七夕が終わると諏訪の町は少しだけ静かになった。
商店街を彩っていた笹飾りは少しずつ片付けられて、あれほど賑わっていた祭りの声も遠い昨日の出来事のように思えてくる。
それでも夏は足を止めることなく山々を深い緑へ染め上げて空は高く日差しは日に日に強くなっていた。
守矢神社でも夏を迎える支度が進んでいた。
境内の軒先には大小さまざまな風鈴が吊るされ、ガラスや陶器の涼しげな音色が風に乗って境内いっぱいへ響いている。
参拝客の中には立ち止まって耳を澄ませる人も少なくない。
風鈴の音というのは不思議なものだ。
暑い日差しの中にいても、あの音を聞くだけでほんの少しだけ涼しく感じる
「やっぱり夏は風鈴ですよね」
早苗が一つの風鈴を見上げながら微笑んだ
風が吹く。
澄み切った風鈴の音色が青空へ溶けていく。
「こういう音を聞いていると 夏が来たんだなって思うんです」
「確かにな」
俺も隣で風鈴を見上げた。
同じように見えても音色は少しずつ違う。
高く澄んだ音。
優しく響く音。
どれも耳に心地よかった
「護くんはどの音が好きですか」
「そうだな……さっき鳴ったやつかな」
「ふふ、私もあの音が好きなんです」
その笑顔を見ているだけで、この神社には夏がよく似合うと思えた
そんな時だった。
石段をゆっくりと上ってくる見慣れた姿があった。
近所に住むおばあさんだ。
毎日のように神社へ参拝に来ている人で早苗とも顔なじみだった
「あら早苗ちゃん少しいいかい」
「こんにちは。どうされましたか」
「実はね…少し変なことがあってねぇ」
「変なことですか…」
おばあさんは境内を見渡して一本の青い風鈴を指差した。
「あの風鈴なんだけどね?毎朝場所が変わってるんだよ」
「場所が変わっているんですか」
「そうなんだよ。誰かが動かしてるのかと思ったけど夜は神社に誰もいないだろう」
俺は思わず風鈴を見上げた。
どこにでもある普通の風鈴にしか見えない。
「昨日はあそこだったんだよ。今日はこっちになってる」
確かに言われてみれば吊るされている位置が少し不自然にも思えるな。
「護くんはどう思いますか」
「誰かのいたずら……か?」
「そうならいいんですけど」
早苗は青い風鈴をじっと見つめたまま動かなかった。
その表情は少しだけ真剣だった。
「何か分かるのか」
「……少しだけ変なんです」
「変って?」
「神様の気配ではありません。でもそれだけでは説明できない気配を感じるんです」
俺も風鈴へ目を向ける。
もちろん俺には何も感じない。
ただ風鈴が静かに揺れているだけだった。
おばあさんは二人の様子を見て少し安心したように笑った。
「早苗ちゃんがそう言うなら何かあるのかもしれないね」
「私もまだ分かりませんけど…少し調べてみますね」
「ありがとうね」
おばあさんはそう言って石段を下りていった。
境内には再び風鈴の音だけが響く。
夏の風はいつもと変わらず吹いている。
それなのにあの青い風鈴だけがどこか寂しそうな音を鳴らしているような気がしてならなかった。
昼過ぎになると日差しはさらに強くなり石畳から立ち上る熱気が夏の訪れを知らせていた それでも境内を吹き抜ける風は心地よく軒先に吊るされた風鈴は涼やかな音色を響かせ続けている。
ちりんと、その音に誘われるように参拝客が足を止め 「綺麗な音ですね」「夏らしいですね」と笑顔を浮かべながら境内を見上げていた。
俺は社務所の前を掃き掃除しながらそんな光景を眺めていた。
「今年は例年より風鈴が多いんだな」
「はい、去年より少し増やしてみたんです。暑い中で参拝に来てくださる方に少しでも涼しい気持ちになっていただけたらと思いまして」
そう言って早苗は嬉しそうに風鈴を見上げる。
その時 石段を上ってきた近所の女性が社務所の前で立ち止まった。
「あの……東風谷さん少しいいですか」
「どうされましたか」
「変なことを言うようなんですけど、この風鈴の中に毎朝場所が変わっているものがありますよね」
早苗は少し驚いたように女性を見る
「場所が変わっている……ですか」
「ええ、最初は私の見間違いかと思ったんですけど…毎朝お参りに来ているので覚えているんです。あの青い風鈴だけ昨日と違う場所に吊るされているんですよ」
俺は女性が指差した先を見る。
先ほどおばあさんが話していた風鈴のことだろうか。
そこには青いガラス細工の風鈴が風に揺れていた。
見たところやはり何の変哲もない風鈴だ。
「誰かが動かしているとかじゃなく?」
俺がそう言うと女性は首を横に振った
「私もそう思ったんです。でも朝一番に来てももう場所が変わっているんですよ」
その話を聞いていた別の参拝客も会話へ加わる
「ああ…私も見ましたよ」
「昨日は鳥居の近くだった気がします」
「今日は社務所の前ですよね」
「誰かのいたずらでしょうか」
次々と同じような話が聞こえてきた。
思い違いではないらしい。
俺はもう一度青い風鈴へ目を向ける。
確かに目立つ場所へ吊るされているが普通の風鈴にしか見えない
「護くんはどう思いますか」
「ここまで話があると気にはなるな…」
早苗は風鈴を見つめたまま小さく頷く。
「そうですね」
「早苗は何か感じるのか」
「どう言えば…でも説明できない何かを感じるんです」
その言葉を聞いて俺も風鈴を見つめる。
一陣の風が吹き 境内中の風鈴が一斉に鳴った。
だが青い風鈴だけは少し遅れて静かに音を響かせた。
その澄んだ音が耳に残りまるで誰かが助けを求めているような気がして俺は無意識に風鈴から目を離せなくなっていた。
その日の夕方、参拝客が帰り神社にも静けさが戻ってきた。
茜色だった空はゆっくりと群青色へ変わり山の稜線には一つまた一つと星が姿を現し始める。
昼間の暑さも夜になると少しだけ和らぎ境内には涼しい空気が流れていた
社務所の戸締まりを終えた早苗が俺の方を振り返る。
「護くん そろそろ行きましょうか」
「ああ」
二人は提灯を手に境内を歩き始めた。
昼間は賑やかだった風鈴も夜になるとどこか違う表情を見せる。
風が吹けば澄んだ音を響かせるはずなのに今夜は葉一枚揺れていなかった
虫の鳴き声だけが静かな山へ吸い込まれていく。
「風が止みましたね」
「こんなに静かな夜も珍しいな」
早苗は境内をゆっくり見回していた。
その表情は昼間よりも真剣だった。
「昼間に感じた気配まだ消えていません」
「どこにいる」
「分かりません…でも近くにいます」
俺は辺りへ視線を巡らせる。
石灯籠の影に手水舎に社務所。
どこにも人影はない。
その時だった。
静寂を破るように一つだけ風鈴が鳴った。
俺は思わず顔を上げる。
「あれだ」
青い風鈴だった。
境内中の風鈴は微動だにしていない。
それなのに青い風鈴だけがゆっくりと揺れている。
「無風なのに……」
「やっぱり風ではありません」
早苗は小さく息を呑んだ。
青い風鈴は再び短く鳴る。
そして誰も触れていないはずなのにゆっくりと隣の柱へ近づいていく。
吊るされたまま少しずつ少しずつ場所を変えていくその姿はまるで誰かが大切そうに持って歩いているようだった。
「追いかけよう」
俺が駆け出すと早苗も静かに頷いた。
「はい」
風鈴は急ぐことなく境内をゆっくり進んでいく。
まるで後ろを振り返りながら「こちらです」と導いているようだった
鳥居の前を過ぎ石灯籠の横を通り古い杉の木の下まで来ると一度だけ止まる。
音が鳴り夜空へ溶けていく。
「誰かいますか」
早苗が静かに問いかけるが返事はない。
だが空気だけが少し震えたような気がした
「護くん」
「どうした」
「悲しいです」
「悲しい……」
「ずっと何かを探しています。でも見つからないまま何年も何年も歩き続けているそんな想いが伝わってきます」
その言葉を聞いた瞬間、青い風鈴はもう一度だけ澄んだ音を鳴らし 今度は神社の奥、昔から人がほとんど立ち入らなくなった古い石碑の方へ向かってゆっくりと進み始めた。
俺と早苗は顔を見合わせる。
この怪異には必ず理由がある
そう確信しながら二人は静かに風鈴の後を追っていった。