夏休みが始まる少し前の放課後の時にもどる。
終業式も近づき教室にはどこか浮ついた空気が流れていた。
授業の話よりも夏休みに何をするかという話題ばかりが飛び交っている。
窓から吹き込む生ぬるい風がカーテンを揺らしグラウンドでは運動部の掛け声が響いていた。
「なぁ夏休み入ったら肝試ししようぜ!」
誰かがそう言うと教室は一気に盛り上がった。
「いいな!」
「でもどこで?」
「山とか?」
「いや夜の山は普通に危ないって」
「廃墟とかもニュースになるしなぁ」
「親に絶対止められる」
危ない、やめた方がいいという声も思ったより多かった。
さすがに無茶をしようという空気ではないらしい。
俺は少しだけ安心していた。
その時、一人の男子が机を叩いた。
「じゃあ学校は?」
教室が一瞬静かになる。
「学校?」
「夜の学校なら一番怖くね?」
「一年棟をぐるっと一周して戻ってくるだけ!」
「校舎なら道に迷わないし!」
「それいい!」
一気に賛成の声が上がっていく。
俺は思わず眉をひそめた。
夜中の学校に侵入なんてできるのか……。
そう思った次の瞬間、頭の中に一つの光景が浮かぶ。
……いや、できるな。
以前、俺と早苗は夜の学校へ入ったことがある。
四番目の階段の怪異を調べるため、使われていない裏手のフェンスから中へ入ったことを思い出す。
あそこなら鍵もなく少し頑張るだけで越えられてしまう。
多分、あいつらも同じ場所を見つけたんだろう。
俺がそんなことを考えていると隣から制服の袖をそっと引かれた。
「護くん」
小さな声だった。
見ると早苗が少しだけ心配そうな顔をしている。
「危なくないでしょうか…」
その言葉に俺は小さく息を吐いた。
「まぁ……学校なら山よりは安全だろ」
そう答えながらもそれは半分自分に言い聞かせるような言葉だった。
学校そのものは危険じゃない。
問題は、夜という時間だ。
俺達に見えてしまうものが、昼と同じとは限らない。
あいつらが大丈夫だったとしても俺達が大丈夫じゃないかもしれないからだ。
「書本!」
突然大きな声が飛んだ。
「あと東風谷さん!」
振り返ると、いつの間にか教室中の視線が俺達へ集まっていた。
「二人とも来てくれるよな!」
「え?」
俺は間の抜けた声を出してしまう。
隣を見ると早苗も驚いたように目を丸くしていた。
……なんだこの流れ。
なんで俺達こんな注目されてるんだ?
周りを見渡してようやく理由が分かった。
みんなが肝試しの話で盛り上がっている中、俺達だけ二人でこそこそ話していたからだ。
そりゃ目立つ。
「どうしましょう…」
早苗が困ったように小さく聞く。
俺は苦笑しながら頭を掻いた。
「まぁ……じゃあ行こうか」
「はい」
その一言で教室から歓声が上がる。
「よっしゃ!」
「書本も東風谷さんも来るって!」
「これで面白くなる!」
……いや、俺達そんな期待されるようなことした覚えないんだけど。
そんなことを思いながらもどこか笑ってしまう自分がいた。
そして迎えた約束の日だ。
夜の学校の校門前。
街灯だけが辺りをぼんやり照らし昼間とはまるで別の場所のようだった。
校舎の窓は真っ暗で人の気配はどこにもない。
昼間あれほど賑やかだった学校が今は静寂だけをまとってそこに立っている。
クラスは三十六人。
しかし実際に集まったのは十八人だけだった。
「半分しか来なかったな」
「親が厳しくてさ」
「俺なんか窓から抜け出してきた」
「見つかったら終わりだわ」
そんな笑い声が夜に響く。
俺は心の中で思う。
……来なきゃよかったかな、この流れ。
そんな俺とは対照的に、隣の早苗は校舎を見上げて目を輝かせていた。
「夜の学校……少しわくわくしますね」
「前も聞いたような気がするが怖くないのか?」
「少しだけ。でも皆さん一緒ですから」
その笑顔を見ていると不思議と俺まで肩の力が抜けていく。
やがて全員が裏手のフェンスから静かに校内へ入り一年棟の昇降口へ集まった。
「じゃあ二人一組な!」
「ペア決めよう!」
誰かがそう言うとその男子が小さな箱を取り出した。
「よーし! じゃあペアはくじで決めるぞ!」
その瞬間だった。
「すみません」
静かな声が響く。
全員がそちらを見る。
早苗だった。
少しだけ頬を赤くしながら、それでも真っ直ぐ前を向いて言う。
「私……護くんとがいいです」
時間が止まったような気がした。
俺の思考も完全に止まる。
……え?
今度は夜の校舎の前で、十八人全員の視線が俺と早苗へ集まっていた。
困惑したような顔。
驚いた顔。
何が起きたのか分からないという表情。
「えぇ!? でもせっかくくじあるのに!」
一人が慌てて声を上げる。
しかし別の男子が肩をすくめて笑った。
「まぁいいじゃないか。わざわざ夜中に来てくれただけでもありがたいだろ。俺だって家抜け出すの苦労したんだぞ」
くじを持っていた男子は「うーん!」と数秒だけ本気で悩み、やがて大きくため息をついた。
「……わかった!じゃあ書本と東風谷さんは一緒のペアな!」
そう言って箱の中から二枚の札を取り出して俺達へ渡してくれる。
「二人のくじはこれと……これか。ほい、持ってけ!記念だ!」
思わず受け取ると数字の書かれた木札だった。
「悪いな、二人とも」
さっき皆をなだめてくれた男子が苦笑しながら言う。
俺は小さく笑って答えた。
「いや、二人ともありがとう」
隣では早苗は何も言わなかったが小さくぺこりと頭を下げる。
その姿を見て、みんなも自然と笑顔になった。
良い奴らだ。
俺は手の中の木札を見つめながらそんなことを思って少しだけ笑った。
そして誰もまだ知らない。
この夜の学校で待っているのがただの肝試しではないことを。
昼間には決して姿を見せない、この学校だけが知る「夜の住人」たちが静かに彼らを見守り始めていたことを。