風の祝が奇跡を運んでくれることを   作:ミスブルー

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風祝として

 

翌日の放課後。

 

梅雨の雲はまだ空を覆っていたが昨日ほど重苦しい空気ではなかった。

 

昼休みに約束していた通り俺と早苗は水泳部の二年生、三隈真莉先輩と再び顔を合わせていた。

 

場所は中庭のベンチ。

 

六月の終わりらしい湿った風が吹き遠くから運動部の掛け声が聞こえてくる。

 

「それで何か分かった?」

 

三隈先輩は不安そうに俺達を見る。

 

「まだ何とも…」

 

「そうだよね……」

 

「変なこと頼んじゃったかな。」

 

「いいえ別に」

 

俺が答えるより先に、早苗が優しく笑った。

 

「気にしないでください三隈先輩。困っている人を放っておけないのは、素敵なことだと思います」

 

「東風谷さん……」

 

少し照れくさそうに笑う三隈先輩。

 

そんな何気ない空気の中で、ふと先輩は思い出したように口を開いた。

 

「そういえば去年ね、プールで亡くなった子がいたって話を聞いたことがあるの」

 

「……」

 

「……」

 

俺と早苗は顔を見合わせた。

 

「事故だったらしいんだけど私その頃はまだ中学だったし直接知ってるわけじゃないんだ。名前も知らないし、先生達もあんまり話したがらないから噂くらいしか知らないんだけど」

 

「そうですか」

 

「うん」

 

「だから関係ないかもしれない」

 

「でももし何かあるなら可哀想だなって。だって…水泳が好きだったんでしょ?」

 

「……」

 

三隈先輩らしい言葉だ

怖がるより先に、そんな言葉が出てくる。

 

そして俺の隣に座っていた早苗が小さく目を閉じた。

 

「護くん」

 

「ん?」

 

「やっぱりこの子は怒ってなんかいません」

 

「……」

 

「寂しかっただけなんです。」

 

その声は確信に満ちていた。

 

「泳ぐことが好きで一生懸命だった。もっと泳ぎたかった。きっとそれだけなんです」

 

早苗の言葉を聞いた三隈先輩は、不思議そうな顔をする。

 

「東風谷さん、なんかまるで知ってるみたいな言い方だね」

 

「え?あ……その……」

 

早苗は少し慌てていた。

 

「なんとなくです!」

 

「早苗のなんとなくは当たるんですよ」

 

俺がそう言うと、

「なにそれ」

と三隈先輩が笑った。

 

「でもなんか分かるな。悪いものじゃないって感じ」

 

三隈先輩のその言葉に早苗は嬉しそうに頷いた。

 

やっぱりこの人も優しい。

 

見えなくても感じることが出来ている。

だからこそあの少女も近くに現れたのかもしれない。

 

その帰り道、夕焼けに染まり始めた坂道を二人で歩く。

 

「護くん」

 

「なんだ?」

 

「私、なんとかしてあげたいです」

 

「……」

 

「名前も分からない。どんな子だったのかも分からない。でも泳ぎたかったんですよ」

 

「そうみたいだな」

 

「それなら最後くらい楽しく泳いでほしいんです」

 

早苗は立ち止まり空を見上げた。

 

雲の隙間から差し込む夕日がその横顔を照らしている。

 

「神奈子様も諏訪子様も奇跡は人を幸せにするためにあるって、そう仰っていました。だから私は風祝として…この子の願いを叶えてあげたいです」

 

「……」

 

その決意に迷いはなかった。

 

俺はそんな早苗を見て、少し笑った。

 

「早苗」

 

「はい」

 

「俺にはこういうことは出来ない」

 

「……」

 

「だから任せる。でも隣にいるよ」

 

「護くん……」

 

「一人じゃないんだろ?」

 

早苗は少し目を丸くした後、

 

ふふっ。

 

小さく笑った。

 

「はい、一人じゃありません。…あなたがいます」

 

「…。そうだな」

 

そして六月の夕暮れの風が二人の間を優しく吹き抜けていった。

 

その頃、誰もいない夜のプールでは名前も知らない少女が今日も一人、静かに前へ進もうとしていた。

 

ただもう一度だけ泳ぎたいという願いを胸に抱いたまま――。

 

 

 

 

昼間は曇っていた空も夜になる頃には雲が薄くなり月明かりが校舎を優しく照らしていた。

 

昼間の熱気もすっかり落ち着き涼しい風が静かに吹いている。

 

そんな夜、俺と早苗は再び学校のプールを訪れていた。

 

「少し緊張します」

 

プールサイドに立った早苗が少しだけ苦笑する。

 

「神奈子様達はいませんし一人で上手く出来るでしょうか」

 

「いや知らん」

 

「ひどいです」

 

「でも」

 

俺は夜空を見上げる。

 

「早苗は出来るから大丈夫だ。信じてるよ」

 

「はい」

 

早苗は少し照れ臭そうに笑った。

 

「ありがとうございます。」

 

風が吹く。

 

その瞬間、静かな水面が小さく揺れた。

 

そして月明かりの下、少女は今日もいた。

 

誰もいないプールの中、一人きりで何度も何度も前へ進もうとしていた。

 

「護くん」

 

「ああ…いる」

 

「そうですか」

 

早苗はゆっくりとプールサイドへ近づく。

 

感じているその想いを。

 

その寂しさを、その願いを。

 

「こんばんは」

 

優しい声だった。

 

まるで友達に話しかけるような。

 

「今日はあなたに会いに来ました」

 

少女が顔を上げる。

 

その視線が初めて早苗の方を向いた。

 

「護くん」

 

「見えてるよ」

 

すると早苗は小さく微笑んだ。

 

「やっぱり私の声、聞こえていたんですね」

 

「……」

 

「もう一度、泳ぎたかったんですよね」

 

少女の身体が震える。

 

「大会だったんでしょうか、それともみんなと一緒に泳ぐ約束だったんでしょうか。…私は分かりません。あなたのお名前も。どんな人だったのかも知りません。でも泳ぐことが好きだった。それだけは分かります」

 

少女の瞳から涙が零れた。

早苗も少し悲しそうに微笑む。

 

「寂しかったですね。苦しかったですね。一人だったんですね」

 

「……」

 

「もう大丈夫です、今日は一緒にいますから」

 

六月の夜風が吹く。

 

その風は次第に優しくなりプールの水面を静かに撫でていく。

 

俺は思わず息を呑んだ。

早苗の長い緑の髪がふわりと揺れる。

 

御幣が月明かりを受けて白く輝く。

 

けれどそれは戦うための力ではない。

祓うための力でもない。

願いを叶えるための奇跡の力だ。

 

風祝として人と神を繋ぐ少女の力。

 

「神奈子様。諏訪子様…少しだけ、力を貸してください。

この子の願いを叶えてあげるために」

 

その時だった。

優しい風がプール全体を包み込んだ。

少女は驚いたように自分の手を見る。

 

そしてゆっくりと早苗を見る。

 

「……」

 

「行ってきてください。最後まで好きだったことをやりきってください」

 

少女は泣きながら頷いた。

 

そして静かに水の中へ潜る。

 

その姿は今までとは違った。

 

苦しそうではない。

 

焦ってもいない。

 

ただ自由だった。

 

本当に楽しそうに、本当に嬉しそうに月明かりのプールを泳ぐ。

 

一人の少女のその姿を俺と早苗は黙って見守っていた。

しばらくして少女は水面から顔を出した。

 

そして満面の笑みを浮かべる。

 

「護くん」

 

「なんだ?」

 

「……笑ってますね」

 

「そうだな」

 

早苗の声も少し震えていた。

 

少女は今度は早苗を見る。

 

そして小さく

「ありがとう」と、そう口を動かした。

 

夜明け前の空から差し込んだ淡い光の中で少女の身体は無数の光となって風の中へ溶けていった。

 

もう苦しそうな顔はしていなかった

寂しそうでもなかった。

 

最後まで幸せそうに笑っていた。

 

「終わりましたね。」

 

早苗が静かに呟く。

 

「ああ」

 

「……」

 

「護くん、私…ちゃんと風祝らしいこと出来ましたか?」

 

俺は少し笑った。

 

「俺には出来なかった」

 

「だから早苗がいてくれてよかった」

 

「……はい」

 

早苗は少し頬を赤くしながら微笑んだ。

 

「私も護くんがいてくれてよかったです」

 

 

風が二人の間を優しく吹き抜けていった。

 

 

 

翌日…プール掃除をしていた生徒達は首を傾げていた。

 

「なんかプール綺麗じゃない?」

 

「先生、昨日掃除したんですか?」

 

「いや?してないぞ?」

 

「変だなぁ。」

 

そんな声が聞こえる中。

 

三隈真莉先輩は不思議そうに笑っていた。

 

「なんだろ、ありがとうって言われた気がする」

 

その呟きは誰にも届かなかった。

 

けれどきっともう一度だけ泳ぎたかった少女は最後にみんなへ小さなお礼を残していったのだろう。

 

 

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