夜の諏訪は静かだ。
学校からの帰り道、街灯の下を歩きながら俺は腕時計を見た。
21時12分。
「……また遅くなってしまったか」
小さく呟く。
最近はこれが普通になっていた。
早苗と湖へ行ったり、学校に残ったり、怪談の場所を見に行ったり。
気が付くとあっという間に時間が過ぎている。
家の門が見えた。
書本家の屋敷。
昔はそれなりに名のある家だったらしい。
今はただの古い家だ。
門を開ける。
玄関の灯りがついていた。
「……あ」
嫌な予感がした。
引き戸を開ける。
「ただいま」
間を置かず声が飛んできた。
「護」
父だ。
居間に座っている。
腕を組んでいる。
これは怒っている顔だ。
「最近」
父が言う。
「帰りが遅いな」
俺は靴を脱ぎながら言う。
「部活だよ」
「お前部活やってないだろ」
即座に返された。
しまったな…。
父はため息をつく。
「学校は五時には終わる」
「最近は九時になったんだ」
「何をしてる」
俺は肩をすくめた。
「友達と話してるだけ」
父の目が細くなる。
「……本当か」
沈黙。
父が低い声で言った。
「護」
「まさか」
「お前祓い屋なんてこと、してないだろうな」
空気が止まった。
母が台所から顔を出す。
「あなた」
父は構わず続ける。
「もう関わるなと言ったはずだ。書本家は終わったんだ」
俺は笑った。
わざと軽く。
「父さん、俺にそんなこと出来るわけないだろ」
父は黙った。
しばらくして言う。
「……そうだな。お前にそんな力はない」
胸の奥で何かが引っかかった。
でも俺は何も言わなかった。
母が言う。
「ご飯、温め直すね」
「ありがとう」
それで話は終わった。
でも父の視線は少しだけ疑っていた。
夜。
家の中が静かになる。
時計が十二時を回った。
俺は布団から起きた。
廊下に出る。
足音を立てないように歩く。
裏口を開ける。
冷たい夜風。
庭の奥に小さな建物がある。
蔵。
書本家の蔵。
子供の頃は入るなと言われていた。
今は誰も来ない。
鍵はかかっていない。
扉を押す。
ギィ……
そんな古い音がする。
中は暗い。
懐中電灯をつける。
光が棚を照らした。
埃。
木箱。
巻物。
古い道具。
ここにはまだ残っている。
祓い屋だった頃の書本家。
棚の一つに紙束がある。
俺は一枚取った。
ヒトガタ。
今使っているのと同じ形。
でも紙の質が違う。
古い和紙。
箱の中には札がある。
「封」
「鎮」
「縛」
墨で書かれた文字。
別の棚には壺が並んでいる。
小さな壺。
蓋には紙が貼られている。
封印の札。
俺は一つを持ち上げた。
中から微かな音。
カタ…
俺はそっと戻した。
「……まだあるのか」
昔、祖父が言っていた。
この家は紙使いだった。
札。
ヒトガタ。
結界。
それで怪異を祓っていた。
でも血が薄れた。
誰も見えなくなった。
誰も祓えなくなった。
それで終わった。
蔵の奥に机がある。
古い陣が描かれていた。
円。
文字。
結界の線。
俺は懐中電灯を机に置いた。
ヒトガタを一枚出す。
指で持つ。
少し息を吐く。
ヒトガタが微かに揺れた。
……やっぱり。
俺にはまだ残っている。
完全に消えたわけじゃない。
「護」
声がした。
俺は振り向いた。
蔵の入口に父が立っていた。
懐中電灯の光が止まる。
沈黙。
父が言う。
「やっぱり来たか」
俺はヒトガタをポケットに入れた。
「……眠れなくて」
父はゆっくり中に入る。
棚を見る。
壺を見る。
巻物を見る。
そして言う。
「全部…昔の残り物だ」
俺は黙っていた。
父が言う。
「祓い屋なんてろくなものじゃない」
「怪異に関わるそして人も死ぬ」
「家も壊れる」
父は蔵の奥を見る。
「だから終わらせた。終わったんだ」
静かな声だった。
怒っていない。
ただ疲れている。
「護」
父が言う。
「怪談も幽霊も忘れろ。それが一番だ」
俺は少し笑った。
「そうだな」
それで話は終わった。
父は蔵を出ていく。
扉が閉まる。
また静かになった。
俺は机に手を置いた。
懐中電灯の光が揺れる。
ポケットからヒトガタを出す。
指で挟む。
「……忘れろ、か」
頭に浮かぶのは
緑色の髪。
諏訪湖の夜。
氷の道。
早苗の声。
――護くん。
俺は小さく息を吐いた。
「無理そうだな」
ヒトガタを折りたたむ。
ポケットに戻す。
蔵の奥にはまだある。
封印の壺。
祓いの札。
結界の陣。
書本家の道具。
全部眠っている。
でもそのうちまた使う。
まだ怪談が怪異がある。
そしてあいつはきっとまた言う。
「護くん」
「次の怪談、行きませんか?」
俺は懐中電灯を消した。
蔵は暗くなる。
でも不思議と怖くはなかった