?」
「待っていた人達がいたことだけは覚えているそうです」
その時だった。
風が強く吹いた。
雨が強くなる。
視界が白く染まる。
俺は見た。
湖の向こうに人影達のさらに奥。
何かがいる。
巨大だった。
白い。
でも人ではない。
それは舟だった。
あり得ないほど大きな木造の舟。
湖面の上に立っている。
霧の中に、雨の中に。
ぼんやりと浮かんでいる。
「護くん!」
早苗の声。
「見えてますか!?」
「ああ!」
間違いない。
見えている。
その瞬間湖畔の白い人影達が一斉に顔を上げた。
初めて動いた。
待ち続けていた者達が同じ方向を見た。
舟を…。
白い女が呟く。
「来た」
俺と早苗は息を呑む。
「迎えが」
だが女の表情が変わった。
歓喜ではなければ安堵でもない。
困惑だった。
「違う」
女が一歩後ろへ下がる。
「違う」
二歩。
「これは違う」
湖の上の巨大な舟。
その輪郭が雨の中でゆっくりと崩れ始めていた。
まるで本物ではないかのように。
俺の懐の中に裂けたはずの雨写しの紙が勝手に震え始めていた。
まるで何かを警告するように。