風の祝が奇跡を運んでくれることを   作:ミスブルー

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2話 風鈴が鳴る帰り道

夜が明けても俺の頭からあの青い風鈴の音は離れなかった。

無風の境内で鳴った澄んだ音、そして何かを探すようにゆっくりと進んでいった姿は夢ではなかった。

 

朝の掃除を終えると早苗は昨日の石碑の前へもう一度足を運んでいた。

 

「やっぱりここで気配が途切れてしまうんです」

 

風化した石碑は長い年月の雨風に晒され文字のほとんどは消えていた。

俺も表面をそっと撫でてみる。

 

「読めないな」

 

「何か分かりますか」

 

「いや…このままじゃ無理だな」

 

しばらく考えた俺は社務所の裏にある蔵へ目を向けた。

 

「昔のことなら記録が残っているかもしれない」

 

早苗は静かに頷く。

 

「そうですね、私もお手伝いします」

 

二人で蔵の扉を開けると少し湿った木の匂いと古い紙の香りが漂ってきた。

 

棚には代々守られてきた記録や巻物に古地図が整然と並んでいる。

俺は書本家として幼い頃から祖父に教えられてきた記録の探し方を思い出しながら一冊ずつ丁寧に頁をめくっていった。

 

「護くん…こちらは神社の祭事ばかりですね」

 

「そっちは違うな……昔の地図があればいいんだけど」

 

時間だけが静かに過ぎていく。

紙をめくる音だけが蔵の中へ響いていた。

その時、一冊だけ他よりも厚い和綴じの帳面が目に留まった。

 

表紙には薄く『参道改修記録』と書かれている。

 

「これだ」

 

慎重に頁を開くと数十年前さらにその前の時代まで遡る参道の記録が残されていた。

今の石段とは別に神社の北側から山を回る古い参道が描かれている。

 

「昔はこんな道があったんですね」

 

「あぁ。今は草に埋もれてるけど昔は旅人も使っていたらしい」

 

さらに読み進める。

ある頁で俺の手が止まった。

そこには短い文章が墨で書き残されていた。

 

『夏の終わり 一人の旅人 濃霧にて道を違え 社へ辿り着くこと叶わず 山中にて息絶ゆ 家族待つ故郷へ帰れぬことを最期まで案じたり』

 

俺はその一文を何度も読み返した。

 

「故郷へ……帰れなかったのか」

 

早苗も静かに記録を覗き込む。

 

「昨日感じた想いと同じです」

 

さらに頁をめくると小さく書き添えられた追記があった。

 

『夜更け 社より聞こゆる鈴の音を頼りに歩みしと言う』

 

「鈴の音……」

 

俺は思わず顔を上げた。

 

「風鈴だ」

 

「はい」

 

早苗はゆっくり頷いた。

 

「きっとあの方はあの日からずっと風鈴の音を頼りに帰る道を探しているんです。でも参道はなくなり道も変わってしまいました」

 

蔵の中へ静かな沈黙が流れる。

何十年いや百年以上かもしれない。

誰にも気づかれず帰る道だけを探し続けていた旅人。

その想いだけが夏の風鈴へ残ってしまったのだ。

 

俺は古地図を広げ現在の境内と見比べる。

 

「……分かった」

 

「何か見つかったんですか」

 

「古い参道は今の鳥居じゃない。この石碑の先から山沿いへ続いてたんだ」

 

地図の上で一本の道が現在は途切れている。

その先には故郷へ続く街道が確かに描かれていた。

俺は静かに地図を閉じる。

 

「今夜…この道へ案内しよう」

 

早苗は穏やかに微笑んだ。

 

「はい。あの方を帰してあげましょう」

 

蔵の小さな窓から夏の風が吹き込み棚に掛けられた小さな風鈴がちりんと一度だけ優しく鳴った。

 

日が沈み山々が夜の帳に包まれる頃、俺と早苗は再び境内へ立っていた。

昼間に見つけた古地図は俺の手の中にある。

そこには今では誰も歩くことのなくなった古い参道がはっきりと描かれていた。

 

「この先ですね」

 

「ああ」

 

二人は石碑の前まで歩いていく。

 

昼間は何も感じなかったその場所も夜になると空気が少しだけ冷たく感じられた。

境内には風がない。

木々の葉も動かず虫の声だけが静かな夜へ響いている。

 

その時だった。

 

青い風鈴が一度だけ鳴いた。

 

「来ましたね」

 

早苗は静かに目を閉じる。

 

「昨日より近く感じます」

 

風鈴はゆっくりと揺れ始める。

誰も触れていない。

それでも確かに何かに導かれるように石碑の前まで移動してくる。

 

そして動きを止めた。

 

「ここから先が分からないんですね」

 

早苗は小さく呟いた。

俺は古地図を開き石碑の先に提灯の灯りを向ける。

 

「昔の参道はここから山沿いへ続いていた。今は草木に埋もれて見えないだけだ」

 

昼間のうちに確認しておいた目印を頼りに一歩また一歩と歩いていく。

 

折れた石柱に苔むした石畳。

地面へ半分埋もれた道標。

人々に忘れられていただけで 確かにそこには昔の参道が残っていた。

 

風鈴がまた鳴る。

今度は少しだけ嬉しそうな音だった。

 

「護くんあの方も気付いたみたいです」

 

早苗は参道へ向かって静かに一礼した。

 

「長い間よく頑張りましたね」

 

優しい声が夜の山へ溶けていく。

 

「もう迷わなくても大丈夫です。帰る道はちゃんとありますから」

 

そう言うと早苗は胸の前でそっと手を合わせた。

山の上から柔らかな風が吹き下りてくる。

 

それは強い風ではない。

夏の夜を撫でるような優しく穏やかな風だった。

風は青い風鈴を静かに揺らす。

その澄んだ音色はまるで「ありがとう」と語り掛けているようだった。

 

俺には姿は見えない。

それでも風鈴の向こうを一人の旅人が静かに歩き出したような気がした。

 

故郷を目指して。

家族の待つ場所へ帰るために。

風は古い参道をゆっくりと吹き抜けて山の向こうへ消えていく。

やがて風鈴の音も遠ざかり夜の静けさだけが残った。

早苗はしばらくその方向を見つめ微笑んだ。

 

「帰れましたね」

 

「ああ」

 

それ以上の言葉は必要なかった。

 

翌朝 境内ではいつものように参拝客を迎える準備が始まっていた。

 

俺は昨日の青い風鈴を探す。

 

風鈴は最初に吊るされていた場所へ静かに戻っていた。

 

その日から青い風鈴が場所を変えることは二度となかった。

 

参拝客は何も知らないまま 風鈴の音へ耳を澄ませている。

 

「今年も綺麗な音ですね」

 

そんな声が境内へ響く。

その様子を見ながら早苗は空を見上げて穏やかに微笑んだ。

 

「風は見えませんけど想いを運んでくれるんですよ。きっとあの方の『ありがとう』も この風に乗ってどこかへ届いているんでしょうね」

 

風が守矢神社を吹き抜ける。

無数の風鈴が一斉に鳴り響くその音はどこか懐かしく…そして優しかった。

 

俺はその音を聞きながら静かに目を閉じる。

この夏もまた一つの怪異が静かに幕を下ろした。

 

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