雨はまだ降っていた。
だが最初に見た時とは違う。
荒々しさはない。
まるで長い話の終わりを待っているような雨だった。
湖上に立つ怪異。
黒い舟。
いや…舟の形をした怪異。
何百もの約束と何百もの想いと何百もの待ち続ける心。
それを喰らいながら存在してきたもの。
巨大な口が開く。
それが笑っている。
まだ。
待て。
もっと待て。
もっと信じろ。
もっと悲しめ。
そんな声が聞こえる気がした。
でも俺はもう見ていなかった。
見ていたのは手の中の紙だった。
雨写しの紙術。
既に裂けている。
本来なら終わった術だ。
しかし今も震えている。
まるでまだ役目が残っているように。
「護くん」
早苗が呼び俺は頷く。
分かっていた。
必要なのは祓いではない
記録だということ。
忘れられた記録。
失われた続き。
俺は裂けた紙を重ねた。
ぴたりと二枚が重なる。
そして雨の中へ差し出した。
雨粒が落ちる。
一滴とまた一滴。
紙の上に文字が浮かんだ。
掠れていた手紙の続き、消えていた最後の部分だ。
俺は読む、静かに一文字ずつ。
『もし私達が帰らなかったら』
『湖の向こうで待つ人達へ』
『迎えに行けなかったことを許してほしい』
『必ず迎えに行くと約束したのに』
『果たせなかった』
そして消えていた最後の言葉。
『だから』
雨が降るり風で湖が揺れる。
白い人影達が振り返る。
『どうか待たないでほしい』
誰も動かない。
『私達を探さないでほしい』
風が吹く。
『生きてほしい』
早苗の目が揺れた。
『私達の分まで』
その言葉を最後に手紙は終わっていた。
長い沈黙。
湖畔に雨音だけが響いた
そして早苗が前へ出る。
風祝として、守矢神社の巫女として。
東風谷早苗として。
「聞こえましたか」
白い人影達へ向かって言う。
「約束は破られていません」
雨が吹く。
早苗の髪が揺れる。
「果たせなかっただけです。皆さんを忘れたわけではありません。迎えに行かなかったわけでもありません。行けなかったんです」
声は強かった。
様に届ける祈りのように。
人へ向ける言葉のように優しかった。
「だから」
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早苗は笑う。
でも少しだけ寂しそうに。
「もう待たなくていいんですよ」
風が吹いた。
その時だった。
白い女が初めて泣いた。
涙が落ちる。
「……ああ……そうだった」
湖を見て遠くを見る。
懐かしいものを見るように。
「待たなくてよかったんだ」
その言葉と共に白い人影達が一人また一人と思い出していく。
待つ理由を。
待たなくていい理由を。
そして笑った。
何十年ぶりか何百年ぶりか。
それは誰にも分からない。
だが確かに笑った。
その時、黒い怪異が叫んだ。
笑いではない声、悲鳴だった。
白い人影達が消えていく。
待つ心が消える。
約束への執着が消える。
怪異を支えていたものが消えていく。
黒い舟が崩れる。
影が崩れ口が消え雨の中へ溶けていく。
最初から存在しなかったように。
最後に残ったのは静かな湖だった。
雨だけが降っている。
それだけだった。
しばらくして早苗が呟く。
「終わりましたね」
「そうだな」
俺は頷いた。
湖を見る。
もう誰もいない。
白い人影も怪異も何も。
でも不思議と寂しくはなかった。
「護くん」
「なんだ」
「雨の日も悪くないですね」
俺は少し考えてそして小さく笑った。
「たまになら、そうだな」
その返事に早苗も笑った。
遠くで雲の切れ間からわずかな光が差していた。
長い雨の終わりを告げるように。
雨の章、終わりです。ありがとうございました。
今回、6月の最初は台風が来ています。
雨風の日、そして風の強い日、安全に過ごしていますか?
そんなリアルタイムな感覚で話を綴りました。
台風や大雨の日、気をつけてお過ごしください
ここまで読んでくれてありがとうございました