俺と早苗は思わず足を止めた。
教室の一番奥。
掃除用具入れの陰へ隠れるように消えた白い影は、それきり動かない。
俺は目を凝らす。
月明かりだけが差し込む教室は昼間とはまるで違う表情を見せていた。
整然と並んだ机は誰かを待ち続けているように静まり返り、椅子は一脚も乱れていない。
黒板には今日の授業で使われた数式や先生の字がそのまま残されていて「宿題」「提出日」という文字だけが白く浮かび上がって見えた。
教室という場所は昼間、人がいて初めて完成する場所なのだと改めて思う。
誰もいない今はそこに残されているのは人が過ごした時間の跡だけだった。
静かだった。
聞こえるのは遠くを歩くクラスメート達の笑い声だけ。
「まだ来ないのかー!」
「書本ー!」
「置いてくぞー!」
そんな楽しそうな声が廊下の向こうから小さく聞こえてくる。
その声を聞いて早苗が少しだけ安心したように笑う。
「皆さんは大丈夫そうですね」
「そのようだな」
俺も頷く。
少なくとも今この怪異はクラスメート達へ興味を向けてはいない。
俺はゆっくり教室へ一歩だけ足を踏み入れた。
床板が小さく軋む。
その音だけが夜の教室へ響いた。
「失礼します。」
早苗も小さく頭を下げて俺の少し後ろから教室へ入る。
夜の学校へ忍び込んでいる立場で「失礼します」と言うのもおかしな話だが早苗らしいと思い少しだけ口元が緩んだ。
教室の奥へ向かって歩く。
一列目と二列目と机の間をゆっくり進んでいく。
机の上には何も置かれていない。
誰かが忘れた鉛筆一本すらない。
掃除もきちんと終わっている。
いつもの学校だな。
何も変わらない。
それなのに…
「……護くん」
早苗が小さく囁く。
「寒くありませんか」
言われて初めて気付く。
教室の中央までは夏の夜らしい温度だった。
しかし一番後ろへ近付くほど空気が少しずつ冷えている。
冷房ではないもっと柔らかな冷たさ。
冬を思わせるほどではないが夏とは思えない空気だった。
俺は静かに頷く。
「感じるな」
「やっぱり…」
早苗も同じらしい。
二人は掃除用具入れの前まで歩いた。
白い影が隠れた場所。
そこには誰もいなかった。
「……」
「いませんね…」
俺は掃除用具入れの陰を覗く。
どれも昼間と変わらない。
誰かが隠れられるほど広い場所ではない。
「見間違い……ではないですよね」
「あれは見えた」
「はい」
早苗も迷わず頷いた。
「私も見ました」
その時だった。
カタンと小さな音がした。
俺達は同時に振り返る。
音のした方の教室の窓際、その一番後ろの席。
そこへ掛けられていた椅子がほんの少しだけ揺れていた。
風はなく窓も閉まっている。
なのに椅子だけが誰かが今座ったかのようにゆっくりと揺れていた。
木と金属が擦れる音。
揺れは次第に小さくなりやがて止まる。
俺はその席を見る。
でも名札はない。
だがこの教室を使う一年四組の誰かの席だ。
昼間はきっとその生徒が友達と笑いながら座っている場所。
今は誰もいない。
「誰か座ったみたいでしたね」
早苗が静かに言う。
「そうだな」
俺は席へ近付いた。
机の表面をそっと指でなぞる。
冷たいな…。
教室の他の机より少しだけ冷えている。
それだけだった。
悪意はなければ呪いもない。
ただ誰かがそこへいたと、そんな気配だけが残っていた。
「護くん」
「どうした」
「この子……」
早苗は窓の外を見ながら続ける。
「誰かを驚かせたいわけではない気がします」
「俺もそう思うよ」
「何かを探しているような…」
その言葉を聞いて俺は教室全体を見渡した。
教室の後ろにある掲示板。
一枚だけ色褪せた画用紙が貼られていた。
他は最近の学級新聞や係活動の掲示だ。
だがその画用紙だけは古かった。
いつ貼られたのか分からないほど端が少し丸まり画鋲も錆び始めている。
「……。」
俺は自然とその前へ歩いていく。
画用紙には子どもの絵が描かれていた。
大きな太陽が描かれていて青い空が見えて校庭があり笑っている先生の姿だ。
そして手を繋いで歩く小さな男の子と女の子。
幼い頃に描いたようなどこかぎこちない絵。
その下へ小さな字で一言だけ書かれていた。
『また あした せんせい』
俺はしばらくその文字を見つめていた。
「護くん……」
早苗も隣へ来る。
「優しい絵です」
「ああ」
その時だった。
教室のどこからともなく本当にすぐ近くで幼い子どもの声が聞こえた。
「……せんせい」
俺も早苗も反射的に振り返る。
誰もいない。
だがその声には恐怖も恨みもなかった。
ただ明日もまた会えると信じて疑わない子どもが先生を呼ぶような、あまりにも無邪気で寂しげな一言だけが静かな夜の教室へそっと溶けて消えていった。
ここまで読んでくれてありがとうございます。
肝試しはここでおしまいです