俺達は外に出ていた。
諏訪湖の湖畔公園に座る。
空は曇りだ。
でも雨が降りそうなほど厚い雲ではない。
この分なら大丈夫だろう。
湖から吹いてくる風は昼間より少しだけ涼しくなっていて、それでも八月らしい湿った空気はまだ残っている。
周りを見れば俺達と同じように花火を待っている人達が大勢いて、屋台の方からは焼きそばやたこ焼きの匂いが風に乗って流れてくる。
数時間前に戻る。
「そういえば今日はこれから花火が上がるんだ」
「二人の勝利の祝いの花火かな」
守矢神社に戻ってから神奈子と諏訪子がそんなことを話し始めた。
花火か。
そういえば今日だったか。
悪夢のことばかり考えていて完全に忘れていた。
八月に入ってから毎日のように早苗を苦しめていた夢。
その正体を調べて早苗と一緒に夢の中へ入り、ようやくあの妖を封じることができた。そんなことをしていたせいか日付の感覚まで少しおかしくなっていたらしい。
「せっかくだから行ってきなよ。これがあるからね」
諏訪子がそう言うと隣にいた神奈子が俺達の前に二枚の紙を差し出してきた。
「これって……」
受け取って確認する。
諏訪湖祭湖上花火大会。
しかも有料席のチケットだった。
「では行きませんか?」
隣から早苗が覗き込んでくる。
その顔はさっきまで悪夢について話していた時とは全然違っていて、もうすっかり花火のことで頭がいっぱいになっているようだった。
「よし、行こうか」
俺が答えると早苗は嬉しそうに笑った。
そして今に至る。
八月の今日は諏訪湖祭湖上花火大会だ。
湖上の打ち上げ台から放たれる水上スターマインや四方を山に囲まれた諏訪ならではの腹の底まで響くような大きな音が特徴で全国でもかなり大きな花火大会として知られている。
地元に住んでいる俺にとって花火大会そのものは珍しいものではない。
それでもこうして会場まで来ると普段の諏訪湖とはまるで別の場所に来たみたいだった。
「それにしても……神奈子と諏訪子はどうやってこの席を確保したんだろうか」
俺は手に持っていたチケットを改めて眺めた。
「実はお供え物にあったそうですよ」
「お供え物に…?」
「はい。神奈子様が見つけたそうです」
早苗はそう言ってから少し嬉しそうにチケットを見せる。
「しかも正面です正面」
「かなりいい席だよな、ここ」
湖がよく見える。
それどころか打ち上げ場所をほぼ正面から見られる場所だった。
高校生が気軽に買えるような席とか値段ではない。
ただ一つ気になることがある。
「しかも四枚もあったんだろ?」
「はい」
「二人はどこで見るんだろうな」
「もしかしたら、こことは別の場所で見ているかもしれませんね」
「神様なら特等席くらい自分で探せそうだけどな」
俺がそう言うと早苗が小さく笑った。
けれど俺は別のことを考えていた。
四枚…普通なら早苗に一枚でいいはずだ。
守矢神社へのお供え物として花火大会の席を渡したかったのなら現人神である早苗の分だけでも不思議ではない。
二枚なら……まあ、俺と早苗が最近よく一緒にいることを知っている誰かがいたとして俺の分まで用意してくれたと無理矢理考えることもできる。
でも四枚だ。
まるで神奈子と諏訪子の分まで数に入っているように思えてしまう。
あの二人が見える人間じゃなければわざわざ四枚にする理由なんて――。
「護くん」
「ん?」
「見てください。あっちにも屋台がありますよ」
考えている途中で早苗の声に引き戻された。
いつもより少しテンションが高い。
まあ今はいいか。
誰がお供えしたのかは気になる。
でも今ここで考えたところで答えなんて出ない。
それよりこうして早苗とゆっくり花火を見られる時間の方がずっと貴重だ。
高校生にこの座席はかなり高額なはずだからな。
早苗もそれは分かっているのか、さっきから周りを見たり湖を見たり、落ち着かない様子で楽しそうにしている。
俺達は花火が始まるまで色々な話をした。
夏休みの宿題のこと。
学校の図書室のこと。
これから夏休み中に何をするか。
神社のこと。
どうでもいい話もたくさんした。
悪夢については話さなかった。
少なくとも今だけは、話す必要なんてないと思った。
やがて空が暗くなっていく。
湖の向こうに見えていた山々も黒い輪郭だけになり会場の明かりが水面に細長く揺れている。
「護くん! はじまります!」
早苗が声を上げる。
その言葉とほとんど同時だった。
音楽が会場に響き、暗い湖面の向こうから一筋の光が夜空へ昇っていく。
一瞬の静寂。
次の瞬間、夜空いっぱいに大きな花が咲いた。
少し遅れて腹の底まで震えるような音が届く。
「うわ……」
思わず声が漏れた。
隣を見ると早苗も夜空を見上げていた。
瞳に花火の光が映っている。
次々と花火が打ち上がる。
赤、青、緑、金。
湖面にも同じ色が映り込み、水上で開く花火が湖そのものを光らせる。
その度に周囲から歓声が上がり山にぶつかった花火の音が少し遅れて何度も返ってきた。
二時間という時間、花火は夜空を彩り続けた。
その途中だった。
少しだけ打ち上げの間隔が空いた時、隣にいた早苗が俺を見た。
「護くん」
「ん?」
「改めて……助けてくれてありがとうございました」
突然だった。
俺は少しだけ言葉に詰まる。
早苗は湖の方へ視線を戻した。
「夢を見るのが怖かったんです」
静かな声だった。
「眠ったらまたあそこに行くんじゃないかって。だから夜になると少し怖くなっていました。寝ないわけにもいきませんし……朝になれば普通に起きて神社のことをして…護くんともお話しして。それなのに夜になるとまた同じ場所に戻されるんです」
俺は何も言わず聞いていた。
「それに……夢ですから誰にも助けてもらえないと思っていました」
その言葉に胸の奥が少し痛くなる。
「でも護くんが来てくれました」
早苗が俺を見る。
その時、また一発大きな花火が上がった。
夜空が白く照らされ一瞬だけ早苗の顔がはっきり見える。
「夢の中なのに護くんがいてくれて……一人じゃないって思えたんです。それがすごく安心しました」
「俺は……」
何を言えばいいのか少し考える。
大したことはしていない、なんて言ったら嘘になる。
あの夢の中で起きたことは危険だったし、俺だって怖くなかったわけじゃない。
だから俺はそのまま言った。
「俺がそうしたかっただけだよ」
「そうしたかった?」
「早苗が毎晩あんな悪夢を見てるって知ったのに放っておけなかった。ただ早苗を助けたかったんだ」
「……護くんらしいですね」
「そうか?」
「はい」
早苗が笑う。
「次からはもっと早く話してくれ」
「えっ」
「俺にできることがあるかは分からないけど、話くらいなら聞けるから。何かあれば助けるから」
「……はい」
少しだけ間を置いて早苗が頷いた。
「次からはちゃんと護くんに話します」
「ありがとうそうしてくれ」
「約束です」
「ああ」
その直後、何発もの花火が一斉に打ち上がった。
夜空いっぱいに広がる光を俺達は並んで見上げる。
つい昨日まで悪夢の中を歩いていたなんて嘘みたいだった。
目の前にあるのは夏の夜の諏訪湖と、花火と、その音に負けないくらいの人々の歓声だけだ。
やがて最後の花火が夜空いっぱいに広がった。
光が消えた後もしばらく煙だけが空に残っていた。
花火大会が終わり、俺は早苗を守矢神社まで送っていった。
「今日は安心して寝られそうです」
石段の前で早苗が言った。
「よかった」
「はい。本当に久しぶりに何も気にしないで眠れそうです」
そう言ってから早苗は俺に頭を下げる。
「護くん、ありがとうございました」
「もういいって。何回目だよ」
「何回でも言いますから」
「そうか」
俺が笑うと早苗も笑った。
「じゃあ、また明日」
「はい。また明日です、護くん」
俺は早苗が境内へ入っていくのを確認してから家へ帰った。
その日の夜、夢は見なかった。
そして次の日、俺は再び守矢神社を訪れていた。
悪夢の一件は終わった。
もう一つだけ問題が残っている。
妖を封じた壺だ。
今は守矢神社で一時的に保管してもらっている。
封印自体は問題ない。
それでもこのままずっとここに置いておくわけにはいかないだろう。
「どうしましょうか」
早苗と二人で壺を前にして考える。
「すまん、まず俺の家に持って帰るのは出来そうにない…」
父に見つかったら何を言われるか分かったものじゃない。
それ以前に妖を封じた壺を自分の部屋に置いて生活したいとも思わない。
守矢神社なら安全だとは思うが…でも早苗を襲った妖をいつまでも早苗の生活する場所に置いておくのも嫌だった。
そうなると一つしか思いつかない。
俺と早苗は再び末広商店街へ向かった。
目的地は金物屋にいるだろうあいつだ。
「いらっしゃ――…って、また祓い屋じゃん今度はなに??!」
店番をしていた多々良小傘が俺を見るなりそう言った。
「その呼び方やめろって」
「でも祓ってるじゃん!」
「祓い屋として仕事してるわけじゃないからな」
「細かいなぁ」
小傘は笑っていたが俺が持っている壺を見ると表情を変えた。
「祓い屋、それ使ったんだ」
「やっぱり分かるのか」
「そりゃ私が渡したものだからね」
俺は壺を店の台に置いた。
そして前から気になっていたことを聞く。
「そもそもなんでお前が妖怪を封印する壺なんて持ってるんだ?」
「そうだね。そういえば話してなかったね」
小傘は少し考えてから口を開いた。
「実は祓い屋が以前ここに来たことがあってさ」
「祓い屋……?」
俺は思わず聞き返した。
「うん。その祓い屋がね、手に負えない人に手を出す妖怪がいたらこれに封じてくれればいいって。私でも別の誰かでもいいから使ってって」
その言葉を聞いて俺は黙った。
「護くん?」
早苗が俺の顔を見る。
「どうしたんですか?」
「……小傘」
「なに?」
嫌な予感がした。
いや、たぶん嫌な予感というより俺は知っていた。
現役の祓い屋という人間がどういうものなのか。
「もしかしてだが…封じた妖の壺を買い取れって言われてるか?」
小傘の顔が少しだけ気まずそうになる。
「……金物屋だからね」
そう言って頷いた。
やっぱりか。
タダ働きする祓い屋は少ない。
もちろん人助けだけを目的に動く奴がいないとは言わない。
名を売るために無償で仕事を引き受ける新米だっている。
俺みたいな奴もその中に入るのかもしれない。
…俺はまだ祓い屋とすら呼べないか。
家に祓い屋の血が流れていて祖父から少し教わって蔵に残されたものを使っているだけだ。
それでも分かる。
わざわざ妖怪に封印用の壺を渡して誰かが妖を封じることまで想定している人間がただの善意だけでそんなことをするとは思えない。
相手は現役だ。
しかも妖怪にまで道具を預けられる程度にはこの世界の事情を知っているという相手だ。
俺は壺を見る。
これを小傘に渡していいのか。
でも守矢神社に置き続けるのは嫌だ。
俺の家なんて論外。
どうする…?
「護くん」
早苗が言った。
「渡しましょう」
「早苗……」
「私はそう思います。でも」
早苗は一度言葉を切った。
「護くんが決めてくれても全然構いません」
早苗はそれ以上何も言わなかった。
どうしてほしいのかも言わない。
俺に任せるということなんだろう。
「……分かった」
俺は壺から手を離した。
「渡すよ」
「いいの?」
「ああ。ただし一つ条件…いや条件というか頼みがある」
俺は小傘を見る。
「教えてほしい。これをお前に渡した祓い屋は誰だ」
すると小傘は「ああ、それなら」と意外なほどあっさり答えた。
「渡してくれたら教えていいみたいなんだ」
「……それも言われてたのか?」
「うん。それとこれも」
小傘が店の奥へ引っ込む。
少しして戻ってきた小傘の手には封筒があった。
妙にすごい分厚いぞ。
これは…もしや。
「はい」
「なんだこれ」
「報酬」
「報酬?」
小傘から封筒を受け取る。
「ずいぶん分厚いですね……」
早苗が隣から覗き込む。
俺も封筒を開けた。
「…………」
「…………」
中には札束が入っていた。
とんでもない額だ。
なにこれ…。
俺はそっと封筒を閉じた。
「うわゎ……」
隣から早苗の声が聞こえた。
たぶん俺も似たような顔をしていたと思う。
いや、ほんといくらあるんだこれ。
高校生が気軽に受け取っていい額じゃない。
それくらいは数えなくても分かる。
「小傘」
「なに?」
「悪い。これはさすがに受け取れない」
俺は封筒をそのまま返した。
「私もこれはちょっと……」
早苗まで一歩引いている。
「いいの?」
小傘が首を傾げた。
「あぁ…」
札束の入った封筒を見る。
金が欲しくないと言えば嘘になる。
高校生だぞ。
欲しいに決まっている。
でも。
「あの妖を封じたのは金を稼ぐためじゃない」
俺は隣にいる早苗を見る。
「早苗を守るためにやっただけだから」
「護くん……」
「だからこれは受け取らない」
小傘は俺をじっと見ていた。
もしかしたらこうなることも予想されていたのかもしれない。
俺が金を受け取るのか、壺を渡すのかも。
そして誰がこんなものを小傘に預けたのか質問することまで。
そう考えると気味が悪くなってくる。
やがて小傘は封筒を引っ込めた。
そして壺を受け取る。
「分かった」
小傘はそう言った。
「じゃあ名前だけ教えるよ」
俺は黙って次の言葉を待った。
「私にこの壺を渡したのは――物部家って言う祓い屋だよ」
その名前を聞いた瞬間。
俺は言葉を失った。
「物部家……?」
早苗は知らないらしく小さく首を傾げている。
でも俺は知っていた。
知らないわけがない。
祓い屋の家に生まれた人間なら、一度くらいはその名前を聞く。
東海地方の主に岐阜を中心に活動している、今も妖祓いを生業として続けている現役の祓い屋。
家そのものが一つの大きな組織として動いている巨大名家だ。
俺の祖父が生きていた頃にもその名を聞いたことがある。
今も祓い屋であり続けている家だ。
「護くん……知っているんですか?」
早苗が俺を見る。
「ああ」
俺は小傘が受け取った壺を見る。
どうして物部家が小傘にこんなものを渡した?。
どうして妖を封じた人間に金まで払う?。
そして――ふと四枚の花火大会のチケットが頭をよぎった。
それはいくらなんでも考えすぎか…。
「護くん?」
「大丈夫だよ」
俺は首を振った。
今はまだ分からないことばかりだ。
だったら考えても仕方がない。
悪夢は終わった。
早苗はもう眠ることを怖がらなくていい。
それで十分だ。
「帰ろう、早苗」
「はい」
俺達は小傘に別れを告げて金物屋を出た。
外にはいつもの夏の商店街が広がっていた。
蝉が鳴いている。
照りつける日差しは相変わらず暑くて、昨日の夜に見た花火なんてずっと前のことだったように感じる。
「護くん」
隣を歩く早苗が声をかけてくる。
「なんだ?」
「今日ちゃんと眠れました」
「お、そうか」
「はい。夢も見ませんでした」
その言葉を聞いて、俺はようやく今回のことが本当に終わったのだと思えた。
「ならよかった」
「はい」
早苗が笑う。
俺達はいつもの道を歩いていく。
夏休みはまだ続く。
昨日まで悪夢だ妖だと騒いでいたのに終わってしまえばいつもの日常だ。
明日も守矢神社へ行く。
早苗と話して神奈子と諏訪子に何か言われて、暑いだの宿題がどうだの、そんな話をするんだろう。
それでいい。
それが一番いい。
物部家か…。
その名前だけがどうしても頭の片隅に残っていた。
ここまで読んでくれてありがとうございました。
夏の魔の夢編おしまいです。
夏ということもあり、戦時が終わった季節でもあり今回この話しを考えました。
この物語の最後をどうしようかと考えていたのですが花火が上がるということでこの最後にしました。
物語はまだまだ続きます。
ここまで読んでくれてありがとうございました。