七月七日。
朝から空は厚い雲に覆われていた。
夜のうちに降った雨はまだ境内の石畳を濡らし笹の葉には小さな雫がいくつも残っている。
風が吹くたびに葉が揺れ雨粒が静かに地面へ落ちていった。
「やっぱり降りましたね…」
早苗は空を見上げながら少しだけ苦笑した。
「神奈子さまの予想が当たってしまいました」
「本当に当たるとは思わなかったな…」
「本人は朝から大笑いしてましたよ」
思わず笑ってしまう。
神奈子らしいと言えば神奈子らしいか。
「でも雨も少し弱くなってきました」
早苗の言う通りさっきまで降っていた雨はいつの間にか止み空は少しずつ明るさを取り戻し始めていた。
厚い雲の切れ間から柔らかな光が境内へ差し込む。
晴れとは言えない。
それでも今日は七夕なんだ。
俺は神社へ集まってくる人達を迎えるため鳥居の近くへ立った。
朝から少しずつ参拝客が訪れ始める。
小さな子どもを連れた家族。
買い物帰りのお年寄り。
制服姿の中学生。
仕事帰りに立ち寄ったのだろうスーツ姿の人までいた。
社務所では早苗が短冊を手渡し一人一人へ優しく声を掛けている。
「ごゆっくりどうぞ」。
「ありがとうございます」。
その笑顔は学校で見るものとも少し違っていた。
風祝として人々を迎える東風谷早苗の笑顔だった。
子ども達は短冊を受け取ると笹の前へ駆けていく。
「何を書こうかな」
「お父さん見ないでね」
そんな声が聞こえてきて思わず頬が緩んだ。
願い事を書く時間は誰にとっても少しだけ特別らしい。
昼を過ぎる頃には笹もすっかり賑やかになっていた。
何もなかった青い枝には色とりどりの短冊が結ばれ吹き流しや輪飾りも風に揺れている。
数日前まで俺達が作っていた飾りだ。
「護くん」
早苗がこちらへ歩いてくる。
「少し休憩しませんか」
「ああ」
縁側へ腰を下ろすと諏訪子がお茶を差し出してくれた。
「はい祓い屋、お疲れさま」
「ありがとうございます」
一口飲むと温かいお茶が体へ染み渡る。
「いっぱい来てくれたね」
諏訪子は境内を眺めながら嬉しそうに笑った。
「皆さん楽しそうです」
早苗も優しく微笑む。
その時、神奈子が空を見上げた。
「ほらな」
俺も空を見る。
雨雲はまだ残っている。
それでも西の方から白い雲が少しずつ流れ込み青空が小さく顔を見せていた。
「雨のち曇りか」
「七夕らしい空ですね」
早苗が静かに呟く。
快晴ではない。
だからこそこれこそ七夕だった。
夕方になると参拝客も少し落ち着き境内には穏やかな時間が流れ始める。
風が吹き短冊が一斉に揺れる。
さらさらという音だけが静かに響いた。
俺は鞄から一枚の白い短冊を取り出す。
あの日早苗から渡されたまま大事にしまっていた短冊だった。
「護くん」
隣を見ると早苗も同じように白い短冊を持っている。
二人とも自然と顔を見合わせた。
「書けましたか」
「なんとかな」
「私もなんとかですよ」
それだけ言って二人とも小さく笑う。
神奈子と諏訪子は何も言わず少し離れた場所からこちらを見守っていた。
筆を持つ。
願いを書く。
書き終えるまでほんの数分だったはずなのに妙に長く感じた。
願いを書き終えると静かに立ち上がり笹の前へ向かう。
色とりどりの短冊の中へそれぞれの願いを結ぶ。
二枚の短冊も他の願いと一緒に静かに風が揺らす。
「何を書いたんですか」
早苗が少しだけ悪戯っぽく笑った。
「俺か?そうだな…秘密だよ」
「そうですか」
「早苗は?」
「私ですか?そうですねー…私も秘密です」
また二人で笑う。
願いは誰かへ話すものもある。
胸の中へしまっておく願いもある。
それでいいのだと思った。
空を見上げると厚い雲はまだ残っていた。
それでも雲の切れ間には淡い光が差し込みどこか高い空の向こうには織姫と彦星がいるのかもしれないと思えた。
見えるかどうかではない。
今年も七夕を迎えられたこと。
そして大切な人達と同じ景色を見られたこと。
それだけで十分なんだ。
笹の葉がさらさらと揺れる。
その音はまるでたくさんの願いを優しく空へ届けているように聞こえた
ここまで読んでくれてありがとうございました。
七夕の章はここまでです。
今回は七夕の回、当初は神社だけで終わる…という展開を考えていましたが長野の末広商店街で今年で最後の七夕祭りが行われると知り2人を商店街で参加させることを考えました。
2人をどうやってこの商店街に連れて行こうかと考えたところでそういえば多々良小傘がいたなと思い小傘に出演してもらいました。
改めてここまで読んでくれてありがとうございました。
まだまだ続きます。