俺と早苗は顔を見合わせた。
今の笑い声。
間違いなく前を歩いているクラスメート達のものだった。
だがその中へ混じったもう一つの声だけが、この学校には似合わないほど幼かった。
「……聞こえましたか」
早苗が小さく尋ねる。
「聞こえた。子どもの声だった。でもこの時間にそもそも子どもがいるわけがない」
もう夜中だ。
学校は当然閉まっている。
教師も生徒も誰もいるはずがない。
ましてや小学校へ上がる前くらいの幼い子どもが校舎の中を歩いているなど普通ならあり得ない話。
俺はもう一度耳を澄ませるが笑い声はもう聞こえない。
聞こえるのは遠くから響くクラスメート達の話し声だけ。
「さっき誰か笑ったよな」
「絶対お前だろ」
「俺じゃねぇって!」
「やめろよ怖いだろ!」
どうやら本人達は気付いていないらしい。
あの笑い声を自分達の誰かだと思っているようだった。
「護くん」
早苗が廊下の奥を見つめたまま話す。
「追い掛けますか…?」
俺は少しだけ考える。
追い掛ければ正体は分かるかもしれない。
だがそれは前を歩いているクラスメート達を驚かせることにもなる。
それに…
「……いいや、やめよう。今は皆を優先しよう」
「はい」
「悪意があるならもう何か起きてるはず」
早苗も納得したように頷く。
俺達は再び歩き始めた。
夜の校舎は相変わらず静かだった。
壁へ掛けられた時計と点灯されていない蛍光灯。
閉ざされた教室。
どこまでも続く廊下。
昼間なら何気なく歩く一本道が夜になるだけでこれほど長く感じるものなのかと改めて思う。
歩いているうちに一年三組の前まで来た。
教室の扉は閉まっている。
窓越しに中を見ると机が整然と並び黒板には今日の日付がそのまま残されていた。
誰かが書いた小さな落書きに掃除当番の名前。
黒板消しの粉。
どれも昼間の時間が止まったまま残されている。
早苗はその教室をしばらく眺めていた。
「学校って不思議ですね」
「どうしたんだ?」
「昼間は皆さんが使っている場所なのに夜になると誰もいなくなって、それでも明日になると何事もなかったようにまた始まる」
俺は少し笑う。
「毎日そういうことを繰り返してる場所だからな」
「神社とは違う静けさです」
「神社?」
「はい。神社は夜でも神様のお家ですから」
早苗は少しだけ微笑む。
「でも学校は、人の時間が終わると誰のお家でもなくなるような……そんな感じがします」
その表現は妙に納得できた。
学校という場所は人がいて初めて学校になる。
誰もいない今はただ静かな建物がそこへ立っているだけだ。
だからこそ昼には気付かなかったものが姿を現すのかもしれない。
その時だった。
「……あれ」
早苗が立ち止まる。
「どうした」
「見てください」
早苗が指差したのは廊下の窓だった。
外は校庭。
月明かりが校舎の壁を白く照らしている。
その窓ガラスへ小さな手形が付いていた。
五本指。
子どものものだろうか。
俺は近付いてよく見ると指先まではっきり残っている。
まるで誰かが外側から窓へ手を当てたようだった。
「外……ですよねこれ」
「ああ」
一年棟は一階。
外から手を付けること自体はできる。
だが…
「砂が付いてないな」
俺は静かに呟いた。
普通、人が外から触れば土や砂埃が残る。
だがその手形は違った。
曇ったガラスへ誰かが手を当てた時のようにそこだけ綺麗に跡が残っている。
「……冷たい」
早苗がそっと窓へ触れる。
「え?」
「ここだけ冷えています」
俺も触れてみる。
確かにそうだった。
手形の辺りだけがまるで氷でも押し当てていたかのように冷たい。
それ以外は夏の夜らしい生ぬるさしかない。
「何でしょう」
「分からない」
俺は窓の外を見てみるも校庭には誰もいない。
どこを見ても人影はなかった。
その時だった。
校庭の隅、体育倉庫の前を小さな影が一つだけ横切った。
背丈は小学校低学年くらい。
走るでもなく歩くでもなく。
楽しそうにスキップをするような軽い足取りで月明かりの中を横切っていく。
「あ……」
早苗も見ていた。
「護くん」
「あぁ」
影はこちらを見ることもない。
ただ校庭を横切りそのまま体育倉庫の陰へ消えていっ
俺は数秒その場で見つめる。
追い掛けるべきか。
考えたが今はクラスメートが先だ。
俺がそう判断しかけた、その時。
校舎の奥から今までとは明らかに違う悲鳴が夜の静寂を切り裂いた。
「うわああああっ!!」
遊びではない。
驚かせ合って笑っている声でもない。
本気で恐怖を感じた人間だけが出せる張り裂けるような叫び声だった。
俺と早苗は反射的に顔を見合わせる。
「護くん!」
「行こう!」
二人は同時に駆け出した。
静かだった夜の廊下へ今度は俺達の足音だけが力強く響き渡っていた。
昼間なら生徒達の声に紛れてしまう程度の音も今は廊下全体へ反響しやけに大きく聞こえた。
悲鳴は一年棟の西側から聞こえた。
「うわぁ!」
「おい、大丈夫か!立てるか!」
今度は悲鳴ではなく慌てたようなクラスメート達の声が聞こえてくる。
俺と早苗が曲がり角を曲がると、六、七人ほどのクラスメートが一か所へ集まっていた。
「書本!」
俺に気付いた男子が手を振る。
「こっち!」
「どうした!」
駆け寄ると一人の男子が床へ座り込んでいた。
制服の膝には埃が付き右手を床へついたまま困ったような表情を浮かべている。
「大丈夫か?」
俺が声を掛けると男子は苦笑した。
「ああ……転んだだけだ」
「おいおいびっくりしたぞ」
「急にすっ転ぶから」
「足でも引っ掛けたのか?」
周りの皆も口々に話している。
俺は男子の前へしゃがみ込んだ。
「足、痛めたか」
「少し打ったけど、多分大丈夫だ」
そう言って立ち上がろうとするがまだ少し動揺しているようだった。
「何があったんだ?」
俺が静かに尋ねると男子は少しだけ考えるような顔をした。
「……俺にも分かんねぇ」
「分からない?」
「ああ」
男子は頭を掻きながら苦笑する。
「なんか急に誰かが前を横切った気がしてな?」
俺は何も言わず続きを待った。
「小さい影だったと思うんだよ」
「影?」
「うん多分」
男子は自分でも自信がないのだろう。
言葉を選ぶように続ける。
「子ども……だったような?あ、いや…」
首を横へ振る。
「違うかもしれないな…暗かったし…とにかく何か見えた気がして。とりあえず避けたら何もなくてそのまま転んだ」
周りにいた男子が笑う。
「だから言ったろ」
「誰もいなかったって」
「俺達ずっと前歩いてたぞ?」
「何避けたんだよ。お前のそれは飛び込んだ、だ」
「見間違いじゃね?」
「肝試しでビビっただけだって」
皆が笑う。
悪意のある笑いではない。
緊張がほぐれた安心の笑いだった。
転んだ男子も照れ臭そうに笑う。
「……そうなのかなぁーよく分かんねぇ。でも確かに見えた気がしたんだけどなぁ」
「いやぁ、完全にビビってるじゃん!」
「まだ始まったばっかだぞ!肝試し」
「最後まで持つか?」
「うるせぇな!」
男子同士で笑い合う。
さっきまでの悲鳴が嘘だったように空気が少しだけ和らいでいく。
早苗はその様子を見ながら小さく安堵の息を吐いた。
「大事にならなくてよかったですね」
「そうだな」
俺もそう返事をする。
しかし俺の視線だけは男子が転んだ場所から動かなかった。
床。
月明かりに照らされた白い床。
皆は気付いていない。
いや、気付けない。
男子が手をついた少し先。
そこへ小さな足跡が一つだけ残っていた。
裸足だった。
小学校へ上がる前くらいだろうか。
本当に小さな足。
しかもその足跡は埃ではなく水滴で出来ている。
まるで雨上がりに裸足で歩いた子どもが一歩だけそこへ立ったような跡だった。
俺は息を呑む。
「……。」
隣で早苗も気付いたらしい。
何も言わない。
ただ小さく俺を見る。
俺も早苗を見る。
二人とも同じものが見えている。
周りではまだクラスメート達が笑っている。
「ほら立て立て!」
「次行こうぜ!」
「書本達も来たし!」
「ゴールまで歩いてないぞ!」
誰一人、その足跡を見ていない。
男子自身も、自分が避けようとした"何か"が本当にいたとは思っていない。
暗闇で見間違えた。
肝試しだから怖くなった。
そうやって自分の中で納得しようとしている。
その方が普通だ。
普通の人間ならそれが当たり前なのだから。
俺はゆっくり立ち上がる。
「歩けるか」
「ああ、大丈夫」
男子は笑いながら制服についた埃を払った。
「いやぁ、情けねぇ。今日一番ビビったの俺じゃん」
「帰ったら絶対ネタにされるな」
周りから笑いが起こる。
その空気を壊さないように俺も少しだけ笑った。
「足元だけには気を付けろよ」
「おうよ!」
男子は元気よく頷く。
その瞬間だった。
俺の視界の端でその小さな足跡にもう一つ水滴が静かに落ちた。
音もなく。
誰も踏んでいない。
誰も近付いていない。
それでも足跡は一歩、また一歩と廊下の奥へ続いていく。
まるで目には見えない小さな誰かが、今この瞬間も静かに廊下を歩いているかのように。
俺はその足跡を見つめたまま小さく息を吐く。
「護くん」
早苗が誰にも聞こえない声で囁く。
「……どうします?」
俺は足跡の続く暗い廊下を見つめながら小さく頷いた。
「仕方がない。でも皆には気付かれないようにな」
俺はもう一度、廊下へ続く小さな足跡へ目を向けた。
水滴で残された足跡は、一歩一歩がとても小さい。
小学校低学年よりも幼い子どもだろうか。
足の大きさだけなら、それくらいしか思い浮かばない。
しかも不思議なことにその跡は左右均等に続いているわけではなく、ときどき片足だけが残っていたり少し間隔が広くなっていたりする。
まるで嬉しそうに歩いたり少し跳ねたりしながら進んでいるような足跡だった。
悪意は感じない。
けれど生きた人間が残したものでもない。
俺は静かに息を吐いた。
「みんな。」
俺はなるべく普段通りの声で振り返る。
「せっかく来たんだしこのまま続けよう」
「お、そうこないとな!」
「転んだだけだし!」
「ゴールまで行こうぜ!」
皆はすぐに笑顔を取り戻す。
転んだ男子も制服についた埃を払いながら立ち上がり大きく背伸びをした。
「いやぁ、情けない」
「完全にビビった。」
「だから言ったじゃん!」
「お前こういうの苦手だもんな」
「うるさいぞ!」
また笑いが起こる。
その笑い声を聞きながら俺は心の中で少し安心した。
この空気なら大丈夫だ。
皆はただ肝試しを楽しみに来た高校生。
この夜を怖かったな、面白かったなと笑って終われればそれが一番いい。
「それじゃ行こう!」
誰かの一声で再び列が動き始めた。
今度は皆、さっきより少しだけ距離が近い。
怖くなったのか自然と前の人との間隔が狭くなっている。
「おい押すなよ」
「押してねぇって」
「置いてくなー!」
そんな他愛もないやり取りが夜の廊下へ響く。
俺と早苗は自然と列の最後尾になる。
前にはクラスメート達。
俺達はその少し後ろ。
「護くん」
「ん?」
「皆さん、楽しそうですね」
早苗は前を歩くクラスメート達を見ながら微笑んでいた。
「転んだ方もう笑っています。」
「ああほんとだな」
「よかったです」
その笑顔は本当に嬉しそうだった。
俺は少しだけ首を傾げる。
「そんなに嬉しいか?」
早苗は俺を見る。
そして照れ臭そうに笑った。
「こういう時間が、私は初めてなんです。」
「……。」
「夜に皆さんと集まって、学校で遊んで、笑って。」
少しだけ遠くを見る。
「中学生の頃の私なら、きっと輪の外から見ていただけでした。」
その言葉には、もう暗さはなかった。
過去を思い出しているだけ。
今は違う。
そう言っているようだった。
「でも今日は違います。『東風谷さんも来て』って言ってくれ て。護くんもいて…みんなと同じように歩いてます」
早苗は静かに笑う。
「私、ちゃんと高校生になれてる気がします」
俺は少しだけ照れながら頭を掻いた。
「何言ってるんだよ早苗」
「最初から高校生だよ」
「ふふっ。はい」
早苗は小さく笑った。
その笑顔を見ていると俺まで少しだけ肩の力が抜ける。
夜の学校。
怪異。
見えない足跡。
それでもこの時間だけは普通の高校生でいたいとそんなことを考えながら歩いていると、不意に俺は足を止めそうになった。
足跡だ。
さっきまで一直線だった水滴の足跡が廊下の途中でぴたりと止まっている。
俺は視線だけを落とす。
最後の一歩。
そこから先は何もない。
消えた?
俺はゆっくり顔を上げた。
一年四組の教室。
その引き戸がほんの少しだけ開いていた。
昼間なら誰かが閉め忘れたのだろうと思う程度の隙間。
だが今日は違う。
足跡はその扉の前で終わっていた。
まるでその小さな誰かが教室へ入っていったように。
「護くん」
早苗も気付いていた。
「開いています」
「ああ」
俺は前を歩くクラスメート達を見る。
皆は気付いていない。
楽しそうに話しながらそのまま廊下を進んでいく。
俺は小さく早苗へ囁いた。
「少しだけ見てくる」
「私も行きます」
「皆から離れすぎるな」
「はい」
俺達は自然に歩く速度を少しだけ落とした。
前の皆との距離が少しずつ開いていく。
誰にも気付かれない程度に。
やがて一年四組の前まで来る。
開いた引き戸の隙間は人一人通れるほどではない。
ほんの数センチ。
その隙間からは夜の教室の空気が静かに流れ出していた。
ひんやりとしていてどこか湿った空気。
俺は音を立てないように扉へ手を掛ける。
古い戸車が小さく鳴いた。
教室の中は月明かりだけが差し込み机と椅子が静かに並んでいる。
黒板には昼間の授業で使われた文字がまだ消されずに残り窓際の植物は夜風に揺れることもなくじっと佇んでいた。
誰もいない。
……そう思った時だった。
教室の一番後ろ。
掃除用具入れの横を小さな白い影が机の陰へ、まるで誰かとかくれんぼでもしているかのように、ひょい、と楽しげに隠れる姿が俺の目に映った。
早苗もそれを見たらしく小さく息を呑んだがその白い影からは恐ろしさではなく誰かと遊びたくて仕方がない子どものような、どこか無邪気な気配だけが静かに漂っていた。