肝試しの翌日。
夏休みに入った学校は不思議なくらい静かだった。
終業式まで毎日聞こえていたチャイムも教室から漏れる笑い声もない。
朝から照り付ける夏の日差しだけが校舎の白い壁を眩しく照らしてアスファルトからは陽炎が立ち昇っている。
校門をくぐった瞬間、俺は昨日までとはまるで別の場所へ来たような感覚を覚えた。
それでも学校は止まってはいない。
校庭では野球部が白球を追い掛け、掛け声が青空へ響いている。
体育館からはバスケットボールが床を叩く音が聞こえ、校舎のどこかでは吹奏楽部が基礎練習をしているのだろう、トランペットやクラリネットの音が途切れ途切れに流れてくる。
「護くん」
隣を歩く早苗が日傘を少し傾けながら微笑む。
「今日は暑いですね」
「昨日の夜とは大違いだな」
「はい。あの時は少し肌寒いくらいでした」
二人はゆっくり昇降口へ向かう。
夏休み中ということもあり下駄箱には靴がほとんどない。
部活動の生徒のものが少し並んでいるだけで普段なら生徒で埋め尽くされる場所は驚くほど広く感じられた。
靴を履き替えながら俺は何気なく言う。
「そういえば夏休みでも先生は学校にいるんだよな」
「はい」
早苗は慣れたように答える。
「職員会議とかもありますし二学期の準備もありますから。それに夏休み中でも補習や追試、委員会とか三者面談がありますから」
「なるほど」
「図書室も開いていますよ」
「そうなのか」
「今日は図書当番なんです」
早苗は少し嬉しそうだった。
「本の貸し出しや返却のお手伝いをします」
「図書委員は夏休みは仕事なんだな」
「仕事というほどではありませんけどね」
早苗は照れたように笑う。
「本は好きなので私は結構楽しみにしているんです」
「早苗らしい」
「ふふ」
二人は廊下を歩き始める。
昼間の校舎は昨夜とはまるで違う。
大きな窓から差し込む太陽の光が床を明るく照らし蝉の鳴き声が校舎中へ響いている。
昨日あれほど不気味に感じた一年棟の廊下も今はどこにでもある学校の風景だった。
それでも俺は昨日あの小さな足跡があった場所へ視線を向ける。
もちろん何も残っていない。
床は乾き、掃除もされている。
昨日の出来事だけが夢だったように思えるほどそこには何の痕跡もなかった。
「護くん」
「ん?」
「やっぱり昨日のことが気になりますか」
「ああ」
俺は素直に頷く。
「悪いものには思えなかった」
「私もです」
「だから余計にな」
早苗も静かに頷いた。
「あの子は先生を探しているようでした」
「俺もそう思う」
しばらく沈黙が続く。
やがて図書室の前へ着く。
ガラリと扉を開けると、冷房の効いた涼しい空気が二人を迎えた。本棚にはきれいに整理された本が並び、夏休みということもあって数人の生徒が静かに本を読んでいる。
昼間の図書室独特の落ち着いた空気は外の暑さを忘れさせるほど穏やかだった。
「東風谷さん、おはよう」
図書担当の先生が笑顔で声を掛ける。
「おはようございます」
早苗も丁寧に頭を下げた。
「今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ」
先生は微笑み、それから護へ目を向ける。
「書本くんも本を借りに?」
「あとで少し借りるかもしれません」
護は軽く笑って答えた。
「ちょっと職員室へ用事があって…行ってきます」
「そう」
先生はそれ以上は聞かず、またカウンターの仕事へ戻っていった。
早苗は護へ向き直る。
「私はここにいます」
「終わったら迎えに来る」
「はい」
二人は短く言葉を交わす。
特別な約束ではない。
いつもと変わらないやり取りだった。
俺は職員室へ向かって歩き始める。
廊下には先生方の話し声が小さく聞こえてきた。
印刷機の動く音や紙をめくる音が静かに響いている。
教室から生徒の声が聞こえない代わりに学校を支える大人たちの仕事の音だけが校舎を満たしていた。
職員室の前まで来ると俺は小さく深呼吸をする。
昨日の出来事をどう説明すればいいのか自分でもまだ決め切れてはいなかった。
ただ一つだけ確かなのは、あの「せんせい」という小さな声が今も頭から離れないということだった。
護は静かに職員室の扉をノックした。
「失礼します」
護が扉を開けると職員室独特の空気が静かに流れてきた。
冷房の涼しさの中に紙の匂いとインクの匂いが混ざっている。
先生達はそれぞれ自分の机へ向かい教材を作ったりプリントを束ねたりパソコンへ向かって入力作業をしたりしていた。
夏休みだからといって暇になるわけではないらしい。
教室に生徒がいないだけで、学校という場所は今日も普段通り動いているのだと改めて感じた。
「お?」
担任の先生が俺へ気付いた。
「書本じゃないか」
先生は少し驚いたように笑う。
「どうした?追試…ではないよな用事か?」
「まぁはい」
俺は職員室へ入り、軽く頭を下げる。
「少し聞きたいことがありまして」
「聞きたいこと?」
「はい」
先生は手を止めた。
「ちょっと待ってな」
そう言って立ち上がると、職員室の奥にある応接用の丸テーブルへ俺を案内した。
「ここなら落ち着いて話せる」
「ありがとうございます」
俺も椅子へ腰を下ろす。
職員室の中では他の先生方が忙しそうに動いているがこの場所だけは少しだけ静かだった。
先生は笑いながら言う。
「夏休みに学校へ来るなんて珍しいな。本でも借りに来たのか?」
「それもありますが…」
俺は少しだけ言葉を選ぶ。
「早苗が図書当番なので一緒に来ました」
「あぁ」
先生は納得したように笑った。
「東風谷さんは真面目だな。2人は仲が良いんだな」
「はい。そうですね」
俺も少しだけ笑う。
その空気のおかげで緊張が少し解けたが今日聞きたいことは雑談ではない。
一度呼吸を整えた。
「先生」
「うん?」
「少し昔の学校のことを聞きたいんです」
「昔?」
「はい」
先生は首を傾げる。
「どういうことだ?」
「一年棟についてなんですが」
その言葉を聞いた瞬間、先生は少しだけ考えるような表情になった。
「一年棟?」
「はい」
「昔、この学校で何か事故や事件があったことはありませんか」
先生はすぐには答えなかった。
記憶を辿るように腕を組む。
「いやぁ……」
「俺が赴任してきたのは十年くらい前だ。それ以前のことは詳しく知らないぞ」
「そうですか…」
「ただ」
先生が続ける。
「どうしてそんなことを聞くんだ?一年棟で何かあったのか?」
少しだけ迷った。
夜中に忍び込んで肝試しをしたとは言えないしな。
だから嘘ではない範囲で答える。
「学校の怪談ってありますよね」
「ああ」
「友達とそういう話になったんですよ。この学校にも昔から何か噂があるのかなと思いまして」
先生は思わず笑った。
「なるほど」
「高校生らしい理由だ。まあ夏休みになると毎年誰かが聞きに来るんだよ」
護も少し苦笑する。
「そうなんですか」
「ああ。」
先生は椅子へ深く座り直した。
「でも有名な七不思議みたいなのは、この学校はあんまり聞かないな。よくある話は…階段が増えるとか音楽室の肖像画が動くとか。理科室の人体模型が歩くとか、そういう話も聞いたことがない」
「そうなんですね」
「うん」
先生は笑いながら続ける。
「でも」
その一言で空気が少し変わる。
「一つだけ俺が赴任してきた時に、先輩の先生から聞いた話があるな」
俺は自然と姿勢を正した。
先生は少し遠くを見るような目になる。
「あくまで噂だ。昔、この学校へ長く勤めていた先生達の間で語られていた話だ。念押しするが本当かどうかは分からない」
「それでもいいです」
俺は静かに答える。
先生は一度頷いた。
「一年棟には」
そこで一拍置く。
「夏休みになると時々小さな女の子が先生を探して歩いている」
俺の鼓動が一瞬だけ速くなる。
先生はもちろん俺の変化には気付かない。
「見たという人はほとんどいない。まあ正確には見た"気がした"という話ばかりだ。廊下で誰かが横切った気がした。教室の扉が少しだけ開いていた。誰もいない教室から子どもの笑い声が聞こえた気がした。そういう曖昧な話ばかりだよ」
俺は昨日転んだ男子の姿を思い出していた。
"誰かが横切った気がした。"
その言葉が先生の口から語られた噂と、ほとんど同じだった。
先生の話を聞きながら、俺は昨日の夜の出来事を一つ一つ思い返していた。
廊下へ残っていた小さな足跡。
掃除用具入れの陰へ隠れた白い影。
誰もいない教室で揺れた椅子。
掲示板へ貼られていた幼い子どもの絵。
「……せんせい。」
あの小さな声。
どれも目の前の先生が知っているはずはない。
それでも先生の口から語られる話は、まるで昨日の出来事を見ていたかのように一致していた。
先生は湯飲みへ手を伸ばし一口だけお茶を飲む。
「まぁ…本当に噂なんだけどな。他先生方も『またそんな話か』くらいにしか思っていないよ。実際に見たという人もいないし昔からそういう話が残っているだけだ」
俺は静かに尋ねる。
「その女の子って何歳くらいなんですか」
先生は首を横へ振る。
「そこまでは分からない、でも小さい子だったってよく聞く。小学校へ入る前くらいだったと言う人もいれば、小学校低学年くらいだったと言う人もいる。ほんとに曖昧なんだ」
俺は心の中で小さく頷いた。
やはり噂だけでは細かい部分までは伝わっていない。
見えない人が「見えた気がした」程度の話なら当然だ。
先生は続ける。
「これの面白いのはな。その子を見たって話じゃない。その子がいる"気がした"って話ばかりなんだ。例えば廊下で誰かが横切ったような気がしたとか。誰もいない教室を思わず振り返ったとか。階段で小さな足音が聞こえた気がしたとか。全部そんな程度なんだ」
先生は苦笑する。
「学校七不思議っていうほど派手じゃないからな。生徒達もそのうち忘れてしまう。でも昔の先生は…」
先生は少しだけ懐かしそうな顔になった。
「『先生を探してるんだろうな』ってよく言ってた」
「先生を探している……。」
俺は思わずその言葉を繰り返した。
「理由は誰も知らない」
「だから『かわいそうだな』って、それだけさ」
先生は肩をすくめる。
「結局、昔話なんてのはそんなもんだ。途中だけ残って肝心なところは誰も知らない話だ」
職員室には再び静かな時間が流れる。
どこかでコピー機が動き始める音が聞こえ、廊下からは部活動の生徒が走る足音が微かに響いてくる。
俺は机の上へ視線を落とした。
先生は何も知らない。
いや、この学校の先生達も知らないのだろう。
噂だけが残り本当の理由は誰にも伝わらなかった。
俺は少し考えてから、もう一つだけ質問をした。
「先生、昔の学校の資料って残っていますか」
「資料?」
「例えば学校の沿革とか、昔の行事とか、卒業アルバムとか」
先生は少し驚いたように笑う。
「ずいぶん興味を持つんだな?歴史の自由研究でもするのか?」
「検討に検討をします」
俺も曖昧に笑って返した。
もちろん本当の理由は言えない。
先生は俺の言葉に少し笑って考え込む。
「職員室にもあるが大したことは書いてないぞ」
「創立何年とか。校舎を建て替えたとか。そういう記録ばかりだが…」
先生はふと何かを思い出したように指を鳴らした。
「ああ、そうだ。図書室に郷土資料の棚があったな」
「郷土資料?」
「学校史とか市史とか昔の写真集とかな。あんまり生徒は読まないらしいが図書委員とかならわかるかもしれないな」
俺は思わず笑ってしまった。
「早苗なら知ってそうですね」
「知ってるかもしれないな」
その言葉を聞いて俺は小さく息を吐いた。
職員室ではここまでか。
なら次は図書室だな。
早苗ならもしかしたらきっとあの棚がどこにあるか知っている。
それにただ噂を追うだけではなく学校そのものの歴史を調べれば昨日見たあの小さな子へ繋がる何かが見つかるかもしれない。
俺は椅子から立ち上がり先生へ頭を下げた。
「ありがとうございました」
「おう」
先生も穏やかに頷く。
「何も役に立てなくて悪かったな」
「いえ」
俺は笑って答えた。
「十分参考になりましたよ」
そう言って職員室を後にした。
扉を閉めると廊下には夏休みらしい静けさが戻る。
窓から差し込む強い日差しが床を白く照らし、その光の先には図書室へ続く長い廊下が真っすぐ伸びていた。
「さて……と」
俺は小さく呟く。
「次は図書室だな」