翌朝の守矢神社はいつもと変わらない朝を迎えていた。
山から吹く風は昨日までと同じように境内を通り抜け朝日を受けた風鈴が涼やかな音を響かせている。
俺は竹箒を動かしながら境内を見回した。
昨日の出来事が嘘だったように静かな朝だった。
「護くん。おはようございます。お掃除手伝ってくれてありがとうございます」
「あぁ、いいよ。おはよう早苗」
早苗は拝殿へ一礼すると軒先に吊るされた風鈴を一つ一つ確かめていく。
どれも元の場所で静かに揺れていた。
もちろんあの青い風鈴も。
「戻っていますね」
「もう動くことはないみたいだな」
「はい」
その返事はどこか安心したようでもあり少しだけ寂しそうでもあった。
そこへ毎朝参拝に来る近所のおばあさんが石段を上ってくる。
「あら早苗ちゃんおはよう」
「おはようございます」
「そういえばねあの風鈴、もう動かなくなったみたいだねぇ」
早苗は優しく微笑んだ。
「そうですね、きっと落ち着いたんだと思います」
「やっぱり私の気のせいじゃなかったんだね」
「気のせいではありませんでしたよ」
おばあさんは嬉しそうに頷くと手を合わせて静かに参拝を済ませて帰っていった。
その背中を見送りながら俺は青い風鈴へ目を向ける。
夏の風を受けて小さく揺れるその姿は他の風鈴と何も変わらない。
けれどあの澄んだ音だけは今でも耳の奥に残っていた。
「護くん」
「ん?」
「昨日の旅人さんは今頃故郷へ帰れているでしょうか」
俺は少しだけ空を見上げる。
青空の向こうには白い雲がゆっくり流れていた。
「帰れてる。あれだけ嬉しそうな音だったんだから」
早苗はその言葉を聞いて穏やかに笑う。
「そうですね 私もそう思います」
山から一陣の風が吹き抜けた。
境内中の風鈴が一斉に鳴り響き音を鳴らす。
その中にほんの一瞬だけ昨日の青い風鈴と同じ澄んだ音が重なったような気がした。
俺は思わず振り返る。
しかしそこには誰の姿もない。
あるのは夏の青空と守矢神社を吹き抜ける優しい風だけだった。
早苗は風鈴の音へ耳を澄ませ小さく目を閉じる。
「また一つ想いを届けることができましたね」
その言葉に俺は静かに頷いた。
風は姿こそ見えない。
それでも誰かの願いを運び誰かの帰る場所へ続いている。
風鈴は今日も変わらず夏の空の下で鳴り続ける。
その音色はこれからも守矢神社を訪れる人達へ涼しさと優しさを届けながら夏の思い出とともに静かに響き続けるのだった。
夕暮れの守矢神社は昼間とは違う静けさに包まれていた。
参拝客の姿も少なくなり西へ傾いた陽が石畳を朱色に染めている。
俺と早苗は拝殿の縁側へ腰を下ろし夏の風が吹き抜ける境内を眺めていた。
風が吹くたびたくさんの風鈴が優しい音色を重ねていく。
あの日から青い風鈴が場所を変えることは一度もない。
まるで最初から何も起きていなかったかのように他の風鈴と一緒に静かに揺れている。
「こうして聞いていると不思議ですね」
早苗が風鈴を見つめながら小さく微笑んだ。
「何がだ?」
「風鈴はみんな同じように見えるのに一つ一つ音が違うんです。それって人と少し似ている気がしませんか」
俺は耳を澄ませる。
確かに同じ音は一つもない。
高く澄んだ音。
少し低く響く音。
短く軽やかな音。
どれも違っていてどれも夏の風景には欠かせない音だった。
「人にもそれぞれ歩いてきた道があります。嬉しかったことも悲しかったことも 全部違います。でも誰だって帰りたい場所や会いたい人はいるんですよね」
「……あの旅人みたいにか」
「はい」
早苗は静かに頷いた。
「だから私は風祝なんだと思います」
「風祝?」
「風は目には見えません。でも誰かの願いや想いを運んでくれます。私はその風を信じています」
その言葉を聞きながら空を見上げる。
青かった空は少しずつ茜色へ変わり遠くの山並みが夕日に照らされていた。
「護くん」
「ん?」
「また何か不思議なことが起きるかもしれません」
「そうだな」
「その時はまた一緒に考えてくださいね」
俺は思わず笑った。
「あぁ、もちろんだよ」
早苗も嬉しそうに笑う。
その瞬間、山から一陣の優しい風が吹き抜けた。
境内中の風鈴が一斉に鳴り響く。
その音はどこまでも澄み渡り夏空の彼方へ吸い込まれていった。
風は今日も誰かの想いを乗せて吹いている。
願いを届けるため、帰る場所を忘れないために。
そして明日もまた守矢神社には新しい一日が訪れる。
俺は静かに立ち上がる。
「さてと、掃除の続きをしようか」
「はい!一緒に頑張りましょう」
二人は縁側を降り夕暮れの境内を並んで歩き始めた。
風鈴の音はいつまでも二人の背中を見送るように優しく夏の風へ溶け込んでいた。
――夏の風は今日も変わらず誰かの想いを運び続けている。