くじを配り終えると男子の一人が手を叩いた。
「よし、それじゃあルール説明な!」
自然と全員がその場へ集まる。
「一年棟を一周して、この昇降口まで戻ってきたらゴール!。途中で職員室前を通って、東階段を上がって、西階段から降りる感じ!。順番はこの番号札な!。一組ずつ三分空けて出発!」
「いいか?途中で他のペアを驚かせるのは禁止!」
「走るのもなし!転んだらしゃれにならないからな!ゴールしたらここで待機!」
誰もが「おー!」と返事をする。
夜中だというのに、昼休みの延長のような空気だった。
怖がっている者もいる。
笑っている者もいる。
妙にテンションが高い者もいる。
そんな様子を眺めながら、俺はふと校舎を見上げた。
昼間は毎日通っている校舎。
それなのに今はまるで別の建物に見える。
窓という窓は黒く沈み、月明かりだけがコンクリートの壁を淡く照らしていた。
昼なら聞こえるはずの部活動の声もない。
風が渡る音だけが校庭を抜けていく。
「護くん」
早苗が小さく俺の袖を引く。
「どうしました?」
「いや……」
俺は少しだけ笑う。
「夜になるだけで学校って別物になるな」
早苗も校舎を見上げた。
「はい……。少しだけ神社に似ています」
「神社?」
「昼は参拝する人で賑やかです。でも夜になると神様や妖怪さん達の時間になりますから」
その言葉に俺は納得した。
確かにそうだ。
人の時間が終わると、別のもの達の時間が始まる。
それは学校でも変わらない。
「一組目ー!」
呼ばれた二人が「行ってきまーす!」と笑いながら歩いていく。
昇降口を抜け、暗い廊下へ消えていった。
「二組目準備ー!」
三分ほど経つ。
「じゃ、俺達も」
二組目も出発した。
その姿もすぐに暗闇へ溶けていく。
静かな校舎へ吸い込まれていく後ろ姿を見送っていると、少しして遠くから声が聞こえた。
「うわっ!」
「おい押すなって!」
「押してねぇよ!」
笑い声が夜の廊下に反響する。
「あいつらもう怖がってるぞ」
「まだ入口じゃん」
「早すぎるだろ」
待機している皆が笑った。
俺もつられて笑ってしまう。
どうやらまだ何事も起きてはいないらしい。
三組目、四組目と順番に校舎へ入っていく。
人数が減るたび、昇降口は静かになっていった。
やがて残ったのは俺達を含めて四人だけになった。
「書本」
男子が手を振る。
「俺達先行くな!」
「ああ、後でな」
「おう!じゃあ後でな!しっかり来いよ!」
二人は笑いながら校舎へ消えていった。
昇降口には俺と早苗だけが残る。
静かだった。
さっきまで賑やかだった場所とは思えないほど静かだった。
遠くで鳴く虫の声。
風に揺れる木々。
そして時計の秒針だけが時間を刻んでいる。
「最後ですね」
早苗が少し嬉しそうに言う。
「最後尾って一番怖くないか?」
「そうです?」
「前には誰もいないし後ろにも誰もいない」
「……確かに」
少しだけ肩をすくめる早苗が可笑しくて俺は笑ってしまった。
その時だった。
カランとどこかで小さな音が鳴った。
俺は反射的に音の方を見る。
昇降口の端。
誰もいない。
風で何かが揺れただけか。
「どうしました?」
「いや……今何か…」
言いかけたところで小さな影が柱の陰からひょこっと顔を出した。
子どもほどの背丈。
丸い頭。
黒い影のような身体。
こちらを見つめる二つの小さな目。
俺は思わず苦笑した。
「なんだ、小物の妖怪か」
その言葉に早苗も気付き、小さく笑う。
「あ、いましたね」
影は三匹。
柱の後ろからこちらを覗いている。
一匹が手を振る。
もう一匹は友達の後ろへ隠れる。
最後の一匹は興味津々といった様子で少しだけ近付いてきた。
人間には見えない。
害もない。
夜になると学校を歩き回っているだけの小さな妖怪達だった。
「こんばんは」
早苗が小さく会釈する。
三匹もぺこりと頭を下げる。
「今日人がいっぱい」
「いっぱい来た」
「遊びに来た?」
幼い子どものような声が聞こえる。
俺は苦笑しながら頷いた。
「遊び……まぁそんなところかな。いいか?驚かせちゃ駄目だからな」
そう言うと三匹は顔を見合わせる。
「えー。」
「少しだけ。」
「ちょっとだけ。」
「駄目だ」
俺が真顔で言うと三匹は揃って肩を落とした。
その様子がおかしくて思わず早苗と顔を見合わせる。
「護くん」
「ん?」
「まるで先生ですね」
「そんなつもりないんだけどなぁ」
二人で小さく笑う。
その笑い声は静かな夜の学校へ溶けていった。
だが、その時だった。
楽しそうにしていた三匹の妖怪が不意に笑顔を消した。
ぴたり、と動きを止める。
一斉に廊下の奥を見つめている。
まるで何かを警戒するように。
俺もつられて自然とその先へ視線を向けた。
暗い廊下の向こうには誰もいない。
……いや。
誰も「見えない」。
しかし、空気だけが変わった。
夏の夜とは思えないほどひやりと冷たい風が廊下をゆっくりと吹き抜けていった。
俺は自然と笑みを消した。
夏の夜とは思えない冷たい風が廊下を真っ直ぐこちらへ流れてくる。
その風は窓が開いているから吹き込んだようなものではない。
もっと静かで重く、肌の上だけをゆっくり撫でるような冷たさだった。
隣では早苗も同じものを感じたのだろう。
さっきまで柔らかく笑っていた表情が少しだけ引き締まり、小さく息を呑む音が聞こえた。
「護くん……」
「ああ」
それ以上言葉は必要なかった。
俺達の視線は自然と廊下の奥へ向く。
昼間なら一年生が走り回り、先生が「廊下は走るな」と注意する、ごく普通の廊下。
窓から差し込む夏の日差しで明るく、教室からは笑い声が絶えない場所。それが今は月明かりだけに照らされて白い床がどこまでも続く一本の道になっている。
昼間見慣れている景色だからこそその静けさが不気味だった。
小さな妖怪達は俺達の前へ出ることもなく、柱の陰に身を寄せ合っている。
さっきまで「遊びたい」「少しだけ驚かせたい」と騒いでいた三匹が、今は互いの腕を掴むようにして震えていた。
「どうした」
俺が小声で尋ねると一匹が恐る恐る口を開いた。
「……いる。」
「また歩いてる。」
「今日は機嫌が悪い。」
俺は眉をひそめる。
「誰が?」
三匹は同じ方向を見たまま小さな指を廊下の奥へ向ける。
「見回る人。」
「夜になると歩く人。」
「人間じゃない。」
その言葉を聞いた早苗が俺を見る。
「護くん……。」
「分かってる。」
学校には人の思いが積み重なる。
毎日何百人もの生徒が笑い、泣き、怒り、悩み、夢を見て卒業していく。
先生達も同じだ。
何十年も同じ校舎を歩き続ける。
その積み重ねが時には土地に残り、小さな怪異になることは珍しくない。
だが小さな妖怪達がここまで怯える相手となると話は別だ。
俺は廊下へ一歩踏み出した。
その瞬間だった。
ガタンと一年一組の教室から音がした。
机でも椅子でもない。
もっと軽い音だ。
何かが床へ落ちたような音だった。
俺と早苗は同時に教室を見る。
静かだ。
音は一度きり。
俺はゆっくり教室の窓から中を覗いた。
月明かりが机を白く照らしている。
整然と並ぶ机。
黒板には日直の名前がまだ残っている。
教卓にも何もない。
「風でしょうか」
早苗が小さく言う。
俺は首を横に振った。
「窓閉まってるぞ」
「では……?」
「分からない」
そう答えながらも俺は教室の隅を見ていた。
机の下。
ロッカーの陰。
黒板の横。
そこには小さな妖怪が何匹かこちらを見ているだけだった。
「あ、見える人」
「また来たか…」
いつもの小物の妖怪連中だ。
昼間は姿を隠し夜だけ教室を歩き回るだけの小さな存在。
俺が軽く手を振ると向こうも嬉しそうに振り返してくる。
その様子を見た早苗が少しだけ安心したように笑う。
「この教室は大丈夫そうですね」
「ああ」
その時だった。
遠くから笑い声が聞こえた。
「ぎゃははは!」
「おい待てって!」
「怖ぇーー!」
どうやら先に進んでいたクラスメート達らしい。
俺は思わず苦笑する。
「元気だな…」
「楽しそうですね」
「たぶん蜘蛛の巣かなんかにでも引っ掛かったんだろ」
「ふふっ」
早苗が口元を押さえて笑う。
「護くん、さっきから全然怖がりませんね」
「夜の学校には慣れてきているからな」
「そうでしたね」
それはきっと早苗もだろうな
四番目の階段と夜の理科室に夜の音楽室。
この学校ではもう何度も夜を歩いてきた。
だからこそ分かる。
今日はいつもと少し違う。
静かすぎる。
小さな妖怪達も遊んでいない。
さっきまで聞こえていた虫の声までいつの間にか止んでいた。
まるで校舎全体が息を潜めているようだった。
俺は何気なく天井を見上げる。
蛍光灯と配線に火災報知器。
こんなのは昼間なら何も気にならない。
しかし夜になるとその一つ一つが別のものに見えてしまう。
そんな時だった。
カツンとどこかで靴音が鳴った。
俺も早苗も動きを止める。
カツンとまた一歩。
一定の間隔でゆっくりと誰かが廊下を歩いている。
先に行ったクラスメートか?
そう思って耳を澄ませる。
違う。
笑い声がない。
話し声もない。
一人だけ。
しかも歩く速さが妙に一定だったが近付いてくるわけでもない。
遠ざかるわけでもない。
まるで同じ場所をただ歩き続けているような足音。
小さな妖怪達は一斉に身を縮めた。
「来る。」
「見回り。」
「静かに。」
早苗が俺の制服の袖をそっと掴む。
「護くん……あの足音……」
「ああ、聞こえてるよ」
俺は廊下の暗闇を見つめたまま小さく息を吐いた。
この足音には悪意は感じない。
誰かを襲おうという気配もない。
けれどそれ以上に奇妙だ。
まるで何十年も前からこの学校が夜になるたび、同じ時間、同じ廊下を、同じ速さで歩き続けている存在がいるかのように、その足音だけは寸分違わず静かな校舎へ響き続けていた。