四月も半ばになると高校生活にも少し慣れてくる。
朝のホームルーム。
授業。
昼休み。
俺――書本護は、窓際の席で黒板をぼんやり見ていた。
「書本くん」
小さな声。
振り向くと、東風谷早苗がノートを持って立っている。
「数学、少し教えてもらってもいいですか?」
「……俺?」
「はい」
早苗は少し恥ずかしそうに笑った。
「理系だって聞いたので」
俺は肩をすくめる。
「まあ、少しなら」
黒板の問題を二人で解く。
早苗は意外と真面目だった。
途中で言う。
「ここ、どうしてそうなるんですか?」
「確率」
「確率?」
「そう」
俺はペンを走らせる。
「起きにくいことが起きるのが奇跡」
早苗がふっと笑う。
「それは面白いですね」
その時だった。
クラスの後ろで誰かが言った。
「なあ、聞いた?」
「四番目の階段」
別の生徒が言う。
「夜の学校で、階段を降りると」
「四段目だけ、増えてるんだって」
早苗が顔を上げた。
「階段?」
俺はため息をつく。
「また怪談か」
生徒が続ける。
「四段目を踏むと」
「誰かに引っ張られるらしい」
「それで怪我した先輩いるって」
早苗は少し考えていた。
その目を見て、俺は言った。
「……行く気か」
早苗は正直に答えた。
「少し」
夜。
学校は暗い。
部活も終わり、校舎にはほとんど人がいない。
廊下の蛍光灯が、ところどころ点いているだけだ。
「静かですね」
早苗が言った。
「夜の学校って、こんな感じなんですね」
そりゃそうだろう。
俺はポケットを触る。
そこには、紙が入っている。
ヒトガタ。
今日は三枚持ってきていた。
「怪談ってさ」
俺は言う。
「だいたい人の思い込みなんだよ」
早苗は階段を見ていた。
「でも思い込みでも集まると、本物になることもありますよね」
俺は答えなかった。
階段の前に立つ。
古い校舎の階段。
コンクリート。
手すりは少し錆びている。
「降りるぞ」
早苗がうなずく。
一段。
二段。
三段。
……四段。
その瞬間だった。
足が引っ張られた。
早苗の体が前に倒れる。
「っ!」
床に落ちるはずだった。
でも――
ふっと何かが挟まった。
紙が破れる音。
俺はすぐに分かった。
ヒトガタ。
早苗が驚いた顔で床を見る。
そこには破れた紙人形が落ちていた。
人の形の和紙。
真ん中が裂けている。
早苗が息をのむ。
「これ……」
俺は言った。
「身代わりになってくれたようだ…書本家の道具。一回だけなら怪我とか守ってくれるらしい」
早苗はしばらくそれを見ていた。
「……ありがとうございます」
その時だった。
階段の下。
何かが立っていた。
黒い影。
人の形。
でも顔がない。
早苗が小さく言う。
「……いますね」
俺はヒトガタを一枚取り出した。
祖父の言葉を思い出す。
祓いは意思。
俺は紙を握る。
「お前この学校の怪談か」
影が一歩近づく。
階段が、きしむ。
早苗が手を合わせる。
「……静かに」
風が吹いた。
校舎の窓がカタカタ鳴る。
そして。
蛍光灯が一つ、点いた。
ぱっと光が落ちる。
階段が明るくなる。
影が揺れた。
俺はその瞬間にヒトガタを投げた。
紙が空中で広がる。
影に触れる。
ばさり。
それだけだった。
影は消えた。
階段は元の階段に戻っていた。
早苗が深く息を吐く。
「終わりましたね」
俺は破れたヒトガタを拾った。
「……一枚無駄にした」
早苗は首を振った。
「無駄じゃないです」
そして少し笑う。
「私を守ってくれましたよ」
廊下を歩く。
夜の学校は静かだ。
外では桜が風に揺れている。
早苗が言った。
「書本くん」
「ん?」
「また怪談、探しますか」
俺は少し考えてから答えた。
「まあ退屈はしない」
早苗は笑った。
「よかった」
窓の外を見る。
夜の空。
遠くに諏訪湖がある。
まだ、静かだ。
でも俺は思う。
怪談や怪異がいる。
そして俺と早苗はきっと――
それを一緒に追いかけるんだろう。
今はまだ、普通の高校生活の中で。