月明かりに照らされたプールは昼間の賑やかさが嘘のように静まり返っていた。
昼間であれば水泳部の掛け声や生徒達の笑い声が響いている場所。
しかし今は風に揺れる木々の音と遠くから聞こえる虫の声しかない。
その静かな水面を一人の少女が泳ぎ続けていた。
いや正確には泳ごうとしていた。
腕を伸ばし水を掻き前へ進もうとしている。
けれどどこかぎこちない。
まるで夢の中で走ろうとしても上手く足が動かないような、そんな不自然さがあった。
「……」
俺の隣で早苗がその姿を見つめていた。
「この子、苦しそうです」
「ああ」
「なんだか……必死そうです」
その声にはいつもの優しい響きに加えて痛みを分け合ってしまったような悲しさが滲んでいた。
少女は何度も前へ進もうとする。
しかししばらくすると力尽きたように溺れて水面に浮かび、また泳ぎ始める。
その繰り返しだ。
まるで何かを終わらせなければならないのに終わらせ方が分からなくなってしまったかのようだった。
「お前は…」
俺はプールサイドから少女へ声をかけた。
「何を探してるんだ」
少女はこちらを見るが返事はない。
ただその瞳の奥には確かな感情があった。
寂しさ。
焦り。
諦めきれない何か。
「泳ぎたいのか」
その言葉に少女の身体が小さく震えた。
俺達の言葉に反応したのは初めてだった
「……」
少女は口を開く。
だが声にはならない。
水面だけが静かに揺れていた。
「護くん」
早苗が小さく俺を呼ぶ。
「どうした?」
「その子、言葉が出ないんじゃありません」
「え?」
「多分思い出せないんです」
「……」
「自分が何をしたかったのか…何を残してきたのか…何を後悔しているのか…それすら分からなくなっている」
早苗は胸の前で手を組みながら悲しそうに少女のいる方向を見つめた。
「でも一つだけ。一つだけ、すごく強く残っているものがあります」
「それは何だ?」
早苗は少し迷ってから答えた。
「水です。それと……悔しさかと」
「悔しさ?」
「はい。」
「それから悲しいというより寂しい。誰かと一緒だった。誰かと笑っていた。そんな記憶もある気がします」
その時だった。
少女の姿が一瞬揺らいだ。
そして。
水の中から顔を上げた少女が、かすかに口を動かした。
「……た……」
「!」
俺は思わず身を乗り出した。
「なんだ?何て言った?」
少女は苦しそうに胸を押さえる。
そして消えそうな声で。
「た……い……」
その一言を絞り出した。
それだけだった。
それ以上は続かない。
けれど隣にいた早苗が、はっとしたように目を見開いた。
「護くん。今……」
早苗の瞳には驚きとそして確信が宿っていた。
「もしかしたらこの子の願い、分かったかもしれません。」
六月の夜風が静かに吹き抜ける。
そしてまだ名前も知らない少女は月明かりに照らされた水の中で再び前へ進もうとしていた。
何かを思い出すように、何かを終わらせるために。
ただひたすらに前へ