風の祝が奇跡を運んでくれることを   作:ミスブルー

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夏休みの調べ物

俺はゆっくりと図書室へ向かって歩き始めた。

 

昼休みなら生徒達で賑わう廊下も夏休みの今は蝉の鳴き声だけが窓の外から聞こえてくる。

校庭では野球部の掛け声が風に乗って届き体育館からはバスケットボールをつく乾いた音が規則正しく響いていた。

 

学校は静かだった。

けれど、決して止まっているわけではない。

誰かが部活動に励み先生は仕事をし生徒は本を借りに来る。

 

そんな日常がゆっくりと流れている。

昨日の夜、一年棟で感じた張り詰めた空気とは正反対だった。

図書室の前まで来ると、中から小さな話し声が聞こえてきた。

 

「ありがとうございました」

 

「はい。またどうぞ」

 

聞き慣れた声だった。

 

ガラガラ、と扉を開ける。

 

「失礼します」

 

冷房の効いた涼しい空気が俺を包む。

入口近くの貸し出しカウンターでは早苗が小学生くらいの男の子へ本を手渡していた。

 

「返却日は二週間後になります」

 

「はい!」

 

男の子は元気よく返事をすると本を大事そうに抱えて図書室を出て行った。

 

その姿を見送ってから早苗が俺へ気付く。

 

「あ、お帰りなさい」

 

「ただいま」

 

思わずそう返事をすると早苗はくすっと笑った。

 

「学校なのになんだか守矢神社みたいですね。」

 

「確かにな」

 

俺も笑ってしまう。

 

「先生とはお話できましたか?」

 

「あぁできたよ」

 

「何か分かりましたか?」

 

俺はカウンターへ近付き、小さく頷く。

 

「噂だけだけどな」

 

「やっぱり一年棟で小さな女の子を見たって話は昔からあるらしいんだ」

 

早苗の表情が少しだけ真剣になる。

 

「そうでしたか」

 

「でも見た、じゃなくて見た気がした。」横切った気がした。足音が聞こえた気がした。そういう曖昧な話ばかりらしくてな」

 

早苗は静かに息を吐く。

 

「やっぱりこういうものは普通の方だと、はっきりとは見えないんですね」

 

「ああ、当然と言えば当然だがそうなのかもな。これは俺達だから見えたことだな」

 

二人の間に少しだけ沈黙が流れる。

図書室の時計だけが、カチ、カチ、と静かに時を刻んでいた。

やがて早苗が思い出したように言う。

 

「そうでした。他に先生から何か言われませんでしたか?」

 

「ああ。郷土資料の棚があるって教えてもらった。なんかあんまり生徒には読まれないんだって?」

 

そう言うと早苗は「ああ」と納得したように頷いた。

 

「ありますよ」

 

「知ってるのか。」

 

「はい」

 

早苗は嬉しそうに笑う。

 

「実は図書委員になって最初に教えていただきました。普段はあまり利用されませんけど、市史や学校史、それから昔の新聞をまとめた資料も置いてあります」

 

俺は少し驚く。

 

「新聞まであるのか」

 

「コピーですけどね。古い記事を冊子にまとめたものがあります」

 

「なるほど」

 

それなら十分だ。

俺達が知りたいのは、小さな女の子の正体ではなく一年棟で何があったのかという事実なのだから。

早苗はカウンターの奥を振り返る。

 

「今は利用する方もいませんし……」

 

図書担当の先生へ声を掛ける。

 

「先生」

 

「はい?」

 

「少し郷土資料の整理をしてきてもよろしいでしょうか」

 

図書担当の先生は笑顔で頷いた。

 

「ええ、いいですよ。お願いします」

 

「書本くんも一緒?」

 

「はい」

 

「何か調べものをしたいそうなので」

 

「そう。じゃあ書本くんもお願いね」

 

先生は特に不思議がる様子もなく笑う。

 

「奥の資料は読む人があまりいないから少し埃っぽいの。気を付けて」

 

早苗は丁寧に頭を下げる。

 

「ありがとうございます。」

 

カウンターを出ると早苗は小さく俺へ微笑んだ。

 

「行きましょう」

 

「案内してくれるか」

 

「もちろんです」

 

図書室の奥へ歩いていく。

新刊が並ぶ棚を過ぎ、小説の棚を過ぎ、参考書や辞典の棚も通り過ぎる。

利用する生徒はほとんどこちらまで来ないのだろう。

奥へ進むほど人の気配が薄くなっていく。

窓際には古い木製の本棚が並び、その一角だけ空気が少し違っていた。

そこには『学校史』『諏訪市史』『地域史料』『創立記念誌』『卒業記念誌』など、年月を感じさせる分厚い本が静かに並んでいる。

新しい本のようなインクの香りではなく、長い年月を重ねた紙の匂いが漂っていた。

 

「ここですよ」

 

早苗は静かに言った。

 

「図書室で一番古い資料が置いてある場所です」

 

俺はゆっくり本棚へ目を向ける。

 

昨日見た小さな女の子。

 

「せんせい。」

 

というあの声。

そして先生が話してくれた、昔から残る噂。

その全ての答えがこの古びた本棚のどこかに眠っているような気がして俺はゆっくりと一冊目の学校史へ手を伸ばした。

 

俺は本棚から一冊の分厚い学校史をゆっくりと引き抜いた。

思っていた以上に重いな…。

 

長い年月を本棚へ並び続けてきたのだろう。

表紙の布地は少し色褪せ、角は擦り切れて丸くなっている。

それでも大切に扱われてきたことが分かるほど状態は良かった。

 

「創立五十周年記念誌……」

 

俺は表紙の文字を小さく読む。

 

「結構古いですね」

 

隣で早苗も覗き込む。

 

「この学校ができてから五十年の記録みたいです」

 

「まずは見てみるか」

 

俺達は近くの閲覧机へ向かい、本を静かに開くと古い紙の匂いがふわりと漂う。

 

中には歴代校長の写真、学校が建てられた頃の航空写真、開校式の様子、運動会、文化祭、卒業式など、学校の歴史が年代順に丁寧にまとめられていた。

 

「……すごいな」

 

思わず声が漏れる。

今とは全く違う校舎。

砂利だった校庭。

まだ植えられたばかりの若い桜。

制服のデザインも違うような…。

学校というものは何十年もかけて少しずつ形を変えてきたのだと、写真一枚一枚が物語っていた。

 

早苗も興味深そうにページをめくっている。

 

「護くん見てください」

 

「ん?」

 

「昔はプールがありません!」

 

「あ、本当だ。プールなかったのか」

 

今では当たり前にあるプールも最初から存在していたわけではないらしい。

 

建設された年が記録され、その時の記念写真まで載っている。

 

「面白いな」

 

「はい」

 

二人はしばらく学校の歴史を眺めていた。

でも目的は違う。

俺はゆっくりとページをめくる速度を上げていく。

 

学校行事。

 

改築。

 

創立記念。

 

周年式典。

 

どれも大切な記録だ。

しかし探しているものではない。

 

「……うーん」

 

ページを閉じる。

 

「なさそうですね…」

 

早苗も同じ結論だったらしい。

 

「事故や出来事については書かれていません」

 

「まあ、やっぱ記念誌だからな」

 

悪い出来事をわざわざ載せることはしないだろう。

俺は本を元の場所へ戻した。

 

「次だな」

 

「はい」

 

今度は『学校沿革史』と書かれた冊子を手に取る。

こちらはもっと事務的だった。

 

校舎増築。

 

校長交代。

 

校歌制定。

 

部活動創設。

 

年表だけが淡々と並んでいる。

二人で最後まで確認したがそれらしい記述は見当たらない。

 

「こちらも違いますね」

 

「ああ。」

 

再び本棚へ戻る。

 

「護くん」

 

早苗が一冊の青い背表紙を見つめていた。

 

「これはどうでしょうか」

 

俺も視線を向ける。

 

『諏訪市教育史 学校編』

 

学校だけではなく市内全体の教育についてまとめられた本らしい。

 

「見てみようか」

 

早苗が慎重に取り出す。

こちらはさらに分厚かった。

閲覧机へ置くと、小さく鈍い音が響く。

 

「重いですね……」

 

「さすがにこれは読むだけでも時間が掛かりそうだ」

 

「はい」

 

俺達は索引から探すことにした。

 

「学校名……」

 

「ありました」

 

早苗がページを開く。

該当するページへ移る。

 

そこには創立の経緯や校舎建設の記録、学区変更などが詳しく載っていた。

 

「やっぱり歴史の本ですね」

 

「そうだな」

 

当たり前だがそうそう怪異には繋がらない。

そう思った時だった。

 

早苗の指が一か所で止まる。

 

「あ……」

 

「どうした」

 

「護くん」

 

「ここ」

 

俺は身を乗り出す。

 

早苗が指差していたのは本文ではなく、小さく載せられた古い白黒写真だった。

 

校舎の写真。

今の一年棟とほぼ同じ場所を撮影したものだ。

建物は昔のままだが、構造はよく似ている。

 

その写真の説明には、

 

『旧校舎 一年棟廊下』

 

とだけ書かれていた。

 

「一年棟……」

 

俺はその写真をじっと見つめる。

昼間の何気ない廊下に何人もの先生と子ども達が写っている。

どこにでもある学校の一枚だ。

だが俺の目は別のものを見つけていた。

 

写真の一番端、廊下の窓際の先生達の後ろ。

そこに小さな女の子が一人だけ立っている。

 

他の子ども達と違い誰とも手を繋がずただ静かに職員室のある方向を見つめていた。

写真は古く粒子も粗い。

偶然そう見えるだけなのかもしれない。

それでも、その姿は昨日俺と早苗が見た白い小さな影と不思議なくらい重なって見えた。

 

「……早苗」

 

俺は小さく呼ぶ。

 

「はい」

 

「この子…見えるか」

 

早苗は写真へ顔を近付け、しばらく黙って見つめていた。

そして静かに頷く。

 

「はい……見えますよ」

 

図書室は相変わらず静かだった。

遠くでは本をめくる音が聞こえ、カウンターでは図書担当の先生が貸し出しの手続きをしている。

その穏やかな空気の中で俺と早苗だけが一枚の古い写真に写る小さな女の子から目を離せずにいた。

 

古い白黒写真。

 

画質は決して良いとは言えない。

 

何十年も前の写真らしく全体が少しぼやけ細かな部分は判別しにくい。

それでも校舎の形や廊下の窓、写っている先生や生徒達の姿は十分に確認できる。

そして、その一番端に立つ小さな女の子だけがまるで誰にも気付かれないよう静かに佇んでいた。

 

「……。」

 

偶然か?。

写真というものは光の加減や影で人の形に見えることもある。

 

それなのに俺にはどうしても"そこにいる"ようにしか見えなかった。

 

「護くん」

 

早苗も写真を見つめたまま小さく話しかける。

 

「この写真……昨日見た子に似ています」

 

「俺もそう思ったよ」

 

昨日の夜に見た白い影。

掃除用具入れへ隠れるように走った姿。

教室で聞こえた「せんせい」という声。

写真の少女と重ね合わせるには材料が少なすぎる。

 

それでも胸の中で何かが引っ掛かっていた。

俺は写真の下へ書かれた説明文を読み直す。

 

『旧校舎 一年棟廊下』

 

それだけだった。

そこに写る子ども達の名前も書かれていない。

 

「情報が少ないな」

 

「はい」

 

早苗も静かに頷く。

 

「これだけでは何も分かりませんね」

 

俺は本を閉じずさらに前後のページをめくっていく。

学校創立当時の記事。

 

運動会。

 

遠足。

 

校舎増築。

 

どれも学校の歴史としては貴重な資料だが、あの写真について触れた文章はどこにも見当たらなかった。

 

「やっぱり写真だけかな」

 

「そうみたいですね」

 

その時だった。

 

「東風谷さん、書本くん」

 

後ろから穏やかな声が聞こえた。

振り返ると図書担当の先生がこちらへ歩いて来ていた。

 

「何か面白い資料でも見つかった?」

 

先生は笑顔のまま机の上へ視線を向ける。

 

「教育史を読んでいたんだね。」

 

「はい」

 

俺は正直に答える。

 

「学校の歴史を少し知りたくて」

 

「珍しいね」

 

先生は少し嬉しそうだった。

 

「この棚を利用する生徒さんなんて一年に何人いるか分からないくらいなのよ」

 

「そうなんですか」

 

「ええ」

 

先生は本へ手を添えながら懐かしそうに笑う。

 

「でもこの辺りの資料は卒業生の方が寄贈してくださったものも多いから大事にしているの」

 

早苗も丁寧に頷く。

 

「私も図書委員になって初めて知りました」

 

「そうだったわね」

 

先生は優しく微笑んだ。

俺は少しだけ迷ったが、この機会を逃したくなかった。

 

「あの、この写真なんですけど」

 

先生へ本を向ける。

 

「この一年棟の写真ってもっと詳しい資料は残っていませんか」

 

先生は眼鏡を少し上げながら写真を覗き込む。

 

「この写真?」

 

「一年棟の昔の様子を見てみたくて。」

 

もちろん、本当は違う。

知りたいのは写真そのものではなく、この写真へ写っている少女のことだ。

だが今はそれを口にするつもりはなかった。

先生は写真をじっと見つめる。

 

「うーん……」

 

少し考え込む。

 

「この写真自体は見たことがある気がするわ」

 

「本当ですか」

 

「ええ」

 

先生は記憶を辿るように天井を見る。

 

「確か……学校史を作る時に借りた写真だったような……」

 

「借りた?」

 

俺は思わず聞き返した。

 

「そう、学校に最初からあった写真じゃなかったと思うの」

 

先生はゆっくり頷いた。

 

「昔の卒業生の方や先生方から昔の写真をたくさん借りて学校史へ載せたって聞いたことがあるわ。」

 

「じゃあこれは元の写真があるんですか」

 

「あるかもしれない」

 

先生は曖昧に答える。

 

「でも図書室にはないわね職員室でもないと思う。昔の写真や学校の古い資料は確か資料保管室へまとめて保管していたはずよ」

 

「資料保管室……」

 

俺はその言葉を小さく繰り返す。

学校にはまだ俺の知らない場所があるらしい。

 

先生は少し困ったように笑う。

 

「でもあそこは普段ほとんど開けないの。鍵も教頭先生が管理しているし、勝手には入れないわ」

 

「そうですよね。」

 

俺も苦笑した。

さすがに資料保管室へ自由に入れるとは思っていない。

 

「もし調べるなら」

 

先生は少し考えてから続ける。

 

「教頭先生へ事情を話せば見せてもらえるかもしれないわ。学校の歴史について調べたいって言えばきっと喜んでくださると思う」

 

俺は軽く頭を下げた。

 

「ありがとうございます」

 

先生は穏やかに笑い、「どういたしまして」と答えると、再び貸し出しカウンターへ戻っていった。

その背中を見送りながら、俺は静かに本を閉じる。

 

図書室には再び静かな空気が流れ始めた。

早苗は俺の方を見て、小さな声で尋ねる。

 

「護くん資料保管室……行ってみます?」

 

俺はしばらく考えた。

確かに行けば何か分かるかもしれない。

 

だが昨日から追い掛けているのは怪異ではなく一人の小さな子どもの残した足跡だ。

 

焦る必要はない。

一つずつ確かめていけばいい。

そう思いながら俺は静かに頷いた。

 

「ああ。でもまずは教頭先生にお願いしてみないとな」

 

俺は静かに本を閉じた。

分かったことは決して多くない。

一年棟に残る昔からの噂。

先生を探しているらしい小さな女の子。

 

そしてその子によく似た姿が写った一枚の古い写真。

 

それだけだ。

 

だがそれだけでも昨日までは何もなかったところから一歩前へ進んだような気がした。

 

「護くん」

 

早苗が本を丁寧に揃えながら俺を見る。

 

「どうされますか」

 

「教頭先生に会いに行ってみる」

 

俺は即座に答えた。

 

「資料保管室を見せてもらえるか聞いてみるよ」

 

「はい」

 

早苗も頷く。

 

「それなら私も一緒に行きます」

 

「図書当番は大丈夫か?」

 

「利用者の方も今はいらっしゃいませんし、先生へ一言お伝えすれば大丈夫のはずです」

 

そう言って早苗はカウンターへ向かった。

 

「先生」

 

「はい?」

 

「少しだけ教頭先生へお話を伺ってきてもよろしいでしょうか。」

 

図書担当の先生は顔を上げる。

 

「ええ、いいわよ」

 

「ありがとうございます。すぐ戻ります」

 

「慌てなくても大丈夫よ」

 

先生は優しく笑った。

 

「今日は利用者さんも少ないから」

 

「はい」

 

早苗は丁寧に一礼し俺の隣へ戻ってくる。

 

「お待たせしました」

 

「じゃあ行こうか」

 

二人は図書室を後にした。

廊下へ出ると冷房の涼しさから一転して夏の熱気が肌へ伝わってくる。

 

窓の外では入道雲がゆっくりと空を流れ、校庭では野球部が休憩へ入ったらしく水筒の蓋を開ける音や笑い声が遠くから聞こえてきた。

 

「平和ですね」

 

早苗がぽつりと呟く。

 

「昨日の夜とは全然違います」

 

「ああ。」

 

俺も窓の外を見る。

 

同じ学校。

 

同じ一年棟。

 

それなのに昼と夜では、まるで別の場所だった。

 

昼は生徒や先生達が学校を満たし夜は人が帰った後に別の時間が静かに流れている。

そんな気さえした。

職員室の前を通り過ぎ、さらに奥へ進む。

教頭先生の部屋は職員室の隣にあった。

教頭室と書かれた札が静かに掛けられている。

俺は一度深呼吸をした。

 

「失礼します」

 

軽くノックをする。

 

「どうぞ」

 

落ち着いた男性の声が返ってきた。

扉を開けると、教頭先生が机へ向かって書類へ目を通していた。

五十代くらいだろうか。

眼鏡の奥の目は穏やかで書類から顔を上げると俺達へ柔らかく笑い掛けた。

 

「おや??」

 

「書本くんと東風谷さん」

 

「失礼します」

 

俺達は揃って頭を下げる。

 

「どうしたのかな?何か困ったことでもあった?」

 

「いえ」

 

俺は椅子を勧められ、腰を下ろした。

早苗も俺の隣へ座る。

 

「少しお願いがありまして」

 

「お願い?」

 

教頭先生は穏やかに頷く。

 

「話せる範囲なら何でも聞くよ」

 

俺は言葉を選ぶ。

 

「学校の歴史について調べていまして」

 

「学校の歴史?」

 

「はい」

 

「図書室で学校史を読ませていただきました。その中に昔の一年棟の写真がありまして」

 

教頭先生は「ああ」と小さく頷いた。

 

「もしかして創立記念誌かな」

 

「はい。その写真が気になってもっと昔の資料も見てみたいと思いました」

 

「図書室の先生から、資料保管室に古い写真が残っているかもしれないと伺ったんです」

 

教頭先生はすぐには答えなかった。

腕を組み、少し考え込む。

 

「資料保管室か……確かにある。学校ができた頃からの資料や写真、それに古い文書も保管してあるよ。…ただね」

 

そこで言葉を切る。

 

「ほとんど開けていないんだ。整理も追い付いていなくてね」

 

「そうなんですね」

 

「うん」

 

教頭先生は苦笑した。

 

「学校も長い歴史があるから、資料だけでも相当な量なんだ。全部を整理する時間がなかなか取れなくて…」

 

俺は静かに頷く。

無理もないな。

学校の仕事は毎年積み重なっていく。

古い資料をゆっくり整理する時間などそうそう取れるものではないのだろう。

 

すると教頭先生は俺達を見てふっと笑った。

 

「でも学校の歴史へ興味を持ってくれる生徒がいるのは嬉しいな。最近は珍しい」

 

そう言って机の引き出しを開け、小さな鍵束を取り出した。

 

金属同士が触れ合い、小さく音を立てる。

 

「少し埃っぽいけれどよければ一緒に見に行こうか」

 

俺と早苗は思わず顔を見合わせた。

思っていたよりも、ずっと話は早く進みそうだった。

 

「ありがとうございます」

 

俺は思わず頭を下げた。

まさか教頭先生自ら案内してくださるとは思っていなかった。

 

「気にしなくていいよ」

 

教頭先生は穏やかに笑う。

 

「せっかく興味を持ってくれたんだ。それに私も何年かぶりに開けることになるな」

 

そう言って鍵束を持ち上げる。

 

大小様々な鍵が十本以上付いており、その中の一つだけが古びた真鍮色をしていた。

 

「資料保管室は旧校舎を増築した時からある部屋だからね。鍵も昔のままなんだ」

 

教頭先生は立ち上がる。

 

「行こうか」

 

「はい」

 

俺と早苗も立ち上がった。

三人で教頭室を出る。

昼下がりの廊下は静まり返っていた。

窓から差し込む強い日差しが床へ長方形の光を落とし、その上を俺達の影がゆっくりと横切っていく。

 

歩きながら教頭先生が話し始めた。

 

「書本くんは学校の歴史が好きなのかな」

 

「好きというほどではありません」

 

俺は正直に答える。

 

「でも昔から残っているものには興味があります」

 

「なるほど」

 

教頭先生は頷く。

 

「そういう気持ちは大切だ。学校というのは、生徒が卒業して終わりじゃない。何十年、何百年と積み重なって一つの歴史になる。今ここを歩いている私達も、その歴史の一部なんだ」

 

その言葉を聞いて俺は昨日見た一年棟の廊下を思い出していた。

昼は生徒達が歩き。

夜になると、小さな誰かが先生を探して歩く。

長い年月の中では、そのどちらも学校の日常だったのかもしれない。

 

「東風谷さん」

 

教頭先生が振り返る。

 

「図書委員はどうかな?4カ月くらいだろうか?慣れたかな」

 

「はい」

 

早苗は笑顔で答える。

 

「毎回新しい発見があります。本を探しに来られる方とお話するのも楽しいです。」

 

「そうか」

 

教頭先生は嬉しそうに笑った。

 

「他の先生から話を時々聞いていてね。東風谷さんなら安心して任せられると聞いているよ」

 

「ありがとうございます」

 

早苗は少し照れながら頭を下げた。

そんな他愛ない話をしながら歩いていると、職員室や一年生の教室から少し離れた校舎の奥へ辿り着く。

 

ここまで来ると人の気配がほとんどなくなる。

普段、生徒が通ることも少ない場所なのだろう。

 

 

窓の外には中庭が広がり、風に揺れる木々の葉が夏の日差しを受けてきらきらと輝いている。

 

廊下の突き当たり。

そこには小さな鉄製の扉があった。

他の教室とは違う。

 

窓もなく木製でもない。

灰色の古い鉄扉。

上には小さなプレートが取り付けられている。

 

『資料保管室』

 

教頭先生は立ち止まった。

 

「着いたよ」

 

俺は自然と扉を見つめる。

 

昨日の夜、一年棟で感じたような気配はない。

ただ、長い年月が静かに積み重なった空気だけが漂っていた。

教頭先生は鍵束から真鍮色の鍵を探し出す。

 

「これだったかな……」

 

鍵穴へ差し込む。

少し硬かったらしく、ゆっくり力を入れる。

鈍い音を立てて鍵が回った。

 

「やっぱり久しぶりだから固いな」

 

教頭先生は苦笑する。

そしてドアノブへ手を掛けた。

ゆっくり押し開く。

古い蝶番が軋む音と共にひんやりとした空気が部屋の中から流れ出てきた。

 

冷房ではない。

日差しがほとんど入らない部屋特有の涼しさだった。

 

「失礼するよ」

 

教頭先生が先に部屋へ入る。

俺と早苗も続いた。

中は思っていた以上に広かった。

 

壁一面に金属製の棚が並び、段ボール箱やファイルケースが年代ごとに整然と並べられている。古い木箱もいくつか積まれ、棚には『昭和六十年度』『創立三十周年』『旧校舎資料』『写真原版』『卒業アルバム』といったラベルが貼られていた。

 

古い紙と木の匂い。

そして長い年月、静かに守られてきた資料だけが持つ独特の空気。

まるで学校そのものの記憶がこの部屋へ大切にしまわれているようだった。

 

教頭先生は周囲を見渡し小さく笑う。

 

「懐かしいな」

 

「私も赴任したばかりの頃、一度整理を手伝ったことがあるんだ。それ以来だから……二十年近く入っていないかもしれない」

 

俺は静かに棚へ目を向ける。

そこにはまだ誰も開いていない箱が何十箱も並んでいた。

そのどこかに、昨日の夜から追い掛けている"小さな女の子"へ繋がる記録が、今も静かに眠っているような気がしてならなかった。

教頭先生は部屋の奥へゆっくりと歩いていく。

 

「さて……」

 

棚を見渡しながら、小さく呟く。

 

「学校史を作った時の資料なら、この辺りだったかな」

 

俺と早苗も後に続く。

部屋の中は静かだった。

廊下から聞こえていた蝉の声もこの部屋では随分遠く感じられる。

棚には年代ごとに整理された箱が並び、その一つ一つへ丁寧な字で内容が書かれていた。

 

『昭和四十八年度 学校行事』

 

『創立二十五周年記念』

 

『航空写真』

 

『卒業アルバム』

 

『広報誌』

 

どれも学校にとって大切な記録なのだろう。

教頭先生は棚の一番上へ手を伸ばし、一つの段ボール箱をゆっくりと下ろした。

箱には少し色褪せたラベルが貼られている。

 

『学校史編集資料』

 

「これだ」

 

教頭先生は机代わりになっている長机へ箱を置く。

蓋を開けると、中には透明な袋へ入った写真やネガフィルム、原稿用紙、編集時のメモなどがぎっしり詰まっていた。

 

「こんなに残っていたんですね」

 

早苗が驚いたように言う。

 

「学校史を作るのも一つの大仕事だからね」

 

教頭先生は懐かしそうに一枚の写真を手に取る。

 

「掲載した写真だけじゃなく、候補になった写真も全部残してあるんだ」

 

「だから載らなかった写真も結構あるよ」

 

俺はその言葉に反応した。

 

「載らなかった写真も……」

 

「紙面には限りがあるからね。面白い写真でも泣く泣く外したものもあった」

 

俺は箱の中を見つめる。

何百枚あるのか分からない写真。

その中に、一年棟の写真もあるかもしれない。

教頭先生は一冊の分厚いファイルを取り出した。

表紙には『旧校舎写真』と書かれている。

 

「この辺りかな」

 

ページをめくる。

透明なフィルムへ古い写真が何枚も収められていた。

 

運動会。

 

始業式。

 

校庭。

 

昇降口。

 

音楽室。

 

理科室。

 

時代ごとの学校の姿が次々と現れる。

 

「昔は木造だったんですね」

 

早苗が感心する。

 

「ええ、そうなんだよ」

 

教頭先生は頷く。

 

「途中で今の校舎へ建て替わったんだ。一年棟だけは場所がほとんど変わっていない」

 

俺はその言葉を頭へ留めた。

一年棟だけは場所が変わっていない。

つまり昨日俺達が歩いた廊下と、昔の子ども達が歩いていた廊下はほぼ同じ場所ということになる。

 

教頭先生はさらにページをめくる。

 

「あった」

 

一枚の写真で手が止まる。

 

「これが学校史へ載せた元の写真だよ」

 

俺と早苗は同時に身を乗り出した。

図書室で見たものと同じ構図。

しかしこちらは原版だった。

 

大きい。

細部まではっきり見える。

俺は思わず息を呑んだ。

女の子はやはり写っていた。

しかも学校史に載っていた写真より鮮明だった。

白いワンピースではない。

 

当時の小学生らしい制服姿。

肩まで伸びた髪。

両手で何かを大事そうに抱えている。

 

そして視線だけが廊下の向こう……職員室の方向を見つめていた。

 

「昨日見た子……」

 

早苗が小さく呟く。

俺も頷く。

今度は偶然とは思えなかった。

顔立ちまでは分からない。

 

それでも昨日見た小さな影と背格好も雰囲気も驚くほどよく似ている。

教頭先生は何気なく写真の裏側を確認した。

 

「あれ?」

 

小さく首を傾げる。

 

「どうしましたか」

 

俺が尋ねると教頭先生は写真を裏返したまま少し驚いた表情になる。

 

「珍しいな…裏に何か書いてある」

 

俺と早苗は顔を見合わせた。

写真の裏側には、青いインクで消えかけた手書きの文字が残されていた。

教頭先生は慎重に読み上げる。

 

「一年棟……昼休み。」

 

そこまでは普通だった。

だがその下に続く一文を見た瞬間、教頭先生の声が止まる。

 

「……どうかしましたか」

 

俺が静かに尋ねる。

教頭先生は一度眼鏡を外しもう一度文字を見直す。

 

そして信じられないものを見るような表情で小さく呟いた。

 

「おかしい……。」

 

「この写真を撮った先生が自分への覚え書きとして書いたんだと思うんだ。でも、この一文だけ意味が分からない」

 

教頭先生は写真をそっと俺達へ向けた。

そこには消えかけた文字でこう記されていた。

 

『先生を待っている あの子も写ってしまった』

 

部屋の空気が、一瞬だけ静まり返った。

その一文は説明でも感想でもない。

 

まるで写真を撮った当時の誰かがその少女の存在を知っていたかのような書き方だった。

 

 

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