四月の諏訪湖は、まだ冬の名残がある。
水は暗く風は冷たい。
地元では昔から言われている。
諏訪湖には神様が沈んでいる。
もちろんただの怪談だ。
……普通なら。
次の日の昼休み。
俺――書本護は窓際の席から校庭を眺めていた。
桜が散り始めている。
すると後ろから声がした。
「書本くん」
振り向くと、東風谷早苗が立っていた。
制服姿。
新しいリボン。
そして――
緑色の髪。
他の奴らには黒髪に見えているらしい。
「どうしたんですか?」
俺は言った。
「昨日の話なんだけど」
早苗は少し困った顔をする。
「……あの…髪のことですよね」
「それもある」
俺は声を落とした。
「今お前の後ろにいる二人」
早苗が一瞬だけ固まった。
教室の空気がほんの少し冷える。
俺の視界の端で、
窓際に小さな少女が座っている。
机の上に足を乗せて、笑っていた。
「やっぱり見えてるじゃん」
もう一人。
背の高い女が腕を組んでいる。
「面白いな」
早苗はため息をついた。
「……隠しても無駄ですね」
少女がひらひら手を振る。
「こんにちは人の子。私は洩矢諏訪子」
背の高い女が続く。
「そして私は八坂神奈子だ」
俺は机に肘をついた。
「……神様?」
神奈子が笑う。
「一応な」
諏訪子が言う。
「まあ今は居候だけどー!」
早苗が慌てて言った。
「お二人とも静かにしてください!」
もちろん、クラスメイトには聞こえていない。
早苗はハッとして口をつぐむ。
俺は頭をかいた。
「つまり…お前、神様と一緒に生活してるのか」
早苗はうつむいた。
「はい」
「……昔から?」
神奈子が言う。
「この子は**風祝(かぜはふり)**だからな」
「我々の巫女だ」
諏訪子が笑う。
「未来の現人神ってやつ」
俺は思わず吹き出した。
「高校一年で神様かい」
早苗は真っ赤になった。
「そ、そんな大げさなものじゃありません!」
その時だった。
神奈子が窓の外を見る。
「……ほう」
諏訪子も立ち上がる。
「来てるね」
俺は眉をひそめた。
「何が?」
神奈子は言った。
「湖だ」
諏訪子が続く。
「沈んだものが、動いてる」
早苗の顔色が変わる。
「……またですか」
神奈子がうなずく。
「この町は古い」
「神も、怪異も、全部沈んでいる」
諏訪子が言う。
「特に諏訪湖はね」
俺は立ち上がった。
「沈んでるって何が」
諏訪子が笑う。
「神様さ」
教室の窓から、遠くに諏訪湖が見える。
曇り空の下。
水面が、ほんの少し揺れていた。
まるで。
下から誰かが触れているみたいに。
早苗が小さく言う。
「放課後、湖に行きます」
俺は聞いた。
「なんで」
早苗は真剣な顔をしていた。
「巫女ですから」
諏訪子がにやりと笑い…
「それに」
神奈子が言う。
「祓い屋の血もいる」
二人が同時に俺を見る。
「わかるのか……俺もか」
諏訪子が楽しそうに言った。
「当然」
神奈子が笑う。
「諏訪湖の神様が起きたら人間だけじゃどうにもならん」
早苗は小さく頭を下げた。
「……お願いします」
窓の外で、風が吹いた。
桜が散る。
遠くの湖面に、
黒い輪が広がっていた。
俺は思った。
この町は普通じゃなかった。
いや俺達が普通ではなかった。
そして――
諏訪湖の底には、確かに何かいる
放課後。
校門を出ると早苗は俺を待っていた。
制服姿のまま、湖の方を見ている。
夕方の光が髪に当たって緑色が少しだけ輝く。
普通の奴らには黒にしか見えないその色を俺だけが知っている。
「……来てくれたんですね」
早苗が言った。
「まあ成り行きだな」
俺は自転車を押しながら答える。
「神様に呼ばれたら断れないだろ」
早苗は少し笑った。
「私、神様じゃないですよ」
その後ろで、声がした。
「未来のだけどね」
諏訪子が石垣の上に座っている。
「修行中だな」
腕を組んでいるのは神奈子だ。
俺は慣れてきたのか、もうあまり驚かなかった。
諏訪湖は夕方になると静かになる。
観光客もいない。
波もほとんど立たない。
ただ、水面だけが黒く沈んでいる。
諏訪子が湖を見ながら言った。
「ここはね」
「いろんなものが沈む」
神奈子が続ける。
「信仰を失った神」
「忘れられた怪異…そして人の念」
早苗は湖を見つめていた。
「……今日は何が出るんでしょう」
俺はポケットに手を入れた。
そこに入っているのは、小さな紙包み。
古い和紙だ。
早苗が気づいた。
「それ……」
俺は取り出して見せた。
ヒトガタ。
人の形をした紙人形。
書本家が昔使っていた祓いの道具だ。
「家にまだ残ってた」
早苗は少し驚いた顔をする。
「本当に祓い屋だったんですね…それ本物なんですね」
「一応な」
俺は肩をすくめた。
「でも使ったことはない」
祖父が昔言っていた。
「祓いは紙がやるんじゃない」
「祓う意思がやるんだ」
……俺にそんなものがあるかは分からない。というか多分ない。
その時だった。
湖の水面に、何かが浮かんだ。
白いもの。
ゆっくり揺れている。
早苗が言った。
「……人形?」
諏訪子が首をかしげる。
「違うね」
神奈子が目を細めた。
「人形を真似た何かだ」
水面に浮かんでいるのは確かに人形だった。
和紙の人形。
でも。
濡れていない。
水の上に、ただ乗っている。
それが、ゆっくりこちらに流れてくる。
俺は言った。
「……あれ、やばいのか」
諏訪子が笑った。
「まあまあだね」
神奈子が言う。
「人の念だろう」
早苗が一歩前に出た。
「私、やります」
俺は思わず言った。
「どうやって?」
早苗は少し困った顔をする。
「えっと……奇跡で」
諏訪子が吹き出した。
「ざっくりだね」
神奈子も笑う。
「まだ修行中だ」
早苗は湖に向かって手を合わせた。
風が吹く。
桜の花びらが、湖に落ちる。
「……お願い」
早苗が小さく言った。
「静かにしてください」
それだけだった。
何も起きない。
奇跡らしい光もない。
ただ…
風が少し変わった。
湖面の流れが、ほんの少しだけ動く。
人形が流れる方向が変わった。
俺はその瞬間に動いた。
ヒトガタを取り出す。
祖父の言葉を思い出す。
祓う意思。
俺は人形に向かって紙人形を投げた。
風に乗る。
和紙が湖面に落ちる。
触れた瞬間。
水に浮かんでいた人形が、すっと沈んだ。
まるで最初から何もなかったみたいに。
湖はまた静かになった。
しばらく誰も話さなかった。
やがて諏訪子が言った。
「へえ…」
神奈子が腕を組む。
「なるほど」
早苗が振り向いた。
「今の……」
俺は湖を見ながら言った。
「お前の奇跡だ。…と俺の紙」
言葉を続ける。
「たぶん両方」
早苗は少し笑った。
「……共同作業ですね」
その言葉が、なんだか少し嬉しかった。
諏訪子が言う。
「いいコンビじゃん?」
神奈子もうなずく。
「祓い屋と巫女」
早苗は空を見た。
夕焼けが広がっている。
「書本くん」
「なんだ」
早苗は言った。
「また、来てくれますか」
俺は答えた。
「湖?」
「うん」
俺は肩をすくめた。
「まあ…こういうのは嫌いじゃない」
早苗は笑った。
その笑顔は、普通の高校生みたいだった。
でも、俺は知っている。
この町には神様がいる。
そして――
この子はいつか、その神様と一緒にどこかへ行く。
まだ、その時じゃないだけだ。
湖の風が吹いた。
遠くで水が小さく揺れた。
まるで底で何かが眠り直したみたいに。