輪飾りや吹き流しが少しずつ出来上がると机の上はさっきまでとはまるで違う景色になっていた。
赤や青、黄色に緑、色とりどりの飾りが並ぶだけで部屋の中まで明るくなったような気がする。
「これだけあると七夕らしくなってきたな」
俺がそう言うと早苗は嬉しそうに頷いた。
「まだ飾っていないのにそう思っていただけるならよかったです」
「毎年これを全部作ってるんだろ」
「はい。一度に全部は大変なので少しずつです」
「神社の行事って当日より準備の方が忙しいんだな」
「そうですね。お祭りもお正月も皆さんが来られる前に準備がほとんど終わっていますから」
言われてみればその通りだった。
参拝する側は完成した景色しか見ない。
鳥居も境内も飾り付けも最初からそこにあるものだと思っていた。
けれど誰かが時間を掛けて準備しているからこそ、あの景色がある。
それを改めて知ると少しだけ見え方が変わる気がした。
「護くん次は星飾りを作りましょう」
「星か」
「七夕ですから」
早苗は黄色い折り紙を手に取り器用に折り始める。
何度か折って鋏を入れ 開くと綺麗な星の形になった。
「おお」
「簡単ですよ」
「今のどこが簡単なんだ」
「見ていてください」
早苗はもう一度ゆっくり折りながら一つ一つ説明してくれる。
俺も真似をするが最後に開くと星というより見慣れない形になってしまった。
「これは失敗だな」
「ふふっ お花みたいですね」
「慰めになってないぞ」
「でも可愛いですよ」
そう言って笑う早苗につられて俺も苦笑する。
もう一度折り直す。
今度は慎重に線を合わせて鋏を入れる
ゆっくり開くと今度はちゃんと星になっていた。
「出来た」
「はい。上手です」
「褒められると少し嬉しいな」
「ちゃんと出来ましたから」
その一言だけで少し報われた気がした。
いつの間にか日差しは西へ傾き障子から差し込む光も柔らかくなっている。
外では蝉が一匹だけ鳴き始めていた。
まだ本格的な夏ではない。
それでも夏はもうすぐそこまで来ている。
俺は出来上がった飾りを眺めながら呟いた。
「七夕って当日のことしか考えたことなかったな」
早苗は飾りを一つ手に取り優しく微笑む。
「私も小さい頃はそうでした」
「そうなのか」
「お願い事を書いて飾って終わりだと思っていました。でも神社のお手伝いをするようになってから分かったんです」
そう言って窓の外に立てられた笹へ目を向ける。
「七夕は願い事を書く日じゃなくて…誰かの願いを迎える日でもあるんですよ」
その言葉は静かだった。
けれど俺の胸には不思議と強く残った。
誰かが願いを書く前に笹を用意して短冊を切って飾りを作る。
そんな人がいるから願いを書ける。
当たり前だと思っていた七夕にも誰かの見えない時間が積み重なっていた。
風が一つ吹き抜ける。
笹の葉がさらさらと揺れ、飾る前の枝が夕暮れの空へ静かに伸びていた。
早苗はその音を聞きながら小さく笑う。
「私はこの時間が好きなんです」
「準備してる時間か」
「はい。まだ願い事は一つも結ばれていないのに、これからどんな願いが集まるんだろうって考えると少し楽しみになるんです」
俺はもう一度笹を見上げた。
まだ何も結ばれていない青い枝が風に揺れている。
けれどその枝にはこれからたくさんの願いが結ばれる。
子どもの夢も家族への願いも誰にも言えない小さな願いも全部受け止めるために 今日この笹はここに立っている。
そんなことを考えながら俺は静かに息をついた。
七夕はまだ少し先だ。
それでも守矢神社にはもう夏が訪れ始めていた。
しばらく笹を眺めていると早苗が立ち上がり出来上がった飾りを大事そうに箱へ入れ始めた。
まだ飾るには少し早いらしく当日まで折れたり濡れたりしないよう社務所で保管しておくという。
俺も輪飾りを崩さないよう両手で持ち上げ箱へ並べていく。
「意外と壊れやすいんだな」
「はい 一つ外れると全部ほどけてしまいますから」
「作るのは時間が掛かるのに壊れるのは一瞬か」
「だから大事に扱うんです」
そう言って箱の蓋を閉める早苗の手つきはどこか優しかった。
外へ出ると夕方の風が境内をゆっくり吹き抜ける。
笹の葉がさらさらと鳴り今日一日で何度聞いたか分からないその音が妙に心地よかった。
神奈子は空を見上げながら腕を組む。
「今年も晴れてくれるといいんだがな」
「梅雨ですから難しいかもしれませんね」
早苗が少し残念そうに答える。
「雨でも願いは届くさ」
神奈子はそう言って笑った。
すると諏訪子が縁側からひょいと降りてきて笹の周りを歩き始める。
「昔から七夕の日は晴れてほしいってお願いする人が多いんだよね」
「織姫と彦星か」
俺が尋ねると諏訪子は頷いた。
「それもあるし星が見たい人も多いからね」
「早苗も小さい頃は天の川を見るのを楽しみにしてましたよ」
神奈子が何気なくそう言うと早苗は少し恥ずかしそうに笑った。
「毎年見えるかなって空を見上げてました」
「見えたのか」
「見えた年もありましたし雲で見えなかった年もありました」
「それでも毎年見るのか」
「はい。七夕ですから」
その言葉はとても早苗らしかった。
見えるかどうかじゃない。
見上げることに意味がある
そんなふうに聞こえた。
俺はもう一度笹へ目を向ける。
まだ飾りも短冊も付いていない。
青い葉だけが風に揺れている。
それなのにもう七夕の景色が目の前にあるような気がした。
その時だった。
「護くん」
早苗が社務所へ戻ると何かを持って戻ってきた。
手の中には一枚の白い短冊がある。
「はい」
俺へ差し出されたそれを受け取る。
「まだ飾るには早いですけど持っていてください」
「俺にか」
「はい」
「今書くのか」
そう聞くと早苗は首を横に振った。
「急いで書かなくても大丈夫です。七夕までまだ時間がありますから」
白い短冊は何も書かれていない。
ただそれだけなのに不思議と重みを感じた。
願いを書く紙だからなのかもしれない。
「護くんならどんなお願いを書くのかなって少し気になります」
「そんなにすぐ思い付くものじゃないだろ」
「そうですね」
早苗はそう言って小さく笑うと今度は自分の短冊も一枚取り出した
けれど筆を持つことはなかった。
白い短冊を見つめたまま少しだけ考え込んでいる。
「早苗は書かないのか」
俺が尋ねると早苗は困ったように笑った。
「毎年少しだけ悩むんです」
「何を書くかか?」
「それもありますけど私は皆さんの願いをお預かりする立場ですから」
その言葉を聞いて俺は少しだけ考えた。
「願いを預かる人だからって自分が願っちゃいけない理由にはならないよ」
早苗は驚いたように俺を見る。
しばらく何も言わなかったがやがてふっと力が抜けたように笑っ た。
「そうですね」
その笑顔は今日一番自然だった。
「もう少し考えてみます」
「俺もそうする」
二人とも白い短冊を手にしたまま空を見上げる。
笹はまだ何も結ばれていない。
願いもまだ書かれていない。
それでも風だけは少し嬉しそうに青い葉を揺らしていた。
白い短冊を鞄へしまうと何となくそれだけで大事な物を預かったような気持ちになった。
ただの紙一枚のはずなのに願いを書くための紙だと思うと不思議と折り曲げたくはなかった。
「護くん」
「ん?」
「よかったら明日も少しだけ手伝っていただけませんか」
「まだ何かあるのか」
「ありますよ」
早苗は楽しそうに笑う。
「境内へ飾りを付けたり短冊を置く台を準備したり、まだまだやることはたくさんあります」
「神社って一年中こんな感じなのか」
「季節ごとに行事がありますから気が付くと毎月何かしてますね」
「休む暇がないな」
「でも嫌いじゃないんです」
その言葉には迷いがなかった。
早苗は昔からこうやって季節を迎えてきたのだろう。
春には桜を見て夏には七夕を迎えて秋には紅葉を眺めて冬になれば初詣の準備をする。
普通の高校生として学校へ通いながら神社では風祝として一年を過ごしている。
そのどちらも早苗にとっては大切な日常だった。
神奈子が立ち上がりゆっくりと境内を見渡す。
「今日はこのくらいにしておくか」
「そうですね」
早苗も頷いた。
空を見ると西の雲が少しだけ赤く染まり始めている。
梅雨の空は厚い雲に覆われていたが雲の隙間から夕日が差し込み境内を柔らかな色へ変えていた。
鳥居も拝殿も笹も全部同じ色に染まっている。
「綺麗ですね」
早苗が小さく呟く。
「あぁ」
俺はそれ以上言葉は出なかった。
景色を前にすると無理に何かを話す必要もなく、ただ並んで見ているだけで十分だった。
風が吹き笹の葉が揺れる。
葉擦れの音に混じってどこからか蝉の鳴き声が聞こえてきた
今年最初に聞く夏の声だった。
「もう蝉か…?」
「夏が近いですね」
「まだ梅雨なのにな」
「でも季節はちゃんと進んでるんですよ」
早苗はそう言いながら石段の向こうへ目を向けた。
「もうすぐ子ども達が来ます」
「明日か」
「はい 学校帰りに寄ってくれる子もいますし、ご家族で来られる方もいます」
「楽しみにしてるんだな」
「もちろんです」
その返事はとても嬉しそうだった。
誰かの願いを受け取ることが早苗は好きなのだ。
叶えると約束するわけではない。
それでも願いを書く人の気持ちに寄り添って神前へ届ける。
その役目を心から大切にしていることが伝わってきた。
俺は鳥居の外へ続く石段を見下ろした。
明日になればあの階段を小さな子ども達が登ってくる。
願い事を考えながら家族と笑って来る子もいるだろう。
少し照れながら短冊を書く中学生もいるかもしれない。
受験を控えた高校生もいるだろう。
その一人一人の願いがこの笹へ結ばれていく。
そう思うとまだ何も飾られていない笹が少しだけ違って見えた。
願いはまだない。
けれど願いを待つ時間もまた七夕の一部なのだと そんなことを俺はこの守矢神社で初めて知った。
「護くん」
「どうした」
「今日はありがとうございました」
早苗はそう言って頭を下げた。
俺は少し照れくさくなって笑う。
「礼を言われるほどのことじゃない」
「それでもです。一人だったら今日中には終わりませんでしたから」
「明日も来るよ」
その一言に早苗はぱっと表情を明るくした。
「はい お待ちしてます」
夕暮れの境内を後にして石段を下り始める。
振り返ると鳥居の向こうで早苗が小さく手を振っていた。
俺も軽く手を上げて応える。
七夕まではまだ数日ある。
けれど守矢神社ではもう静かに夏が始まっていた。