見えるもの
幼い頃、俺は初めてそれを見た。
最初は猫かなんかだと思ったほどだ。
廊下を小さな何かが走っていく。
足音はしない。
木の床を駆け抜けて柱の陰へ隠れる。
その後ろからもう一体なにか出てきて何かを話しているようだった。
声は聞こえない。
だけど話していることだけはわかる。
俺は気になって後を追いかけた。
柱の向こうを覗く。
そこにはもう何もいない。
代わりに天井の梁の上から大きな目玉が一つだけ俺を見下ろしていた。
思わず声を上げて尻もちをつく。
目玉はぱちりと瞬きをすると天井裏へ消えていった。
怖かった。
でも不思議と逃げようとは思わなかった。
その日から家の中にはたくさんの"何か"がいることに気付いた。
縁側で昼寝をしている小さなもの。
庭石の陰で丸くなっているもの。
蔵の屋根を歩く黒い影。
誰もいない廊下を歩く足音。
夜になると小さな声で笑い合う姿。
俺にはそれが当たり前だった。
ある日、祖父に話した。
「おじいちゃん。今日もいたよ」
「ほうほう」
「廊下を走ってたんだ!」
祖父は一瞬だけ目を丸くした。
そしてゆっくり笑った。
「そうか。見えるか」
俺は頷く。
祖父は俺の頭を何度も優しく撫でた。
「それなら安心だ」
「書本家はまだ終わらんな」
「我が家は安泰だ」
子供だった俺には意味がわからなかった。
ただ祖父が嬉しそうだったから俺も嬉しかった。
父はその話を聞いても何も言わなかった。
嬉しそうでもなかった。
怒りもしなかった。
ただ静かに食事を続けていた。
母は困ったように笑っていた。
「護そんなものはいないよ」
「いるよ」
「いないわ」
「いたもん」
「夢でも見たんじゃない?」
「夢じゃない」
俺は庭を指差した。
「あそこ小さいのがいる」
母は庭を見た。
もちろん何も見えない。
「なにももいないでしょう」
俺は首を振った。
確かにいる。
小さな何かが庭石の陰からこちらを見ている。
それと目が合った。
母には見えない。
父にも見えない。
祖父だけは見えていた。
その頃の俺はそれがどれほど特別なことなのか知らなかった。
翌年になり祖父は亡くなった。
突然だった。
近所では事故だという人もいた。
不審死だという人もいた。
子供だった俺には何一つわからない。
わかったのは祖父はもう帰ってこないということだけだ。
祖父が亡くなってから家の空気は変わった。
昨日まで当たり前だったものが何一つ当たり前ではなくなっていた。
朝になっても祖父は起きてこない。
縁側に座って湯飲みを片手に庭を眺める姿もない。
新聞を広げながら俺を呼ぶ声も聞こえない。
庭の掃除をする竹箒の音も聞こえない。
静かだった。
家がこんなにも静かなものだったのかと幼い俺は初めて知った。
母は朝から何度も泣いていた。
台所に立ちながら涙を拭き洗濯物を干しながらまた涙を流し誰もいない居間を見つめて黙り込む。
祖父と血の繋がりはなくても長い年月を同じ家で過ごした家族だった。
その姿が突然なくなるというのはそれだけで心にぽっかり穴が空くものなのだろう。
父は泣かなかった。
いや、泣けなかったのかもしれない。
仕事へ行くわけでもなく祖父の部屋へ入っては何かを箱へ詰め、またしばらく黙って立ち尽くす。
仏壇の前へ座っても線香を見つめるだけだった。
幼い俺には父が何を考えているのかまるでわからなかった。
俺も泣いた。
祖父がいない。
それだけしか理解できなかった。
祖父に褒めてもらったこと。
一緒に庭を歩いたこと。
蔵へ入れてもらったこと。
大きな手で頭を撫でられたこと。
そんな記憶ばかりが浮かんでは消えていった。
気付けば涙が止まらなかった。
夕方になると人が少しずつ帰っていく。
近所の人たちの話し声も遠ざかり家はまた静かになった。
俺は縁側へ座っていた。
誰とも話したくなかった。
祖父がいつも座っていた場所だ。
その時だった。
庭石の陰から小さな何かが顔を出した。
一匹。
また一匹。
さらにもう一匹。
家のあちこちから小さな妖たちが静かに集まっている。
誰も笑っていなかった。
いつもなら走り回っている子たちが今日はみんな下を向いていた。
小さな声が聞こえる。
「……いなくなった」
「もういない」
「もう死んだ」
「……死んだ」
俺はその声を聞いてしまった。
俺だけに聞こえる小さな声。
祖父がいなくなって悲しいのは人間だけじゃなかった。
妖たちも悲しんでいた。
俺はゆっくり手を伸ばすと一番近くにいた小さな妖が驚いたように俺を見上げる。
小さく震えていた。
怖かったのかもしれないが理由なんて考えなかった。
ただ泣いているように見えた。
俺はその小さな頭をそっと撫でた。
柔らかくつめたかった。
小さな妖は目を細めた。
俺は今独りなんだと思った。
だから撫でた。
それだけだった。
「護!」
父の声だった。
その様子を父が見ていたことに気付かなかった。
今まで聞いたことがないくらい大きな声だった。
俺は驚いて振り返ると父は居間から駆け寄ってきていた。
その顔は怒っているようにも見えたし何かに怯えているようにも見えた。
幼い俺にはその違いなんてわからない。
「……お父さん?」
父は俺の腕を強く掴んだ。
痛かった。
「何をしていた」
「え……」
「今、何をしていた!」
怒鳴られて身体が震える。
俺は何が悪いのかわからなかった。
「この子を……」
俺は庭を指差した。
そこにはさっきまで小さな妖たちはどこにもいなかった。
父は俺の指差した先を見る。
何もない庭だった。
風が吹いて木々が揺れているだけ。
父には見えない。
「何もいないだろう!」
「いたんだ!」
「どこにいる!」
「そこにいたんだ!確かにいたんだ!」
俺は必死だった。
どうして見えないんだろう。
さっきまでいたのに。
俺だけが取り残される。
「お父さん!信じてよ!いたんだよ!妖が!」
俺は初めてこの時、俺にしか見えないものがなんなのか自覚した。
「もうやめろ」
乾いた怒りの声と音が家の中へ響いた。
頬が熱い。
何が起きたのかわからなかった。
少し遅れて痛みがやってくる。
父に叩かれた。
初めてだった。
俺は呆然と父を見上げる。
父の手は震えていた。
「そんなものを見るな……そんな気色の悪い真似をするな……!」
俺は泣きそうになりながら首を振る。
「違うよ……確かにいたんだよ……おじいちゃんがいなくなって……あいつら…みんな悲しんで……」
言い終わる前に父はもう一度俺へ近付こうとした。
その時だった。
「あなた!」
母が父の腕へしがみついた。
「もうやめて!」
「離すんだ!」
「護は悪くないわ!」
「いいや悪い!」
父は叫んだ。
今にも泣きそうな声だった。
「もう終わったんだ!祓い屋なんぞになるから死ぬんだ!殺されたんだ!だから終わらせるんだ!祓い屋を!親父が死んだんだぞ!妖に!もう十分だ!もうたくさんだ!」
母は必死に父を止め、父は何度も俺の方へ来ようとする。
母は泣きながらそれを止める。
家の中はぐちゃぐちゃだった。
幼い俺には何が起きているのかわからない。
ただ怖かった。
祖父がいなくなって父が怒って…母が泣いて。
どうしてこんなことになったのかわからなかった。
庭を見る。
もうなにもいなかった。
何事もないように静かな風だけが庭を吹き抜ける。
俺はただ立ち尽くしていた。
あの時の俺にはわからなかった。
どうして父があんなにも怒ったのか。
どうして母があんなにも泣いていたのか。
どうして祖父は死ななければならなかったのか。
何一つわからなかった。
だけど大きくなってから理解したことがある。
父は妖怪が憎かったわけじゃない。
父は恐れていた。
祖父を失ったことでようやく終わるはずだった書本家の祓い屋としての歴史が俺という存在によって再び始まってしまうことを。
祖父が亡くなり見える者はいなくなる。
祓い屋を廃業し妖怪との縁を切る。
普通の家として生きていく。
きっと父はそう願っていた。
だけど俺は見えてしまった。
見えるものだった。
人には見えないものが俺には見えていた。
だから父は恐れた。
俺まで祖父と同じ道を歩くことを。
俺には…その願いを壊してしまった自覚すらなかった。
護くん。
どこかで声がした。
護くん。
また聞こえる。
懐かしい母の声ではない。
幼い俺を呼ぶ父の声でもない。
もっと優しく穏やかな声。
護くん!
身体がふわりと浮くような感覚と共に景色が白く溶けていった。
「護くん!。護くん!」
誰かに肩を揺すられる感覚がした。
夢の景色がゆっくりと白く霞んで祖父の家も庭も泣いていた小さな妖怪たちも一気に遠ざかる。
最後に見えたのは縁側へ吹き抜ける一陣の風だった。
その風が夏の夕風へ変わった瞬間、俺の身体はふっと現実へ引き戻される。まるで地面に叩きつけられるような感覚だった。
「……んぐっ!」
身体が一度だけ大きく跳ねた。
「ひゃっ!」
慌てたような声がすぐ近くで聞こえる。
目を開けると目の前には見慣れた制服姿の早苗がいた。
少しだけ驚いたような表情で俺の顔を覗き込んでいる。
「護くん、大丈夫ですか?」
「……早苗」
まだ頭がぼんやりしている。
夢か…。
夢というより昔の記憶か。
幼い頃の記憶
祖父。
父。
母。
あの庭。
全部が妙に鮮明だった。
俺はゆっくり身体を起こした。机へ伏せて寝ていたせいで腕が少し痺れている。
「ここは……」
「学校ですよ。もう放課後です」
窓の外を見る。
夕日が校舎を赤く染めていた。
いつの間にか教室には誰もいない。
扇風機だけがゆっくり回り夏特有のぬるい風を送っている。
「そうか……寝てたか俺」
「かなりぐっすりでしたよ」
「悪い。待たせた」
「いえいえ。今日は図書委員のお仕事がありましたから、その帰りに教室へ戻ってきたんです」
早苗は自分の鞄を持ち上げながら小さく笑う。
「そうしたら護くんが机に伏せて寝ていまして…起こそうか少し迷ったんですよ」
「だったら起こさなくてもよかったのに」
「そういうわけにもいきません。もう最終下校の時間が近いですから」
「あぁ……そんな時間か」
時計を見る。
思っていた以上に眠っていたらしい。
俺は軽く首を回した。
まだ夢の余韻が残っている。
「すごくうなされていました」
「え?」
「何か怖い夢でも見ていたんですか?」
俺は少し黙った。
答えようと思えば答えられる。
だけどどう話せばいいのかわからなかった。
祖父のこと。
父のこと。
俺にしか見えないもののこと。
どこから話しても長くなる。
「……昔の夢を見たんだ」
「夢ですか」
「あぁ」
「どんな夢だったんです?」
「夢というより記憶だな。」
「記憶……。」
早苗はそれ以上急かさなかった。
ただ静かに俺の言葉を待っている。
その沈黙が妙に心地良かった。
「小さい頃の家を思い出してた」
「護くんが小さい頃の…?」
「そうだよ」
「懐かしい夢だったんですね」
俺は少しだけ苦笑した。
「懐かしい……うーん、そうだな。でもあまりいい夢じゃなかったよ」
その一言だけで十分だった。
早苗は何も聞かなかった。
代わりに優しく微笑んで言った。
「今日は寄り道でもして帰りませんか」
「寄り道?」
「はい。夢を見た日は、気分転換が一番です」
「なんだそれ」
「神奈子様がよく言うんです。気持ちが沈んだ日はお酒でも飲んで笑えばいいって」
思わず吹き出した。
「神奈子らしいな。」
「でしょう?」
教室にようやく笑い声が戻る。
さっきまで夢の中にいた重苦しい空気が少しだけ夏の夕風に溶けていく気がした。
俺は鞄を肩に掛けて立ち上がる。
「よし、行こうか」
「はい」
早苗は嬉しそうに頷いた。
俺たちは夕日に染まる教室をあとにした。
ここまで読んでくれてありがとうございました。
見えるもの、ということで書本護の小さい頃の話でした。
彼は早苗には話すことはしませんでした。早苗もまた踏み込むことはしませんでした。
こういう話はいつか早苗に話せることがあればそれは嬉しいことかもしれませんね