五月の諏訪は、昼と夜で空気が変わる。
昼は普通の地方の町だ。
学生がいて、店があって、観光客が歩いている。
でも夜になると違う。
山に囲まれている町は、音が消える。
湖がある町は、水が呼吸する。
昼休み。
教室の後ろの席で、俺――書本護はノートを閉じた。
「はい」
隣から声がする。
東風谷早苗。
「今日の数学、分かりました」
「それは良かった」
早苗はノートを抱えて笑う。
「護く……」
途中で止まった。
「書本くん」
俺は気づかなかったふりをした。
最近、放課後に一緒にいることが多い。
この非日常のせいだ。
階段の怪談。
御柱の影。
そして今度は――
「諏訪湖の七不思議」
早苗が言った。
俺は机に肘をつく。
「まだあるのか」
早苗は頷いた。
「有名なんですよ?」
そして少し小さな声で言う。
「夜渡り」
俺は眉をひそめた。
「御神渡り?」
早苗は首を振る。
「似ていますけど違います。冬じゃなくても起きるんです」
窓の外に諏訪湖が見える。
今日は風が強い。
湖面が細かく揺れている。
早苗が言った。
「夜の湖に氷の道ができます」
俺は言った。
「凍ってないのに?」
早苗は頷いた。
「はい。でも音だけはするんです」
「氷が割れる音…」
その時、クラスの誰かが言った。
「それ知ってる」
「湖で夜釣りしてた人が聞いたって」
別の生徒も言う。
「氷が割れる音が一直線に走るらしい」
俺はため息をついた。
「………。またか」
早苗が笑う。
「またです」
その夜。
諏訪湖の岸は静かだった。
街灯が少しだけ灯っている。
湖は暗い。
月が出ていた。
水面に白い光が伸びている。
早苗が湖を見つめる。
「静かですね」
俺はポケットを触る。
ヒトガタ。
今日は四枚。
最近、持ち歩くのが習慣になっていた。
「七不思議って言ったな…」
俺が言う。
早苗が頷く。
「諏訪湖には昔からあるんです」
指で湖を指す。
「湖の底に村があるとか」
「夜になると鐘が鳴るとか」
「神様が湖を渡るとか」
俺は言った。
「それが夜渡り?」
早苗は湖を見ている。
「はい」
「氷がないのに?」
「神様が歩く道だけができるんです」
風が止んだ。
湖が静かになる。
その瞬間だった。
パキッ
小さな音。
俺は顔を上げた。
「……聞いたか」
早苗が頷く。
「はい」
また音がする。
パキッ……パキッ……
氷が割れる音。
でも湖は凍っていない。
音は一直線に走る。
湖の上を。
まるで――
誰かが歩いている。
早苗が小さく言った。
「来ました」
湖面に、細い線が見えた。
月明かりの中で。
水が割れている。
でも氷はない。
水面が、道の形に揺れている。
一直線に。
岸へ向かって。
俺はヒトガタを握る。
「……神様か」
早苗が言う。
「分かりません」
その時だった。
湖の上に影が立った。
人の形。
でも揺れている。
水の中の影みたいだ。
それが、ゆっくり歩いてくる。
氷が割れる音と一緒に。
パキッ……パキッ……
俺の背筋が冷えた。
「やばいな」
早苗は前に出る。
「……待ってください」
影は岸の近くまで来た。
月明かりの中で、ぼんやり形が見える。
古い服。
昔の人間。
でも足は水に沈んでいる。
早苗が言った。
「神様じゃない…人です」
俺は言った。
「幽霊か」
早苗は小さく頷く。
「たぶん」
「湖で亡くなった人」
影が手を伸ばす。
岸に上がろうとしている。
その瞬間。
俺はヒトガタを投げた。
紙が空中で広がる。
影に触れる。
だが。
消えない。
逆に水面が揺れる。
影が大きくなる。
俺は舌打ちした。
「強いな」
早苗が言う。
「護くん」
俺は振り向いた。
「……なんて?」
早苗は少し赤くなる。
でも続けた。
「護くん」
風が吹く。
湖面が揺れる。
早苗が両手を合わせる。
「この人は帰れないみたいです」
俺は言った。
「つまり…?」
早苗は湖を見ていた。
「道を作ります!」
月明かりが強くなる。
風が湖を撫でる。
その瞬間。
水面に線が走った。
まっすぐ湖の中央へ。
さっきとは逆方向に。
氷の割れる音。
パキッ……パキッ……
影が止まる。
そして振り向く。
水の道を見ている。
早苗が言った。
「帰ってください。…あなたの場所へ」
影が揺れる。
そして。
ゆっくり湖の道を戻り始めた。
氷の音が遠ざかり湖は静かになった。
何もなかったみたいに。
俺は息を吐いた。
「……奇跡か」
早苗は少し疲れた顔で笑う。
「小さいですけど」
俺は肩をすくめた。
「十分だよ」
夜風が吹く。
湖の匂いがする。
しばらく二人で黙っていた。
その後で、早苗が言う。
「護くん」
俺は湖を見ながら答えた。
「なんだ」
早苗は少しだけ照れている。
「これからも付き合ってくれますか…?」
俺は少し考えた。
そして言った。
「まあ退屈しないからね」
早苗が笑った。
その笑顔は、少しだけ距離が近かった。
諏訪湖の夜は静かだ。
でも俺は知っている。
この町にはまだ怪談がある。
神様もいる。
そして――
この子と俺はまだその途中にいる。
夜渡りの道の向こうにまだ知らない物語が続いている