雨音だけが響いていた。
結界を形作る紙人形達。
廊下を舞う、花子さんの記憶。
そして泣き続ける少女。
「ごめんなさい……」
「ごめんなさい……」
「追試します……」
「もっと頑張ります……」
「だから……」
「置いていかないで……」
その姿はもはや怪異ではなかった。
一人。
誰にも助けてもらえなかった。
ただの女の子だった。
「……」
早苗はゆっくりと膝をついた。
包丁を握る花子さんの目線に合わせるように。
「花子さん」
「……」
「花子さん」
「怒らない……?」
震える声。
早苗は優しく微笑んだ。
「怒りません」
「本当?」
「はい。」
「百点……取れなかった……追試も……いっぱい……」
「……」
「みんな先に行っちゃった……」
「私だけ……私だけ……」
「……」
「もう」
早苗は小さく首を振った。
「もうテストは終わっています。」
「……え?」
「終わったんですよ」
「そんな。嘘。まだ。まだ受けなきゃ。受けないと。怒られる」
「大丈夫です怒りません。置いていきません」
「……」
「誰も怒りませんから」
花子さんの目から、大粒の涙が零れた。
「……本当?」
「はい」
「でも百点取れなかった。」
「……」
「百点じゃない。だから。駄目。駄目です。駄目なんです。」
「……」
早苗はゆっくりと首を横に振った。
「そんなことありません」
「?」
「百点じゃなくても追試ばかりでもみんなに追いつけなくても頑張ったことはなくなりません」
「……」
「花子さんあなたは頑張りました。」
「……!」
「頑張りましたよ。だからもう苦しまなくていいんです」
「……あ……あ……」
花子さんの口が震える。
まるで何十年もずっと待っていた言葉をようやく聞いたように。
「頑張った……?」
「はい」
「私……頑張った?」
「はい」
「……」
「怒らない?」
「怒りません」
「置いていかない?」
「置いていきません」
「……」
「一人じゃない?」
「はい」
「一人じゃありません」
その瞬間花子さんの右手から錆びた包丁が落ちた。
「……!」
俺は思わず息を呑む。
花子さんが声を上げて子供のように泣いていた。
「うぁ……うあぁ……怖かった……怖かったよぉ……怒られるの……嫌だった……一人になるの……嫌だった……置いていかれるの……怖かった……」
早苗もまた泣きそうな顔になっていた。
「もう大丈夫ですよ」
「……」
「もう…終わりましたから」
「……」
「全部終わったんです」
そして。
その時だった。
「……早苗。」
「はい」
「これ」
俺は足元に落ちていた一枚の紙を拾った。
花子さんの記憶の中から現れた古い答案用紙。
赤ペンで何度も何度も『100』と書き直された跡が残っている。
「……」
「護くん」
「このままじゃ駄目だな」
俺は鞄から赤ペンを取り出した。
そして答案用紙の余白に祖父の真似をするようにゆっくりと一文字ずつ書いていく。
『よく頑張った』
『お疲れさま』
「……」
「護くん字、下手なんですね」
「うるさいな」
「ふふ」
少し笑う早苗。
その笑い声に花子さんが顔を上げた。
「……」
「花子さん。」
早苗が微笑む。
「護くんからです」
「……」
「受け取ってください」
少女は震える手でその答案用紙を受け取った。
そしてそこに書かれた文字を見てぽろぽろと涙を零しながら。
小さく本当に小さく笑った。
「……うん…ありがとう」
雨音に混じってどこからか優しい風が吹いた。