これはプールに現れる女の子の話が解決する前の話
「今日の放課後、一年全員プール掃除だって。」
「うわぁ……」
「去年、ヤゴいっぱい出たんだよな」
「早く終わらせて帰りたい。」
そんな会話を聞きながら向かいの席の早苗はどこか楽しそうな顔をしていた。
「護くん」
「なんだ」
「プール掃除ですよ。」
「そうだな」
「なんだか夏が近づいてきたって感じがします」
「掃除なのにか?」
「はい」
早苗は嬉しそうに頷く。
「みんなで一緒にやる行事って好きなんです」
「そんなもんか」
「そんなものですよ」
俺は呆れながらも笑ってしまった。
東風谷早苗という奴はこういう何気ないことを楽しめる。
それがこいつの良いところだ。
教室で着替えを済ませた一年生達は体操服姿でプールへ集まっていた。
男子は半袖体操服にハーフパンツ。
女子も同じく体操服姿。
全員が靴を脱ぎ裸足になってプールサイドへ並ぶ。
六月とはいえ日差しは強く白いプールサイドは熱かった。
体育教師の説明が始まる。
「プールの中をブラシで磨く班。」
「プールサイドを磨く班。」
「更衣室とシャワーを掃除する班。」
「始めるぞー」
生徒達から気のない声とやる気のある声が上がる。
そして班分けの結果、俺と早苗は同じプール内担当になった。
「よかったです」
「なにが?」
「護くんと一緒なら楽しいですから」
「そうか。でも掃除だぞ?」
「掃除でもですよ」
そんなことを言いながら早苗は靴下を脱いで裸足になる。
「冷たいですね」
「水があるからな」
プールの底にはまだ少し水が残っており足を入れるとひんやりして気持ちが良かった。
クラスメイト達もブラシやデッキブラシを手に持ちながらそれぞれの持ち場へ散っていく。
「うわ、ぬるぬるする」
「ちゃんと磨けよ」
「お前そこサボるな」
男子達の騒ぐ声。
女子達の笑い声。
そんな賑やかな空気の中で早苗は一生懸命ブラシを動かしていた。
「ここ少し汚れてますね」
「そうだな」
「護くん、もう少し右です」
「はいはい」
「ふふっ」
「なんだよ」
「なんでもありません」
楽しそうだ。
本当に。
汗で額に前髪が張り付いているのに嫌そうな顔一つしない。
その時
「東風谷さん。」
同じ班の女子が声をかけてきた。
「すごいね」
「全然嫌そうじゃない」
「そうですか?」
「普通もっと文句言うよ」
「えぇ?」
「だってみんなで掃除するのって楽しいじゃないですか」
その答えに周りの女子達が笑う。
「東風谷さんらしい」
「なんか癒される」
そんな声を聞きながら俺も少し笑っていた。
しばらくして
「休憩!」
先生の声が響く。
生徒達は思い思いにプールサイドへ腰を下ろしていた。
俺もデッキブラシを置いて座ると早苗が隣へ座った。
「お疲れ様です」
「早苗もお疲れ」
「はい。楽しいですね」
「まだ言うか」
「だって本当に楽しいんです」
風が吹く。
空には夏の青さが少しずつ混じり始めていた。
「こういうの」
早苗が空を見上げながら呟く。
「本当に好きなんです」
「こういうの?」
「みんなと一緒に掃除して…笑って、暑い暑いって言いながら、それで終わったら帰る。なんだか普通の高校生みたいで」
その言葉に俺は少しだけ早苗を見る。
幼い頃から現人神として生きてきたこいつは、「普通」というものに人一倍憧れていた。
だからこそ今、この時間を早苗は誰よりも大切にしているのだろう。
「早苗」
「はい」
「早苗は普通の高校生だ」
「……そうでしょうか」
「あぁ。クラスの奴らと一緒に掃除して友達と笑って、十分普通だ」
すると早苗は少し目を丸くした後、ふわりと笑った。
「そうですね。普通です」
その笑顔は今見ている青空よりもずっと眩しく見えた。
プール掃除も終わり生徒達は達成感に満ちた顔で道具を片付け始めていた。
「終わったー!」
「疲れた!」
「早く帰ろうぜ!」
そんな声が飛び交う中、早苗は綺麗になったプールを見つめながら満足そうに微笑んでいた。
「護くん」
「なんだ」
「夏が来ますね」
「ああ。まだ6月だけどもう少しだな」
「楽しみです」
夕方の優しい風が吹く。
その風に長い緑の髪を揺らしながら東風谷早苗は本当に嬉しそうに笑っていた。
そんな何でもない放課後。
きっと…こういう時間こそ。
奇跡なんて呼ばなくても十分奇跡で幸せなのかもしれなかった。