「違う」
白い女はそう言った。
雨の向こう。
湖上に浮かぶ巨大な舟を見ながら。
「違う」
その声は震えていた。
待ち続けた者がようやく願いを叶えられた時の声ではない。
恐れている声だった。
護の懐で何かが震えた。
裂けたはずの雨写し。
二つに裂けた紙がまるで生き物のように震えている。
びり、と。
小さな音がした。
「護くん」
早苗も気付いていた。
「その紙……」
「ああ」
護は裂けた紙を取り出した。
普通なら術は終わっている。
紙術は紙そのものが媒体だ。
破れれば終わる。
祖父もそう言っていた。
だが今は違った。
裂けた紙の断面から。
黒い文字が滲み出している。
まるで墨が溢れているようだった。
『迎えに非ず』
俺は目を見開く。
早苗も息を呑んだ。
『迎えに非ず』
同じ文字が何度も浮かぶ。
消える。
また浮かぶ。
まるで警告だった。
「偽物か」
護は呟く。
その瞬間だった。
湖上の舟が揺れた。
波ではない。
舟そのものが歪んでいる。
木で出来ているはずなのに。
輪郭が崩れる。
煙のように。
影のように。
「護くん」
早苗が小さく言った。
「あの舟」
「あぁ…」
見えていた。
舟の周囲に。
黒いものがいる。
最初は雨かと思った。
違う。
人影だ。
黒い人影。
何十。
何百。
数えられないほど舟に張り付いている。
白い人影とは正反対だった。
「何ですか、あれ……」
早苗も知らないらしい。
俺も知らない。
でも知っている感覚があった。
嫌な怪異を前にした時の感覚。
「見るなよ」
俺は言った。
「え?」
「目を合わせるな」
早苗はすぐ従った。
舟がまた揺れる。
その時だった。
黒い人影の一つがこちらを向いた。
距離は遠い。
普通なら顔など見えないのに見えた。
口だけが異様に大きかった。
そして笑っていた。
俺は反射的にポケットへ手を入れる。
紙が数枚。
いつものヒトガタではない。
ただの白紙。
祖父が残したものだった。
「護くん?」
早苗が驚く。
俺は紙を一枚取り出した。
折る。
さらに折る。
素早く。
紙は舟になった。
掌に乗るほど小さな紙舟だ。
「それは…」
「蔵にあった」
俺自身も使うのは初めてだった。
名前すら知らないけど、でも今なら分かる。
雨写しが教えている。
「行け」
俺は紙舟を湖へ流した。
雨の湖面。
普通なら沈む。
しかし紙舟は沈まなかった。
すっと一直線に進む。
偽の舟へ向かって。
「……」
早苗が見守る。
白い人影達も見ている。
白い女も見ている。
やがて紙舟が黒い舟へ辿り着く。
次の瞬間に火が灯った。
紙舟から青白い火が上がる。
炎ではない灯火だった。
偽の舟の正体をその光が照らした。
「っ!」
早苗が息を呑む。
舟ではない。
最初から舟など存在しなかったんだ。
黒い人影達が集まり積み重なって舟の形を作っていただけだった。
何百もの影。
何百もの未練。
何百もの忘れられた思い。
それらが集まり迎えを待つ者達を騙そうとしていた。
「護くん」
早苗が呟く。
「これ……」
俺は答えた。
「あぁ…これは迎えなんかじゃない」
雨が強くなる。
「迎えを待つ気持ちに寄ってきた怪異だったんだ」
その瞬間偽の舟が。
ゆっくりと二人へ顔を向けた。
気付かれた。
そして初めて。
怪異はこちらを見て笑った。