風の祝が奇跡を運んでくれることを   作:ミスブルー

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長文となります。

今回怪異もありません。
日常会です。
雨です。
最近はずっと雨です。
台風はみんなは大丈夫でしょうか


紫陽花の帰り道

 六月ももう下旬を迎えた。

朝から降り続いている雨は昼を過ぎても勢いを変えることなく校舎の窓を静かに濡らし続け、窓ガラスを伝う無数の雨粒はまるで誰かが筆で細い線を何本も描いているようにゆっくりと流れていく。

 

曇り空のせいで教室には薄暗さが残り、蛍光灯の白い光がいつもより少しだけ強く感じられた。

それでも教室の中には普段と変わらない時間が流れ、先生の授業を受ける声やノートをめくる音、鉛筆を走らせる音だけが静かに響いている。

 

六月の雨は不思議なもので、激しく降っているわけではないのに景色の色を少しだけ落ち着かせる力がある。

窓の外に見える木々は深い緑へと変わり、校庭の土は雨を吸って黒く染まり、水たまりには小さな波紋が途切れることなく広がり続けていた。

 

やがて放課後を告げるチャイムが鳴り、静かだった教室は一気に賑やかになる。

 

「また明日」

「部活行こうぜ」

「雨やまないかな」

 

そんな何気ない声があちこちから聞こえ始め、生徒たちは思い思いに帰り支度を始めていた。

 

俺も教科書を鞄へしまい終えると一度窓の外へ目を向ける。

朝よりも雨脚は少し弱くなったようにも見えるが、傘がなければすぐに濡れてしまうくらいには降り続いている。

 

そのとき教室の入口から柔らかな声が聞こえた。

 

「護くん」

 

振り向くと緑色の長い髪を揺らした早苗が傘を持って立っていた。

 

窓から差し込む淡い光を受けたその姿はどこか雨の日によく似合い、制服の紺色もいつもより落ち着いた色に見える。

 

「ご一緒してもよろしいですか」

 

「ああ、帰ろうか」

 

早苗は嬉しそうに小さく微笑み、俺たちは教室を出て昇降口へ向かった。

廊下には同じように帰宅する生徒たちが行き交い、傘を持ちながら友達と笑い合う姿や部活動へ向かう生徒たちの元気な声が聞こえてくる。

 

そんな賑やかな校舎を歩きながらも、窓の外では雨だけが静かに降り続けていた。

 

昇降口で靴を履き替え、それぞれ傘を開く。

屋根の下から一歩外へ出た瞬間、雨粒が傘を優しく叩く音が耳に広がった。

 

一定の調子で響くその音は騒がしさとは無縁で、むしろ心を落ち着かせるような穏やかさがある。

 

二人並んで歩き始める通学路はいつもと同じ景色のはずなのに、雨が降るだけでまるで違う場所のように見えた。

 

道端の草は雨粒をまとって生き生きと輝き、用水路を流れる水は少しだけ勢いを増し、風が吹くたびに葉の先から雫が静かに落ちていく。俺と早苗は急ぐこともなく、その梅雨の景色を眺めながらゆっくりと歩いていった。

 

雨の日の帰り道は不思議と歩く速度までゆっくりになる。

 

晴れた日なら自転車が次々と追い抜いていく道も今日は人通りが少なく、聞こえてくるのは傘を叩く雨音と遠くを走る車が水たまりを通り過ぎる音くらいだった。

 

空は相変わらず厚い雲に覆われているが、どこか柔らかな明るさがあり、梅雨らしい穏やかな午後の空気が街全体を包んでいる。

 

 俺は足元に広がる小さな水たまりを避けながら歩き、その隣では早苗も制服の裾が濡れないよう少しだけ歩幅を小さくしていた。

傘の先から落ちる雫が一定の間隔で地面を打ち、小さな輪を作ってはすぐに消えていく。

 

その様子を眺めているだけでも時間がゆっくり流れているように感じられた。

 

学校を出て十分ほど歩いた頃だった。

道路脇の歩道に設けられた小さな花壇の前で、早苗がふと足を止める。

 

「護くん」

 

呼ばれて隣へ目を向けると、そこには雨に濡れた紫陽花が静かに咲いていた。

 

 青、紫、薄紅色。

 

同じ花壇に植えられているにもかかわらず、それぞれが違う色をまとい、雨粒を受けて宝石のような輝きを見せている。

 

花びらの先には小さな雫がいくつも残り、風が吹くたびに一粒ずつ静かに落ちていった。

 

早苗は傘を少し持ち上げながら、その紫陽花を優しい目で見つめていた。

 

「……綺麗ですね」

 

その一言には飾り気がなく、本当に心からそう思っていることが伝わってくる。

 

「ああ」

 

俺も自然と立ち止まり花壇へ目を向ける。

 

紫陽花は梅雨の花と言われるだけあって晴れた日に見る姿よりも雨の日の方がどこか生き生きとして見えた。

濡れた葉は深い緑色に輝き、丸く集まった花は曇り空の下でも鮮やかな色を失っていない。

 

「同じ紫陽花なのに、色がこんなにも違うんですね」

 

早苗は少し首を傾げながら護を見る。

 

「何か理由があるのでしょうか」

 

 俺は小さく頷いた。

 

「土の性質が関係してるんだ」

 

「土ですか」

 

「酸性の土だと青っぽくなって、アルカリ性が強いと赤っぽくなる。同じ種類でも植えられてる場所で色が変わるらしい」

 

早苗は再び紫陽花へ視線を戻し、青い花と薄紅色の花を見比べる。

 

「そうだったんですか……知りませんでした」

 

「俺も中学の理科で習ったくらいだけどな」

 

「学校で教わったことが、こうして目の前の景色につながると面白いものですね」

 

 俺は少し笑う。

 

「確かに教科書だけ見てると覚えにくいけど実際に見ると忘れない」

 

「そうですね。実際に見るというのは、とても大切なんですね」

 

 早苗はそう言うと、花びらの上で揺れる雨粒を静かに眺めた。

 

「神社にも紫陽花は咲いていますけれど毎年綺麗だなと思うだけで、どうして色が違うのかまでは考えたことがありませんでした」

 

「案外そんなもんだよ」

 

「でも今日護くんに教えていただいたので来年からは違う見方ができそうです」

 

雨は変わらず静かに降り続けている。

 

紫陽花はその雨を受け入れるように咲き、道行く人たちを何も言わず見送っていた。

 

二人はしばらく言葉を交わさず、その景色を眺め続ける。

梅雨の雨は決して明るいものではない。

それでも、この季節にしか見られない美しさが確かにそこにはあった。

 

俺はそんな景色を隣で静かに見つめる早苗の横顔を見ながら雨の日も悪くないと思えた。

 

紫陽花をあとにして、俺たちは再び歩き始めた。

 

 

雨は相変わらず静かに降り続き、傘を叩く音だけが一定の調子で響いている。

道端を流れる雨水は小さな川のようになり、排水溝へと吸い込まれていく。その何気ない景色を眺めながら歩いていると、さっき交わした会話がふと頭に浮かんだ。

 

「そういえばさ」

 

俺が声を掛けると早苗がこちらを向く。

 

「はい、どうしましたか」

 

「さっき話したリトマス紙だけど知らないのか?中学の理科で習っただろう」

 

早苗の表情がほんの少しだけ曇るのが分かった。

すぐに困ったような笑みを浮かべたものの、その笑顔はどこか無理をしているようにも見えた。

 

「あ……はい。聞いたことはあるんですが…」

 

言葉を続けようとして一度視線を落とす。

雨粒が傘の縁からぽたりと落ち、二人の間に静かな間が流れた。

 

「私、中学校では授業をあまり受けていなくて……」

 

その一言だけだった。

理由は話さない。

けれど、それ以上聞いてはいけないような空気がそこにはあった。

俺は返事をする代わりに小さく息をつく。

 

中学校で授業を受けていなかった。

 

その言葉だけで事情は分からない。

でもこれまで早苗と過ごしてきた時間を思い返すと一つの考えが頭をよぎった。

 

早苗には神様が見えて妖怪も見えて怪異も見える現人神。

もしそれを中学生の頃に誰かへ話してしまっていたら?

信じてもらえなかったかもしれない。

変わった子だと噂されたのかもしれない。

 

それが原因で学校へ行きづらくなってしまったとしても不思議ではない。

 

もちろんこれは俺の想像でしかない。

でも当たらずとも遠からず……そんなところなのかもしれない。

 

考えていると視線を感じ顔を上げると早苗と目が合う。

その瞳はどこか不安そうで、まるで俺の反応を窺っているようだった。

 

俺はその視線を受け止めると、小さく笑って肩をすくめる。

 

「まぁ、いろいろ大変なことはあるからな」

 

その一言に、早苗は少しだけ目を丸くした。

 

俺は続ける。

「でも早苗は頭が理系だから、これくらいなら一回覚えれば簡単に覚えられそうだ」

 

一瞬きょとんとしていた早苗だったが次の瞬間にはいつもの柔らかな笑顔が戻っていた。

 

「もちろんです」

 

そう言って少しだけ胸を張る。

 

「今度はしっかり覚えます」

 

その笑顔を見て俺も自然と笑ってしまった。

 

「その意気だ」

 

雨音の中に、小さな笑い声が重なる。

 

 さっきまで少しだけ重くなっていた空気は、いつの間にか梅雨の雨と一緒に流れていった。

 

二人はまたゆっくりと歩き始める。

 

雨に濡れた紫陽花は変わらず静かに色づきながら、そんな帰り道を優しく見送っていた。

 

しばらく歩くとさっきまで少しだけ重たくなっていた空気はいつの間にか雨音の中へ溶けていた。

 

俺は話題を変えるように空を見上げる。

相変わらず厚い雲が広がっているが雨脚は少しだけ穏やかになり遠くの山々は薄い霧をまとってぼんやりと輪郭を浮かべていた。

梅雨の諏訪には晴れの日とは違う静けさがある。

山も田んぼも町並みも雨を受け入れることで少しだけ柔らかな表情になるようだった。

 

道路沿いに広がる田んぼでは植えられたばかりの稲が風もない水面に真っすぐ並び灰色の空を鏡のように映している。

時折小さな雨粒が水面へ落ちるたび幾重もの波紋が静かに広がっては消えていった。

 

「雨の日の田んぼも綺麗ですね」

 

早苗が足を止めることなく景色へ目を向けながら呟く。

 

「ああ、晴れの日とは全然違うな」

 

「空の色まで映るんですね。まるで空がもう一つあるみたいです」

 

 俺も水田を見つめる。

 

「小さい頃は何とも思わなかったけど、こうして見ると結構いい景色なんだな」

 

「毎日見ている景色ほど、案外気付かないものなのかもしれません」

 

その言葉に俺は小さく頷いた。

 

雨に濡れた電柱、静かに流れる用水路、遠くで鳴く鳥の声、田んぼの畦道に咲く名も知らない花。

普段なら気にも留めない景色が今日はどれも少しだけ違って見える。

 

そのとき用水路の縁で何かがぴょんと跳ねた。

 

「あっ」

 

早苗が小さく声を上げる。

一匹の小さなアマガエルだった。

雨に濡れた草の上へ飛び乗ると、こちらを気にする様子もなく葉の陰へ隠れていく。

 

早苗は思わず笑みを浮かべる。

 

「可愛らしいですね」

 

「梅雨になるとよく見るよ」

 

「諏訪でも昔から蛙は身近な生き物なんです。田んぼへ行けば当たり前のようにいましたし、神社でも雨の日にはよく鳴き声が聞こえていました」

 

「そうなんだ」

 

「小さい頃は少し苦手だったんですけど、見慣れると不思議なもので、鳴き声を聞かないと梅雨らしくないと感じるようになりました」

 

俺は笑う。

 

「それは分かる気がする」

 

再び歩き始める二人の耳へ小さく蛙の鳴き声が聞こえてくる。

 

雨音に紛れるほど控えめなその声はこの季節だけが持つ優しい賑わいのようにも思えた。

 

俺は何気なく周囲を見渡す。

見慣れた帰り道なのに今日は初めて歩く道のような新鮮さがある。それは雨のせいなのか、それとも隣に早苗がいるからなのか自分でもよく分からなかった。

 

田んぼを過ぎると見慣れた分かれ道が見えてくる。

ここから先へ進めば守矢神社へ続く坂道だ。

雨の日は石畳が少し濃い色になり木々から落ちる雫が道のあちこちへ小さな波紋を作っている。

 

「もうすぐですね」

 

早苗が坂の先を見上げながら言う。

俺も視線を向ける。

 

雨に霞む石段の先には守矢神社の鳥居がぼんやりと見えていた。

いつも見慣れているはずなのに梅雨の雨に包まれた神社はどこか違う場所のようにも見える。

静かな空気が辺りを包み込み、雨音だけが木々の間をゆっくり流れていた。

 

坂道を上り始めると道の脇に植えられた紫陽花が再び目に入る。

 

学校の近くで見たものより少し濃い青色をしていて石垣に沿うように並んで咲いている。

その一つ一つが雨粒を受け止めながら静かに季節を彩っていた。

 

「神社の紫陽花も綺麗です」

 

早苗は歩みを緩め小さく微笑む。

 

「さっき見たのとはまた違う色だな」

 

「同じ紫陽花でも場所が違うだけで、こんなにも雰囲気が変わるんですね」

 

「土が違うんだろうな」

 

「きっとそうですね」

 

それ以上言葉は続かなかった。

沈黙になっても気まずさはない。

傘を叩く雨音と木の葉から落ちる雫の音、それだけで十分だった。

石段の手前まで来ると早苗が立ち止まる。

 

「護くん、今日はありがとうございました」

 

「礼を言われるようなことはしてない」

 

「そんなことありません。今日は紫陽花のことも教えていただきましたし、とても楽しい帰り道でした」

 

そう言って早苗は柔らかく笑う。

その笑顔を見ていると、さっきまで少しだけ曇っていた表情が嘘のようだった。

 

「また明日、学校でお会いしましょう」

 

「ああ、また明日」

 

早苗は小さく一礼すると石段を上り始める。

 

雨に濡れた石段を一段ずつゆっくり上っていく後ろ姿を見送り、やがて鳥居の向こうへ消えたところで俺も踵を返した。

 

帰り道を歩きながら、さっき見た紫陽花を思い出す。

雨の日だからこそ見られる景色がある。

 

今日そのことを教えてくれたのは紫陽花だったのか、それとも早苗だったのかは分からない。

ただ一つだけ確かなことは、この何気ない帰り道もきっといつか大切な思い出になるということだった。

早苗の姿が鳥居の向こうへ消えたあとも俺はしばらく石段を見上げていた。

 

雨は静かに降り続いている。

参道の木々から落ちる雫が石段を濡らし境内へ続く道はいつも以上に静かな空気に包まれていた。

 

俺も踵を返し自分の家へ向かって歩き始める。

 

帰り道はさっきまで二人で歩いていたせいか少しだけ静かに感じた。それでも不思議と寂しさはない。

また明日になれば学校で会える。

その当たり前の約束があるだけで十分だった。

 

雨の日はどちらかと言えば好きではなかった。

靴は濡れるし傘も邪魔になる。

空も暗くて出歩く気にはなれない。

 

けれど今日だけは少し違った。

紫陽花を見て雨に濡れた田んぼを眺め、何気ない理科の話をして笑い合う。

そんな何でもない帰り道がこんなにも穏やかな時間になるとは思ってもいなかった。

 

雨だから見られる景色があり雨だから気付けることもある。

そんな当たり前のことを知った気がした。

 

ふと振り返る。

 

守矢神社へ続く石段の脇では青く咲く紫陽花が今も静かに雨を受け止めていた。

その姿は決して華やかではない。

それでもこの季節が来るたび人の足を止めて優しい気持ちにさせてくれる。

 

俺は小さく笑って歩き出す。

明日もまた学校へ行き早苗と他愛もない話をして笑って一緒に帰ろう。

そんな毎日が続けばいいと梅雨の空を見上げながら自然と思っていた。

 

雨音は変わらず町を包み込み帰り道は静かに今日という一日を閉じていく。

 

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