短冊に書けない願い
六月が終わると学校の空気も少しずつ変わり始めた。
梅雨はまだ続いているのに廊下には七夕飾りの話が聞こえ始め、教室の後ろには色紙や折り紙を持ってきた生徒までいる。
もう七月か。
そんなことを考えながら授業を終えた俺は鞄を肩に掛けて教室を出た。
「護くん」
聞き慣れた声に振り向くと早苗がいつものように笑顔で立っていた。
「帰りますか?」
「ああ 早苗もだろ」
「はい でも実は今日は少しだけ忙しいんです」
「何かあるのか」
「来週は七夕ですから 今日は笹を用意するんですよ」
そう言って少し嬉しそうに笑う。
そういえば七月になれば守矢神社でも毎年七夕飾りをしていると前に聞いたことがあった。
「じゃあ手伝うよ」
「本当ですか!助かります」
二人で学校を出ると梅雨らしい湿った風が吹き抜ける。
雨は降っていないが空は灰色で夏がもうすぐそこまで来ていることだけは何となく分かった。
神社へ続く坂道を登っていくと鳥居の向こうから竹が揺れる音が聞こえてきた。
境内へ入ると社務所の横にはまだ葉の青い大きな笹が何本も並べられている。
「思ってたより大きいな」
「今年はたくさん来ても大丈夫なように少し多めに用意したんです」
その横では神奈子が腕を組みながら俺達を見て笑っていた。
「おっ!来たか高校生。今日は力仕事だぞ」
「最初からそのつもりだ」
「そうこなくちゃな」
縁側では諏訪子がお茶を飲みながら足をぶらぶらさせている。
「毎年これを見ると夏が来るなあって思うんだよね」
「まだ梅雨だけどな」
「だからいいんじゃないか 梅雨が終われば夏はあっという間だからね」
早苗は袖を少しまくると一本の笹へ近付いた。
「護くん まずこれを境内まで運びましょう」
「了解」
笹は見た目以上に大きく枝も広がっている。
俺が根元を持ち早苗が途中を支えながらゆっくり運ぶ。
葉が揺れるたびにさらさらと優しい音が境内へ響いた。
「これだけ大きいと願い事もたくさん結べそうだな」
「はい。小さい子は下の方に…大人は上の方に結ぶんです」
「ちゃんと考えてあるんだな」
「毎年やってますから」
そう言って笑う早苗の横顔はどこか誇らしげだった。
神社は怪異が現れた時だけ人を迎える場所じゃない。
季節を迎え、人の願いを受け取って誰かが笑顔で帰っていく場所でもある。
俺はそんな当たり前のことを改めて感じながら笹をゆっくりと立て掛けた。
笹を運び終えると早苗は額の汗を袖で軽く拭いてから社務所の障子を開けた。
中へ入ると机いっぱいに色紙や折り紙が積まれていて赤や青、黄色に緑、桃色や白まで色とりどりの紙が並んでいる。
七夕が近いことをこれほど実感できる景色もなかなかない。
「すごい量だな」
「これでも全部じゃないですよ」
早苗はそう言って部屋の隅を指差した。
そこにはまだ束になった色紙が何十枚も重ねられていた。
「こんなに使うのか」
「はい 毎年足りなくなるんです」
「そんなに参拝する人が来るとは思わなかった」
「七夕って不思議なんですよね。初詣みたいに大勢というわけではありませんけど、小さい子からお年寄りまで本当にいろんな方が来てくださるんです」
早苗は紙を一枚手に取ると机へ座った。
「まずは短冊を作りましょう」
俺も向かいへ座り定規と裁断用の板を受け取る。
「線は引いてありますからこの通りに切れば大丈夫ですよ」
「思ったより地道な作業なんだな」
「神社のお仕事はこういう地味なことも多いですよ」
そう言って笑う早苗の手は慣れたもので迷いなく紙を切り分けていく。
俺も真似して切り始めるが幅が少し曲がってしまう
「……難しいな」
「護くん 少し右へずれましたね」
「分かるのか」
「分かりますよ」
「早苗は細かいところまで見てるな」
「こういうのは慣れです」
そう言うと俺が切った短冊をそっと整え見本と並べた。
「ほら 少しだけですよ」
「少しなら助かった」
「十分使えますから安心してください」
その言葉に少し肩の力が抜けた。
紙を切る音だけが部屋へ静かに響く。
外では風が笹を揺らし葉擦れの音が聞こえてくる。
どちらも派手な音ではない。
それでも神社らしい落ち着いた時間が流れていた。
しばらくして俺はふと聞いてみた。
「毎年どんな願い事が多いんだ」
早苗は少し考えてから笑顔になった。
「やっぱり子ども達は将来の夢ですね サッカー選手になりたいとか ケーキ屋さんになりたいとか そういう願いが多いです」
「なるほど」
「高校生くらいになると部活や受験ですね。あとは恋愛も結構あります」
「恋愛か」
「ふふっ 恥ずかしいですけどありますよ」
「神様も大変だな」
「そうですねでも私は読むたびに嬉しくなるんです」
「どうしてだ」
「皆さんが前を向いて願っている証拠ですから」
その言葉は早苗らしいと思った。
願い事は叶うかどうかだけじゃない。
願うということは明日を信じているということなんだろう。
早苗は一枚の白い短冊を見つめながら静かに続けた。
「去年ですね。こういう短冊があったんです」
「どんな願いだった」
「孫が元気に一年過ごせますようにって」
「それだけか」
「はい。それだけでした」
派手な願いじゃない。
けれどその短い言葉には家族を思う気持ちがたくさん詰まっていたのだろう。
「別の年には毎年同じ願いを書いてくださる方もいました」
「毎年同じ願い…」
「家族みんなが健康でありますようにって」
俺は切り終えた短冊を揃えながら小さく頷いた。
願いは人それぞれ違う。
それでも誰かを思う願いは案外多いのかもしれない。
気付けば机の上には色とりどりの短冊が山になっていた
まだまだ作業は終わらない。
それでも不思議と退屈ではなかった。
早苗と並んで静かな時間を過ごしているだけで神社にはもう七夕が少しずつ近付いてきているような気がした。
気が付けば机の上には切り揃えた短冊が何百枚と積み重なっていた 早苗は満足そうに頷くと一度大きく伸びをした。
「これで短冊は大丈夫ですね」
「思った以上に時間が掛かったな」
「毎年こんな感じですよ」
「これだけでも神社の仕事って大変なんだな」
「まだありますよ」
そう言って早苗が棚から大きな箱を持ってきた。
蓋を開けると中には色鮮やかな折り紙がぎっしり詰まっている。
「今度は飾りです」
「まだあるのか」
「七夕は短冊だけじゃ少し寂しいですから」
早苗は慣れた手付きで一枚の折り紙を折り始める。
「ああ…小さい時にやったような」
「覚えてますか」
「いや、全然覚えてないな」
「それじゃ今日は思い出してもらいます」
そう言って笑う早苗は赤い折り紙を細く切り始めた。
「まずは輪飾りです 同じ幅に切ってください」
「さっき短冊を切ったばかりなのにまた切るのか」
「今日は切る日ですね」
「間違いないな」
俺も鋏を手に取って折り紙を切っていく。
短冊より小さい分だけこちらの方が気楽だった。
「それを輪っかにしてください」
「こうか」
「はい のりを少しだけ」
一つ輪が出来て、その中へまた一つ通す。
さらにもう一つ。
「これの繰り返しか」
「そうです」
「地味だな」
「でも長くなると綺麗ですよ」
半信半疑のまま続けていくと少しずつ輪が増えていく。
気付けば机から垂れ下がるくらい長くなっていた。
「おお」
「でしょう」
「思ったより七夕らしいな」
「一本だけじゃありませんよ」
「まだ作るのか」
「もちろんです」
俺は思わず苦笑した。
神社の行事というのは思っていたより準備に時間を掛けるものらしい。
今度は吹き流しだった
折り紙を筒にして下へ細く切れ込みを入れる。
早苗は迷いなく作っていくが俺の方は切れ込みが途中で曲がってしまった。
「あっ」
「護くん惜しいです」
「惜しいで済むかこれ」
「大丈夫です。飾れば分かりません」
「本当か」
「本当です」
笑いながら言われると不思議とそんな気がしてくる。
その様子を縁側から眺めていた諏訪子がくすりと笑った。
「祓い屋って意外と手先は普通なんだね」
「普通で悪かったな」
「妖怪退治も普通ということで」
「ほっとけ」
「紙使いと聞いたがそれもそうか」
神奈子も湯飲みを片手にこちらを見る。
「早苗は昔からこういうのだけは得意だったな」
「小さい頃から毎年やってましたから」
「最初は輪飾りが全部ばらばらになって泣いてたのにな」
「神奈子さま…」
少しだけ困ったように早苗が声を上げる。
「そんなこともありましたね…」
諏訪子まで笑い始める。
「糊が乾く前に持ち上げて全部外れちゃったんだよね」
「もう覚えてないと思ってたのに!」
「覚えてるよ。ここで過ごしたことは大体ね」
その言葉に早苗は少し照れたように笑いながら新しい折り紙を手に取った。
俺はそんな三人のやり取りを見て自然と笑っていた。
神様と巫女、普通なら少し近寄りがたい関係なのかもしれない。
でも守矢神社では違う。
家族が昔話をして笑っているような、ごく当たり前の時間が流れている。
その輪の中に俺も自然といることが いつの間にか当たり前になっていた。