夜になっても雨は止まなかった。
校門の向こう。
誰もいない校舎が、街灯の明かりの中にぼんやりと浮かんでいる。
昼間は見慣れた高校。
それなのに夜になるだけで別の場所のように見えた。
「……何回来ても慣れないな」
傘を閉じながら俺は小さく呟く。
「護くん。」
隣で早苗が苦笑した。
「まだ二回目ですよ」
「十分多いぞ」
「そうでしょうか」
「高校生は本来夜の学校なんて来ない」
「それもそうですね」
二人で小さく笑う。
だが笑い声はすぐに静寂へ飲み込まれた。
雨音。
遠くの雷。
そして誰もいないはずの校舎。
「よし、行くか」
「はい」
懐中電灯の光だけを頼りに廊下を進む。
窓ガラスを叩く雨。
時折、風が校舎を揺らす。
「やっぱり…夜の学校って怖いですね」
「今さらか…?」
「昼間とは全然違います」
「怪異が出なくても十分怖い」
「ですね」
そんな会話をしながら。
俺達は二年生の階へ向かう。
そして女子トイレの前。
「……」
「……」
三番目の個室。
閉じられた扉。
誰もいない。
それなのに何かがいる。
そんな感覚だけがあった。
「護くん」
「なんだ」
「なにかいます」
「……」
俺にも分かった。
冷たい。
空気が冷たい。
雨とは違う。
ぞっとするような寒気。
「呼ぶのか?」
「ええ。」
早苗は一歩前へ出る。
「失礼します。」
「……」
「花子さん。いらっしゃいますか?」
返事はない。
静寂。
雨音。
そして…
コン…コン…コン。
個室の中から小さな音。
「……!」
「護くん!」
「ああ。」
誰かいる。
間違いなく。
かすかな声。
「……はい。」
少女の声だった。
「!」
早苗が目を見開く。
「本当に返事しましたよ!」
「そこ感心するところじゃない」
「すみません」
だが声は確かに聞こえた。
「……はい」
震えるような。
小さな声。
「入ってもいいですか?」
早苗が尋ねる。
返事はない。
ゆっくりと三番目の個室の扉が開いた。
そこにいたのは制服姿のおかっぱ頭。
顔を伏せた少女。
両手で何かを抱えている。
「……」
「……」
古い。
今の制服じゃない。
色褪せたスカート。
白い足。
濡れたような黒髪。
そして顔だけが見えない。
「護くん」
「ああ…そうだな」
「この子です」
俺も頷く。
間違いない。
噂のおかっぱ頭。
試験を受けていた少女。
百点の花子さん。
「こんばんは。」
早苗は優しく声をかける。
「私は東風谷早苗。こちらは書本護くん」
「……」
「お名前を聞いても?」
少女は俯いたまま。
答えない。
その代わり。
「……テスト。」
「?」
「テスト…終わった?」
早苗は目を瞬かせた。
「はい。終わりましたよ」
「そう」
「……」
「みんな…終わった」
「……」
「置いていく」
その声は怒りではなくどこか寂しそうだった。
「置いていく。私だけ」
「また一人。」
早苗が小さく息を呑む。
「花子さん」
「……」
「まだ…テスト中なんですか?」
少女は答えなかった。
ただ俯いたままだ。
「百点…百点取らなきゃ……取らなきゃ怒られる」
「……!」
その言葉に俺と早苗は顔を見合わせた。
そして
「早苗」
「はい」
早苗も頷く。
鞄から理科の答案用紙を取り出した。
赤字で書かれた。
100点だ。
「花子さん私理科で百点だったんですよ」
「……」
「見ますか?」
少女の動きが止まった。
噂通りならこれで消える。
そう思った。
だが次の瞬間少女の肩が震えた。
「……違う」
「?」
「違う違う違う違う!!」
バン!!
個室の扉が吹き飛ぶ。
「!!」
初めて俺は少女の顔が見えた。
涙でぐしゃぐしゃになった顔。
真っ赤な目。
そして右手に握られていたもの。
錆びついた家庭科室の包丁だ。
「私は!!百点なんか!!欲しかったんじゃない!!」
「!!」
「怒られたくなかっただけなのに!!」
悲鳴と絶叫。
包丁を握った花子さんが早苗へ向かって飛びかかった。
「早苗!」
間に合わないか。
そう思った。
だが早苗の胸元から白い光が弾けた。
「きゃっ!」
花子さんの身体が吹き飛ぶ。
「……!」
「護くん!」
早苗が目を見開く。
胸元の手帳に挟んでいた一枚の護符。
祖父の筆跡で書かれたそれは真っ二つに裂けながらも確かに早苗を守っていた。
「……助かったな」
「はい……」
「護くん。お守り本当に」
「だから言った」
「『大丈夫』なんて言葉は信用しない」
早苗は破れた護符を大事そうに握り締めた。
「ありがとうございます」
「礼は後だ、今は…」
俺は鞄を下ろした。
「こっちの仕事だ。」
「……!」
花子さんが唸る。
包丁を握ったまま。
涙を流しながら。
「百点……百点……取らなきゃ……怒られる……怒られる……置いていかれる……」
その姿はまるで恐ろしい妖怪というより泣いている子供だった。
「護くん」
「ああ…聞こえてるよ」
怒りじゃない。
恨みでもない。
恐怖だ。
この子はずっと怖がっている。
俺は鞄から木箱を取り出した。
古びた桐箱。
蔵にしまわれていたもの。
「……久しぶりだな」
蓋を開けるとそこには何十枚、百枚近い紙人形。
「これは……」
早苗が息を呑む。
「本当に危ない時だけ使えって言われてたんだ」
一枚。
また一枚。
紙人形を廊下へ放る。
「畏み畏み。」
「紙に宿りし人の形。」
「道を閉ざし。」
「災いを囲め。」
落ちた紙人形が一斉に立ち上がる。
「……!」
花子さんが顔を上げた。
数十体。
数百の紙人形。
逃がさない。
だが傷つけるためではない。
「護くん…!」
「わかってる。祓わないよ」
「ええ。この子…苦しんでます」
「それも分かってる」
花子さんは泣きながら後ずさる。
「嫌。嫌。怒らないで。ごめんなさい。ごめんなさい。追試します。もっと頑張ります。だから置いていかないで」
「……」
その言葉に早苗は悲しそうな顔をした。
「花子さん。」
「……」
「誰も怒ってませんよ」
「嘘。怒る。お母さん怒る。先生怒る。みんな先に行く。私だけ。私だけ。残る」
「……」
「置いていかれる。怖い。怖い。」
その時だった。
花子さんの周囲に雨のように紙切れが舞い始める。
「……?」
「護くん。これは…」
「あぁ…」
記憶だ。
怪異が抱えていた記憶。
紙人形の結界がこの子の過去を映している。
夕暮れ。
誰もいない教室。
一人だけ残る少女。
赤ペン。
追試。
六十二点。
五十八点。
「なんでこんなのも出来ないの!」
「ごめんなさい……」
「また追試か!」
「すみません……」
「みんな終わってるのに!」
「……」
「早くしろ!」
「……」
誰もいない廊下。
家庭科室。
泣きながら座り込む少女。
「頑張ったのに……」
「頑張ったのに……」
「……」
「ごめんなさい。」
「ごめんなさい。」
そして最後に映ったのは。
赤いペンで何度も書き直された。
一枚の答案用紙。
『100』
『100』
『100』
『100』
震えた文字。
誰かの採点ではない。
少女自身が何度も何度も自分で書いていた。
「……!」
早苗が口元を押さえた。
「そんな…花子さん……」
「……」
俺も言葉を失った。
百点が欲しかったんじゃない。
褒められたかったんでもない。
ただ怒られたくなかった。
置いていかれたくなかった。
それだけだった。
「護くん……」
「百点なんか欲しくなかった。ただ一人になりたくなかっただけだったんだ」
雨音が響く。
泣き続ける花子さん。
そして早苗はゆっくりと花子さんの前へ歩き出した。
「早苗?」
「大丈夫です」
「……」
「今度はちゃんとこの子に届く言葉を」
風祝の少女は泣いている怪異の前で優しく膝をついた。