部屋の中が静まり返る。
誰もすぐには言葉を発することができなかった。
古い資料保管室には時計の音すらなく聞こえるのはどこか遠くで鳴く蝉の声だけだった。
俺は教頭先生から写真を受け取り、改めて裏面を見つめる。
『先生を待っている あの子も写ってしまった』
確かにそう書かれている。
達筆というほどではないが急いで書いたような文字でもない。
写真を整理する際、忘れないように書き残した覚え書き。
そんな印象だった。
俺はゆっくり表へ返す。
昨日の夜、一年四組で聞いたあの声が頭をよぎる。
『……せんせい』
教頭先生は腕を組み、何度も写真の表と裏を見比べていた。
「不思議だな……」
「この写真は何度も見たことがあるはずなんだけど裏まで見た記憶がない。学校史を作る時も、表だけ確認して掲載したんだろう」
俺は尋ねる。
「この字は誰が書いたものか分かりますか」
教頭先生は首を横へ振った。
「いや写真を寄贈してくださった方かもしれないし、撮影した先生本人かもしれない。名前が書いてあればよかったんだけどね」
そう言って箱の中を探し始める。
写真と一緒に入っていた封筒。
古いクリップで留められたメモ。
掲載候補一覧。
一枚一枚丁寧に確認していく。
しばらくすると小さなカードが一枚見つかった。
「これかな」
教頭先生は眼鏡を掛け直す。
カードには写真番号と簡単な管理情報だけが書かれていた。
『写真番号 一〇七』
『提供 旧職員資料』
「旧職員資料……」
教頭先生は少し考え込む。
「卒業生じゃない。昔、この学校で勤務されていた先生の遺品整理の時に学校へ寄贈された資料だ」
「そういうことか」
俺は小さく呟く。
だから写真の裏へ先生らしい覚え書きが残っていたのだ。
「先生のお名前は分かりますか」
早苗が尋ねる。
教頭先生はカードを裏返す。
そこには小さく一行だけ書かれていた。
『寄贈 旧教諭 藤森和夫氏 遺族』
「藤森先生……」
教頭先生は懐かしそうに名前を口にした。
「私が赴任する前に退職された先生だ。」
「直接お会いしたことはないけれど、昔から熱心な先生だったと聞いている」
「もう亡くなられているんですか」
「そうだね」
教頭先生は静かに頷く。
「十年以上前になるかな。ご家族が学校へ写真や資料を寄贈してくださったんだ」
部屋は再び静かになる。
写真を書き残した本人へ話を聞くことはもうできない。
それでも一つだけ確かなことがあった。
この少女は昨日初めて現れた存在ではない。
少なくともこの写真が撮られた時代にはすでに誰かがその存在を認識していた。
「護くん」
早苗が静かに俺を見る。
「何十年も前から…あの子は先生を待っていたのでしょうか」
俺はすぐには答えられなかった。
何十年という時間は人の一生にも等しい。
もし本当に同じ子が待ち続けているのだとしたらその理由は一体何なのか。
その時、不意に教頭先生が「あっ」と小さく声を上げた。
「そういえば……」
俺と早苗が同時に振り向く。
教頭先生は少し記憶を辿るように目を細めていた。
「昔、この学校へ赴任したばかりの頃だったかな、用務員さんだったか、事務の先生だったか……誰だったかは思い出せないんだけど一年棟には先生を待っている子がいる』っていう話を聞いたことがある」
俺は思わず身を乗り出す。
「その話を覚えているんですか」
「全部じゃないよ」
教頭先生は苦笑する。
「怪談話だと思って流してしまったから。でも一つだけ妙に印象へ残っている言葉がある」
教頭先生は写真の少女を見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「『あの子は先生を探しているんじゃない。約束した先生を待ち続けているんだ。』」
その言葉を聞いた瞬間、俺と早苗は互いに顔を見合わせた。
"探す"と"待つ"は似ているようで、まったく意味が違う。
あの少女は誰でもいい先生を探していたのではない。
たった一人との約束を、何十年もの間、守り続けているのかもしれなかった。
教頭先生の言葉は資料保管室の静寂の中へゆっくりと溶け込んでいった。
『約束した先生を待ち続けている』
その一言だけで昨日の夜に感じていた印象が少し変わる。
俺はあの子を恐ろしい存在だとは思えなかった。
一年四組で聞こえた「せんせい」という小さな声も、廊下を走る白い影も、人を驚かせようという悪意ではなくただ誰かを探し……いや…待ち続けているようにしか感じられなかった。
「教頭先生」
俺は静かに口を開く。
「その話をされた方のお名前は本当に思い出せませんか」
教頭先生は申し訳なさそうに首を横へ振る。
「すまないね。さすがにもう二十年以上前のことだからね。赴任したばかりで校内を案内していただいていた時だったと思う。昔話のように聞いただけだったから、その時は深く考えなかったんだ。」
「そうですか……」
俺はそれ以上聞かなかった。
思い出せないものを無理に思い出そうとしても仕方がない。
その代わりまだ調べられるものは目の前に山ほどある。
俺は長机へ並ぶ資料へ視線を移した。
「この写真と同じ頃の資料は残っていますか、例えば学級通信や学校だよりのようなものです」
「ああ、それならあるはずだよ」
教頭先生は部屋の奥にある棚を指差した。
「年度ごとにまとめて保管している。写真と同じ年代なら……」
教頭先生は写真番号の管理カードを見直す。
「昭和五十年代前半だね。こちらだ」
三人はさらに奥の棚へ向かった。
そこには古いファイルがぎっしりと並んでいた。
『学校だより』
『学年通信』
『行事記録』
『職員会議資料』
年代順に几帳面に整理されている。
教頭先生は数冊を取り出し、机へ並べた。
「好きに見て構わないよ。ただ紙が古いから破らないようにだけ気を付けて」
「はい」
俺と早苗は慎重にファイルを開く。
紙は少し黄ばんでいるものの保存状態は驚くほど良かった。
夏の運動会。
遠足。
音楽発表会。
避難訓練。
学校の日常が一枚一枚の紙へ丁寧に記録されている。
早苗は学校だよりを読み始め俺は学級通信へ目を通した。
「護くん」
「どうした」
「昔も図書委員があったみたいです」
「本当だ」
俺も覗き込む。
図書委員おすすめの本が紹介されている。
こういうものは今と変わらない。
少しだけ親近感が湧いた。
「昔も同じだったんですね」
早苗は小さく笑う。
「そうみたいだな」
こういう何気ない記録を見ると何十年も前の子ども達も俺達と同じように学校生活を送っていたことが分かる。
授業を受け。
友達と笑い。
掃除をして。
先生へ叱られ。
放課後を過ごす。
その日常の中にあの少女もいたのだろうか。
ページをめくる。
一枚。
また一枚と。
特に変わった記述はない。
やはり学校だよりへ怪談のような話が載るはずもなかった。
俺は今度は職員会議資料へ手を伸ばす。
こちらは先生達が読むための文書らしい。
運動会の日程。
修学旅行。
予算。
施設修繕。
事務的な内容ばかりだった。
「護くん」
早苗が小さく俺を呼ぶ。
「こちらを見てください」
俺は早苗の隣へ移動する。
彼女が開いていたのは学年通信だった。
「ここです」
早苗が指差した先には学年を担当する先生方の紹介が載っていた。
担任。
副担任。
養護教諭。
その一覧を何気なく見ていた俺の目が一つの名前で止まる。
『一年四組担任 桜庭 恒一』
「一年四組……。」
思わず声が漏れる。
昨日、俺達が白い少女を見た教室。
そして写真にも写っていた一年棟。
偶然かもしれない。
それでもこの名前だけが妙に心へ引っ掛かった。
教頭先生も覗き込み、「ああ」と小さく頷いた。
「桜庭先生か」
「ご存じなんですか」
俺が尋ねると教頭先生は少し驚いたような表情を浮かべる。
「直接は知らない」
「私が赴任する前の先生だ」
「でもこの先生の名前は何度か聞いたことがある」
「子ども達から、とても慕われていた先生だったそうだ」
その一言で俺の頭の中に一つの仮説が浮かぶ。
写真の少女。
「先生」と呼ぶ声。
そして、約束を待ち続けるという噂。
まだ何一つ証拠はない。
それでも俺はその少女が待ち続けている相手へほんの少しだけ近づいたような気がした。
俺はその名前を何度も見つめていた。
『一年四組担任 桜庭 恒一』
昨日の夜、俺と早苗が立っていた教室。
そこで聞こえた小さな声。
「……せんせい。」
あの声が、ずっと頭の中で重なっていた。
「教頭先生」
俺は静かに尋ねる。
「桜庭先生は、その後どうなられたんですか」
教頭先生は少し考え込み、資料の束を見渡した。
「確か異動ではなかったような気がする、少し待っていて」
教頭先生は別の棚から『歴代教職員記録』と書かれた分厚い帳簿を取り出した。
年代順に先生方の名前と勤務期間が並んでいる。
ゆっくりページをめくっていく。
「……あった」
指が一つの名前で止まる。
『桜庭 恒一』
その横には短い記録だけが残されていた。
『病気療養のため退職』
教頭先生は静かに読み上げる。
「退職……」
俺は思わず呟いた。
「途中で学校を離れられたんですね。」
「そういうことになる」
教頭先生も神妙な面持ちで頷く。
「詳しい事情までは残っていない。昔は今ほど細かな記録を残さなかったからね」
その時だった。
早苗が机の端に置かれていた一冊の薄いファイルへ目を留めた。
「護くんこれ……」
表紙には小さく『一年四組 学級通信』と書かれていた。
年度も、桜庭先生が担任だった年と一致している。
「見てもいいですか」
教頭先生は静かに頷いた。
「もちろん」
俺は慎重にページを開く。
そこには子ども達の日常が綴られていた。
朝顔が咲いたこと。
遠足へ行ったこと。
夏休みが近付いていること。
先生らしい温かな文章だった。
読み進めていくと、最後の数枚だけ筆跡が変わっていた。
「あれ……」
早苗も気付く。
「先生が違います」
教頭先生が説明する。
「病気で休まれた後、別の先生が代わりに担任になったんだろう」
俺は最後のページを開く。
そこには代わりの先生からの短い文章が書かれていた。
『桜庭先生は、みなさんと会える日を楽しみにしていました。しかし病気が悪くなり、学校へ戻ることができなくなりました。先生から、みなさんへ「約束を守れなくてごめんね」と伝えてほしいと言われました』
俺は息を呑んだ。
約束。
その言葉を見た瞬間、昨日から繋がらなかった点と点が一つの線になった。
「約束……」
早苗も小さく呟く。
俺は静かに尋ねた。
「教頭先生、この通信……夏休み前ですね」
「そうだね」
教頭先生は日付を見る。
「終業式の少し前だ」
俺は目を閉じる。
終業式。
夏休み。
先生は子ども達へ、
「夏休みが終わったら、また会おう」
そう約束していたのではないだろうか。
でもその約束は果たされなかった。
先生は学校へ戻れなかった。
そして一人の少女だけがその約束を信じ続けた。
「……だから」
俺は小さく呟く。
「ずっと待っていたのか」
その日の夕方。
俺と早苗はもう一度、一年四組へ向かった。
夏の日差しが傾き始め教室は茜色に染まっている。
静かな教室。
昨日と同じ場所へ立つ。
しばらくすると、小さな足音が聞こえた。
廊下の向こうから小さな女の子が姿を現す。
白く透けたその姿は昨日よりも少しだけはっきり見えた。
少女は俺達を見ることなく教室の入口で立ち止まる。
「……せんせい。」
寂しそうな声だった。
早苗は胸の前で静かに手を組み風祝として祈りを捧げる。
俺は少女へゆっくり語りかけた。
「先生は……君との約束を忘れたんじゃない」
少女の肩が小さく震える。
「会いたかった。でも、会えなかった」
「最後まで、君たちへ『ごめんね』って伝えてほしいと願っていた。」
教室へ静かな風が吹いた。
窓は閉まっている。
それでも柔らかな風が少女の髪を揺らす。
早苗の優しい風だった。
少女はゆっくり俺の方を見る。
初めてその表情が見えた。
泣いていた。
何十年もの間泣くことすらできなかったような小さな笑顔だった。
「……ほんとう、本当だ」
俺は学級通信をそっと開き、最後のページを見せる。
「先生は約束を守れなかったことをずっと申し訳なく思っていた」
少女は震える手を伸ばす。
だが紙には触れられない。
それでもその想いだけは届いたのだろう。
少女は何度も小さく頷いた。
「……せんせい」
その一言にはもう悲しみはなかった。
ありがとう。
そう聞こえた気がした。
次の瞬間、教室へ一筋の夏風が吹き抜ける。
夕日に照らされた光の粒が舞い上がり少女の姿は少しずつ薄れていく。
最後に一度だけこちらへ微笑む。
そして静かに空気へ溶けるように消えていった。
教室には蝉の声だけが残る。
俺と早苗はしばらく何も言わず夕焼けに染まる教室を見つめていた。
やがて早苗が小さく笑う。
「護くん。約束、届きましたね」
俺も静かに頷いた。
「待ち続けた夏休みは、ようやく終わったんだ」
窓の外では青空の向こうに入道雲が浮かび諏訪の山から吹く風が校庭の木々を優しく揺らしていた。
その風はまるで一人の先生と一人の少女がようやく交わせた「またね」を静かに運んでいるようだった。
ここまで読んでくれてありがとうございました。
本来肝試しだけに留めるつもりでしたがここまで進んでしまいました。
肝試しだけでも楽しめたと思うのですが何か考えたいと思い今回に至りました。
夏休み編はまだ続きます。
改めてここまで読んでくれてありがとうございました