黒い舟が唸っていた。
音ではない、声でもない。
でも確かに聞こえる。
湖の上から不快な何かが二人を拒むように。
「怒っています…」
早苗が呟いた。
その言葉に俺は否定しなかった。
怒っている。
正確には恐れているんだ。
真実に近付かれることを。
「護くん」
早苗が空を見る。
「神奈子様達が」
そこで言葉を切る。
「思い出したそうです」
俺は振り返った。
「何を」
早苗は静かに答える。
「大雨です」
風が吹く。
「昔ずっと昔ですが、湖で事故があったそうなんです」
俺は黙って聞く。
早苗自身も見ているようだった。
神々の記憶を。
「舟が出たんです」
雨の日、湖の向こうの集落へ向かう舟。
当時は橋も少ないから湖を渡ることは珍しくなかった。
「でも」
早苗の声が小さくなる。
「帰って来なかったんです」
雨音だけが聞こえた。
俺は木箱の紙を見る。
迎えに行けなかった。
帰らなかったら待つ人達へ。
断片だった言葉が少しずつ繋がる。
「そうか、迎えに行く側だったんだ」
早苗が頷く。
「舟に乗った人達が向こう岸の人達を迎えに行く約束をしていました」
そして事故が起き帰れなかった。
約束を果たせずに。
それだけなら悲しい昔話だ。
だが問題はその後だ。
「待っていた人達は…」
俺が言う。
「約束を知らなかった」
早苗の目が開く。
「え……」
「いや」
俺は首を振った。
「正確には違う」
紙を見下ろす。
『迎えに行けなかった』
そこにある言葉。
つまり迎えに行く約束は存在した。
でもその手紙は届かなかった。
事故も約束も途中で消えた。
だから向こう岸の人達は迎えが来ると思い続けた。
待ち続けた…。
待ち続けて。
死んでも待ち続けた。
怪異になりは果てても待ち続けた。
その瞬間だった。
湖の上で白い人影達が揺れる。
一人そしてまた一人、何かを思い出したように顔を上げる。
「迎えに」
誰かが呟いた。
「来るはずだった」
別の誰かが言う。
「待っていたんじゃない」
また別の誰かが言う。
記憶が戻り始めていた。
そして黒い舟が大きく歪んだ。
まるで存在そのものが崩れるように。
「分かった」
俺はその姿を見る。
ようやく正体が分かった。
「あいつは約束を喰らってたんだ」
早苗が息を呑む。
「約束を…?」
「あぁ。待ち続ける気持ち、帰りを信じる気持ち、誰かを想う気持ち、それらが積み重なって生まれた怪異だ」
だから迎えを待つ人達がいる限り消えない。
だから迎えの偽物を作った。
待ち続けてもらうために。
その時、黒い舟の奥に巨大な影が立ち上がった。
今まで舟だと思っていたもの。
違う。
怪異そのものだった。
何百もの黒い人影が集まった姿。
顔が無ければ目も無い。
だが口だけがあった。
異様に大きな口だ。
そして笑っていた。
「護くん」
早苗が呼ぶ。
その声は震えていない。
決意の声だ。
「終わらせましょう」
俺は頷く。
初めてだった。
この怪異に対してどうするべきかが分かった。
倒すんじゃない、思い出させるんだ。
忘れられた約束を。
本当の迎えを。