守矢神社へ続く道を歩いていると、頭上から聞き慣れない羽音が聞こえてきた。
ぶぅん、とそれなりに大きな音がして、反射的に足を止める。
「……ん?」
見上げた直後、俺の真上を一匹の蜂が通過していった。
黄色と黒の細長い身体。飛び方といい見た目といい、たぶん見間違いじゃない。
「アシナガバチ……?」
夏なら蜂の一匹くらい飛んでいても別におかしくはない。
山も森も近い神社なら尚更だ。
俺も最初はそう思って、そのまま階段を上がろうとした。
だがもう一匹。
さっきと同じ方向から飛んできた蜂が俺の頭上を通過していく。
「…………」
さすがに気になった。
飛んでいった方向ではなく、飛んできた方向を見る。
そこには守矢神社の鳥居がある。
何度も通っている見慣れた鳥居。
けれど下から見上げて目を凝らしてみると、その上の方に今まで見覚えのなかったものがくっついていた。
灰色っぽい、小さな塊。
まだそれほど大きくない。けれど形には見覚えがある。
「……蜂の巣じゃん」
思わず声に出た。
しかもよりによって鳥居の上だ。
これが境内の隅にある木の枝ならまだしも参拝客が必ずと言っていいほど下を通る場所である。
今は巣が小さいから蜂の数も多くないようだがこのまま放っておいて大きくなったらさすがにまずい。
俺は鳥居の真下から少し離れると蜂を刺激しないようにその場を離れて神社へ向かった。
「早苗ー」
境内で掃除をしていた早苗が俺の声に気付いて振り返る。
「護くん、こんにちは」
「こんにちは。……早苗、ちょっと聞きたいんだけどさ」
「なんでしょう?」
「鳥居の上に蜂の巣あるの知ってた?」
「…………え?」
箒を持ったまま早苗が固まった。
どうやら知らなかったらしい。
「蜂の巣ですか?」
「ああ、まだ小さいけどな。さっき俺の頭の上をアシナガバチが飛んでいって気になって見たら鳥居の上にあった」
「そんなところに……」
早苗が驚いた顔で鳥居の方を見ると縁側にいた神奈子と諏訪子も話を聞きつけたらしい。
「蜂の巣?」
神奈子が眉を上げる。
「それはなんとかしないとか」
「参拝客が来なくなるー……」
諏訪子がこの世の終わりみたいな声を出した。
「いや、まだそこまでの大きさじゃないけど…」
「大きくなってからじゃ遅いだろ?」
「参拝客が鳥居をくぐろうとしたら頭の上から蜂だよ? 守矢神社は蜂に襲われる神社だなんて噂になったらどうするのさ」
「そんな噂が広まる前になんとかするよ」
とにかく一度全員で見てみようということになり俺達は鳥居まで戻った。
少し離れた場所から見上げる。
「あ、本当ですね」
早苗もすぐに見つけた。
鳥居の上、それも簡単には手の届かない高い位置に巣が作られている。
まだ作り始めたばかりなのか完成した大きな蜂の巣とは程遠い。
蜂も数匹が周囲を行き来している程度だった。
「どうしましょう」
早苗が腕を組んで考え始める。
「高いねぇ」
「脚立を使って近付くのも危ないな」
神奈子と諏訪子も見上げながら話している。
俺も何か方法がないか考えていると隣にいた早苗が突然しゃがみ込んだ。
「……早苗?」
「はい?」
何食わぬ顔で立ち上がった早苗の右手にはちょうど手のひらに収まりそうな石が握られていた。
「待て待て待て」
「なんですか?」
「その石をどうするつもりだ」
「投げます」
即答だった。
「投げるなやめろ」
「どうしてですか?」
「どうしても何もないだろ…」
早苗は不思議そうな顔で鳥居の上の蜂の巣を指差す。
「当たれば落ちます……!」
「当たっても次は俺らが危ないし、外れたら鳥居に傷がつく」
「…………」
早苗が石を見る。
それから鳥居を見る。
もう一度石を見る。
「……駄目ですか?」
「駄目です」
「結構自信あるんですけど」
「そういう問題じゃない」
後ろで諏訪子が笑いを堪えていた。
「早苗、意外と豪快だね」
「諏訪子まで煽るなよ」
「私は褒めてるんだけど」
「なお悪い」
早苗は少し残念そうな顔をしながら渋々持っていた石を元の場所へ戻した。
とはいえこのまま放置するわけにもいかない。
俺はもう一度鳥居を見上げた。
場所は高い。
ただ、真下から直接手を伸ばす必要はないかもしれない。
それに今は昼間だ。
蜂も活発に動いているし参拝客もいる。
なら…
「……夜にするか」
「夜ですか?」
「ああ。鳥居を夜に掃除しよう」
早苗が首を傾げた。
「どうやって掃除を?」
「ホースだ」
「ホース?」
「神社の水道にあるだろ。あれをここまで引っ張ってくる」
俺は鳥居の上を指差した。
「水道のホースの水で鳥居の上まで濡らして水が当たらない場所もこれで濡らすんだ。夜なら昼より蜂は大人しい。それに羽が濡れれば蜂は飛びにくくなる。巣がまだ完全に出来上がってない今のうちなら、水流で崩せるかもしれない」
「なるほど……」
早苗は納得したように頷く。
その横で神奈子が笑った。
「要するに鳥居ごと水浸しにするってことかい?」
「言い方」
「面白そうじゃん!」
諏訪子が急に元気になった。
「遊びじゃないからな」
この時点で少し嫌な予感はしていた。
そして夜。
境内から昼間の暑さが少しだけ引き、辺りが暗くなった頃、俺達四人は再び鳥居の前に集まっていた。
神社の水道から引っ張ってきた長いホース。
その先端を持っているのは神奈子だった。
「なんで神奈子が持ってるんだよ」
「いいだろ別に」
「私もやりたい!」
「諏訪子まで……」
「護くん、私もやりたいです」
「早苗まで!?」
なんなんだこの三人。
蜂の巣をどうにかするだけだったはずなのに、いつの間にか夏の水遊びみたいな雰囲気になっている。
「とにかく蜂を刺激しすぎないようにな。巣の真下にも行かない。危ないと思ったらすぐ離れるから」
「はい!」
「分かってるよ」
「任せなさい!」
一番不安になる返事をした神奈子が水道を開く。
勢いよくホースから水が飛び出した。
「おお!」
諏訪子が歓声を上げる。
「もっと上!神奈子、もっと上だよ!」
「分かってるって!」
水流が鳥居を駆け上がり、夜の暗がりの中で水飛沫が散った。
最初は巣の少し下に当たった。
「惜しい!」
「神奈子、もうちょっと右です!」
「早苗も楽しんでるだろこれ!」
「そんなことありません!」
絶対楽しんでいる。
もう一度水が飛ぶ。
今度は鳥居の上を越えた。
さらに角度を調整する。
三度目。
勢いのある水流が蜂の巣を直撃した。
「あっ!」
早苗が声を上げる。
まだ小さく、作りかけだった巣が大きく揺れた。
もう一度水が当たる。
巣の一部が崩れる。
「もう一回!」
「神奈子!」
「分かってるよ!」
再び放たれた水流が巣に当たり、とうとう鳥居から剥がれた。
小さな蜂の巣が水と一緒に吹き飛び、地面へ落ちる。
「おおー!」
諏訪子が拍手した。
「やりました!」
早苗まで拍手している。
幸い巣には蜂がそれほど多くいなかったらしく周囲が蜂だらけになるような事態にはならなかった。
飛べる蜂も俺達から離れるように暗闇へ消えていったのでしばらく様子を見てから落ちた巣には近付かないようにしておく。
「これで終わりだな」
俺がそう言った瞬間だった。
「せっかくだし鳥居も洗っちゃおうか」
神奈子が言った。
「え?」
「もう濡れてるんだし」
「それもそうだね!」
諏訪子が賛成する。
「では掃除しましょうか」
早苗まで頷いた。
「……まあ、確かに」
結局そのまま鳥居の掃除が始まった。
神奈子が上の方へ水をかけ諏訪子が横から指示を出し早苗が下の方を流していく。
「神奈子、そこ汚れてる!」
「ここか?」
「もう少し左!」
「こっち?」
「行き過ぎ!」
「注文が多いねぇ!」
「早苗!そっち水行くよ!」
「はい!」
「いや待て早苗こっちに水向けるな!」
「わっ、ごめんなさい護くん!」
危うく俺まで掃除されるところだった。
夜の守矢神社に水の音が響く。
鳥居から流れ落ちる水が月明かりを反射し、昼間より少し涼しくなった風が濡れた地面の上を通り抜けていった。
蜂の巣をどうにかするだけのつもりだったのに気付けば鳥居は普段より綺麗になっている。
「うん、綺麗になったね」
神奈子が満足そうに鳥居を見上げる。
「これなら参拝客も安心だ!」
諏訪子も胸を張った。
早苗も隣で嬉しそうに頷いている。
「良かったですね、護くん」
「まあな」
確かに結果だけ見れば大成功だった。
蜂の巣はなくなった。
鳥居も綺麗になった。
誰も蜂に刺されていない。
ただ俺は水浸しになった鳥居と満足そうな三人を見ながら一つだけ思う。
「……まあ良い子はマネどころか……本来なら業者を呼ぼうな……」
「今更それ言う?」
諏訪子が笑う。
「終わってから言うことじゃないね」
神奈子まで笑う。
「でも護くんが考えた方法ですよ?」
早苗にまで言われた。
「それはそうなんだけどさ……」
何も言い返せなくなった俺の頭上を夏の夜風が静かに通り抜けていく。
綺麗になった鳥居からはさっきまで蜂の巣があったことなんてもう分からない。
守矢神社の夏の一日は、こうして少しだけ騒がしく終わった。